ダイアル ヒ・ス・ト・リー

劇場公開日:

解説

マス・メディアとテロリストの確執と共犯関係を皮肉的に描いたスリリングな視点と、そのユニークなサンプリング手法で世界各国の映画祭・美術展にて、コンテンポラリー・アート作品として評価を得たドキュメンタリー作品。監督はヨハン・グリモンプレ。

1997年製作/68分/ベルギー・フランス合作
原題または英題:DIAL H-I-S-T-O-R-Y
配給:イメージフォーラム=ダゲレオ出版
劇場公開日:2003年10月24日

ストーリー

「ハイジャックの年代史」。1931年、記録に残る最初のハイジャックが起こる。ペルー人革命家らがパンナム航空機を奪取し、パンフレットをリマ上空にばら撒いた。1947年─1958年、プロペラ機時代。「鉄のカーテン」越えは、西から東、東から西いずれの場合も非難を集めた。1947年7月、戦後初のハイジャックが起き、ルーマニア人たちが西側へ渡る。1948年9月、初の東西冷戦「鉄のカーテン」越えハイジャック。それに対し西側諸国では賞賛の声はなかった。1958年2月17日、ジェット機時代突入。それと同時に新語「ハイジャック」が誕生する。共産シンパが北朝鮮へ38度線越えをする。これを受けて、英タイムズ誌が「ハイジャック」という言葉をつくりだした。1958年、新ゲリラ戦略の時代。カストロ主義者たちが権力を目指してハイジャック。カストロ主義者たちは、ハイジャックをゲリラ戦略として採用。以降数年間にわたり、100機近くの飛行機がキューバへ行き先を変更し、キューバはハイジャッカーたちの港となった。1959年、<ブーメラン>。難民たちが飛行機を乗っ取ってキューバを脱出。アメリカ合衆国が、初めてハイジャック犯を政治亡命者として受け入れた。1961年─1972年、<ブーメラン2>。ホームシックに駆られた大勢のキューバ人たちが、数珠つなぎでハバナに向けてハイジャックした。1968年、パレスチナ人によるハイジャック戦争が勃発。1967年の6日間戦争で、70万人のパレスチナ人が家をなくした。1968年7月23日、パレスチナ人民解放戦線(PFLP)は領空権を主張し、イスラエル航空機を奪取しアルジェへ向かった。1969年、ハイジャック・イン。キューバ人たち、食事とワインでアメリカ人を歓待する。1969年には、ハバナ空港内のレストランやギフト・ショップが、ハイジャックによって予期せずも連れてこられた大量の乗客たちのために事業を拡大。空港使用料が増大し、不意なカリブ旅行を受け入れるため滑走路が拡大された。そこで、あるパターンが生まれた。ハイジャッカーたちはハバナのシボネイ地区にある、カーサ・デ・トランジトス(ハイジャッカーの家)で寝泊まりをする。パイロットや乗組員は簡単な休憩を取り、シガーをふかしたあと、空になった飛行機でアメリカへ帰っていく。キューバ人たちはアメリカ人観光客をワインと食事で歓待し、社会主義国キューバの観光ツアーへ連れ出す。旅行についてきた不意なおまけも終了し、大体において楽しんだ観光客たちは、ラム酒や葉巻、革命文学の本やソンブレロ、チェ・ゲバラの写真などを抱えて、アメリカへ帰っていくのだった。1969年12月28日、イスラエル特殊部隊がベイルート空港に集結し、PELPによるイスラエル航空ボーイング707に対する攻撃の報復として、13機のアラブ系ジェット機を爆破した。1969年8月29日、ライラ・ハリドはアメリカTWA機をローマから出発させ、占領された自分の故郷、パレスチナ上空を7分間旋回させる。1969年11月1日、初の大西洋間ハイジャック。ヴェトナム帰還兵ラファエル・ミニチェッロがアメリカの定期航空便をハイジャックし、ローマへ飛ぶ。このハイジャックは、イタリアでベスビオス火山噴火以来のエキサイティングな出来事だと讚えられた。アメリカ帝国主義者たちに戦争マシーン化された被害者として熱狂的に受け入れられ、彼は突如セレブとなった。彼には求婚者が殺到し、映画女優の卵やモデルたちが涙ぐんで想いを訴え、彼にはマカロニウエスタン映画の主役の誘いまであった。そして、いよいよ激動の70年代へ。この歴史は2001年9月11日に向かう……。

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