「ハリウッドのイギリス人」海外特派員 津次郎さんの映画レビュー(感想・評価)
ハリウッドのイギリス人
「いいやつだけどパーティーに呼びたくなるやつじゃない」
ハワードヒューズ(ハワードホークスだったかもしれない)が、ハリウッド進出をはたしたアルフレッドヒッチコックをパーティーに招待した際、かれについてそんな感想を残したという逸話が残っている。
映画オタクだったヒッチコックにとっては、ハリウッドのどんちゃん騒ぎに参加して、大きな身体を持て余すより、独りで映画の構想を練っているほうがよっぽど楽しかったに違いない。
この発言は一般にヒッチコックの人嫌いを象徴するエピソードとして、世に知られている。ただし、ヒッチコック当人には願ったりな風聞だった。人々にヒッチコックが「人嫌い」と周知されれば、面倒な交際を回避できるからだ。
言うまでもないが、人付き合いを煩わしいと思っている多くの人々にとって、新型コロナウィルス禍には僥倖の側面がある。
経済的な打撃から免れている職種・稼業ならば、パンデミックが都合のいいことずくめだった可能性さえある。
おそらく「飲みに誘われたくない」は、それを苦手とする庶民のポピュラーな悩みであると思う。その悩みが新型コロナウィルスによってなくなった。
平常時には、なんとか飲み会嫌いのキャラクターを認めさせるような、涙ぐましい小細工をしたこともある。が、飲みには誘われたくはないものの、変な奴とか、排他的な印象は避けたい。仲間はずれは困るわけ。である。
一定の社会性を認知させつつ、飲みにだけは誘われない、そんな人物を目指していた──のである。それは特殊な渡世術だろうか?きっと多数、心当たりがあることに違いない。「パーティーに呼びたくなるやつ」ではなくても「いいやつ」ではありたかったのだ。
ヒッチコックのアメリカ時代はレベッカと本作によって幕をあける。
当時、イギリスからやってきた気鋭の作家、鳴り物入りでデビューしたヒッチコックに、ハリウッドは興味津津だった。とうぜんパーティに招かれるような歓待もあっただろう。だけど、そんなやつじゃなかった──が冒頭で紹介したエピソードである。
パーティーに呼びたくなるやつ──ではなかったが、そのあとヒッチコックの快進撃は知っての通り。である。パーティーの人気者にはなれなくても、映画の歴史に名を残した。
こんにちでは、ヒッチコックが、鷹揚な楽しい太った小父さん──ではなかったことが、知られている。ひねくれた、嫉妬深い天才だった。
海外特派員が、あざといほどのアメリカ賛歌になっているのは、ハリウッドでの活動をスタートさせたヒッチコックの野望──ここ(ハリウッド)で一旗揚げてやるぞというギラギラした野心──を物語っている。
位置的に地味な作だが、手堅くて陽気。教訓的で国策映画のようでもあった。
ところで。
小市民の漠然とした不安だが、禍が収束し平常時に戻ったとき、顔を隠せる(なにかと便利な)マスクをしないで外を歩けるだろうか?
ふたたび社交的な生活をやっていけるのだろうか?
近い将来、多くの人々が「いいやつだけどまだウィルス禍下にいるようなやつ」というストレス障害を抱えてしまうような気がしている。