「風と共に去りぬ ('39)」の大者プロデューサーであるデヴィッド・O・セルズニックが翌年の1940年に製作した「レベッカ ('40米=セルズニック・インターナショナル)」の監督として起用されたアルフレッド・ヒッチコック。ダフネ・デュ・モーリアのゴシックロマン長編小説が原作だけに、英国調のムードを上手く出しながらも、セルズニックの下では、ヒッチコック自身が好きなように撮れる作品ではなかったことが知られている。
対して、渡米第2作目の「海外特派員」は、ジョン・フォード監督の「駅馬車 ('39)」や「果てなき線路 ('40)」の製作者として知られるウォルター・ウェンジャー・プロの作品である。当初、ヒッチコックは、主役にゲイリー・クーパーを起用したかったのだが、当時のハリウッドでは英国とは異なり、この手のスパイ物のサスペンス映画自体がB級ジャンルとみなされていた為に、クーパーから出演を断られてしまっている。結局、主役にはジョエル・マクリーが起用され、相手役の女優もほぼ無名に近いラレイン・デイに決まり、B級ランクの作品となった。しかしながら、これによって「レベッカ」製作時とは異なり、かなりの権限を手に入れたヒッチコックとしては、自分がやりたいことが出来た訳であり、結果的に映画ならではの魅力に溢れた傑作に仕上がった。
「海外特派員」は、1940年代に撮られた計13本のヒッチコックの長編作品の中でも、映画ならではの面白さという点ではNo.1と言ってもよい。この当時のハリウッドで、数多く作られた戦意高揚映画の一本であるにもかかわらず、これほどまでに見事な出来栄えのサスペンス映画は他には見当たらない。この映画における敵側のスパイや暗殺者はナチスドイツであるにもかかわらず、この映画がナチスドイツの勢力拡大に貢献した政治家ゲッべルスのお気に入りの映画だったということからも、政治的な問題とは関係なく、ただただ純粋映画として、如何に良く出来ていたかが分かる逸話である。
名場面が目白押しという点では、後年に作られた巻き込まれ型サスペンス映画の集大成であり、且つA級メジャー作品である「北北西に進路を取れ ('59米=MGM)」に匹敵する程だ。
雨のアムステルダムで開かれる平和会議の会場前での暗殺事件、傘の波を掻き分けて逃げる犯人、それを追うマクリー演じる特派員。
そのままカーチェイスのアクションに発展し、街を出て郊外に入るや、オランダならではの風車小屋が視界一杯に拡がるシーンに繋がる。行方をくらました暗殺者を乗せた車。マクリーの後に続いて来た警官隊は皆、先へと進む。マクリー、デイ、彼女の友人の記者スコット(ジョージ・サンダース)の三人が車から降りての会話のシーン。一陣の風が吹いて飛ばされた帽子を拾いに池に向かって走るマクリー。その時、風車の動きが止まり、逆方向に回転し始めたことに気付くマクリー。これを伝えに戻るも、笑って信じてくれない二人。マクリーのみがその場に残り、デイとサンダースは車で警察の後を追う。するとまた風車の動きが止まり、風向きとは逆に動きだす。ハッとして二人に声を掛けようにも、既に彼等を乗せた車はその場を去って遠ざかっており。こんな展開が、全て主人公のマクリーの表情を捉えたショットと彼の視線となって描かれる対象を捉えたショットとの繰り返し、所謂リアクション・ショットで語られていく。
実際に、ロンドンやオランダに第二班撮影スタッフを送り込んでいるとはいえ、大半が1940年のハリウッドで撮られたとは思えないくらい欧州的な雰囲気がよく出ている。特に、前記の風車小屋の外部及び内部の美術装置の仕上がりが素晴らしく、撮影も見事だ。美術監督が、「来たるべき世界 ('36)」のウィリアム・キャメロン・メンジースとアレクサンダー・ゴリッツェンで、撮影監督が、デンマーク映画界の巨匠カール・ドライヤーの「裁かるるジャンヌ ('28)」、「吸血鬼 ('32)」のカメラマンで、1930年代半ばにハリウッドに渡ったオーストリア(現ポーランド)出身のルドルフ・マテなのである。ドライヤーの「吸血鬼」にも不気味な風車小屋のシーンがあり、強烈な印象を残しているのだが、同じ撮影監督が8年後のハリウッドで、更に見事な風車小屋シーンを撮影していたことが分かる。更に脚本家に目を転じると、シナリオライターのチャールズ・ベネットとジョーン・ハリソン女史は、英国時代からヒッチコックと仕事をしている常連スタッフであり、また台詞を担当しているのが、英国の小説家で「失われた地平線」や「チップス先生さようなら」が有名なジェームズ・ヒルトンと映画「ジョーズ ('75)」の原作者として有名なピーター・ベンチリーの祖父に当たる小説家、コラムニスト兼俳優として活躍したロバート・ベンチリー(本作にも脇役として登場)と言った超A級のスタッフなのである。
この映画、脇役もなかなか素晴らしい名優揃いで、ジョージ・サンダース、ハーバート・マーシャル、エドマンド・グウェンが英国人、誘拐されるオランダの外交官ヴァン・メア役を演じているのが、亡命ドイツ人俳優のアルバート・バッサーマンであり、やはり欧州色を上手く出している。
映画のクライマックスとなる撃墜された旅客機が海に墜落するシーンが凄い。コックピットからフィックスで、海面が近づいて来て、墜落し、フロントガラスが割れて海水が機内に一気に流れ込むまでをカットを割らずにワンショットで捉えている。またその後の機内から脱出して、荒れ狂う海に浮かぶ機体に乗客が乗り移るシーンもリアルで素晴らしいのだが、これらは撮影所のプール内に組まれたセットであり、背後の海のシーンは当然スクリーン・プロセスであることは分かっているのだが、余りにも見事な合成で、本物の海で撮影している様に見えるのだ。実際に映画館(八重洲スター座)のスクリーンで観た印象である。
さて、主役のジョエル・マクリーとラレイン・デイは、B級映画の俳優のようなことを言ったが、決して悪い訳では無い。特に、マクリーは自然体で、所謂演技っぽい演技をしないところが良いのとシリアスになり過ぎず、ユーモラスな面も出していてなかなか良かった。後日談として、ゲイリー・クーパーが『あの時「海外特派員」への出演を断ったことを今でも後悔している。』とヒッチコックに言ったことを、「映画術 ヒッチコック/トリュフォー (晶文社)」の中で、ヒッチコック自身がトリュフォーに自慢げに語っていたのが印象的だった。