最後の一兵までのレビュー・感想・評価
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あるべき将校、あるべき兵隊
あるべき将校、あるべき兵隊の姿を描いた映画。入念に計画する司令部の参謀たちや勇敢に戦う兵士たちの姿がよく描かれています。筋立てとしては勝利のために自己犠牲を厭わない勇士たちの物語です。古い映画ですが飽きずに見られました。
ホロコーストなどナチスの悪行はともかく、ドイツの一兵卒はこのような姿を理想として勇敢に戦ったのかもしれません。この物語のようなことが起こらないことを祈りますが、もし侵略戦争ではなく、自国が侵略されたのだとしたらこのような自己犠牲も称賛されることなのかもしれません。
ナチスドイツのプロパガンダ映画の、負の遺産にみる戦争の愚かさ
強弁な映画だ。ナチスのプロパガンダとして制作されただけに、戦争肯定の確信的立場の意気込みは、戦争の実体を知る由も無い者にも強烈な印象を残す。日本公開の1940年、開戦直前の日本人は、強硬な敵軍攻撃を遂行するドイツ軍司令部や一部隊の犠牲の内容を観て、既に国家総動員法に統制された覚悟や義務、そして責任を再認識せざるを得なかっただろうか。時代の証明としてキネマ旬報ベストテンでは、戦前最後の外国映画の選出で第4位の評価を記録している。真珠湾攻撃直前まで映画上映をしていた状況下でも外国映画は数が限られていたと想像するが、国威発揚や民族主義に偏った内容は別にして、作品の出来としては平均の域を脱していて、決して駄作ではない。当時のナチスが遺した負の遺産としての記録性の価値は充分あると思う。
物語は、第一次世界大戦末期の西部戦線におけるイギリス軍の(迷路)と呼ばれた頑強な陣地に対抗する”ミヒャエル計画”が軸になっている。主人公のひとりは、参謀本部でその計画の策略を練るツァ・リンゲン少佐(マティアス・ヴィーマン)で、彼の命令を受けていた37突撃隊の指揮官が負傷してしまい、急遽代役として念願の前線に送られることになる。司令官(ハインリッヒ・ゲオルク)の反対を押し切っての決断であり、リンゲン少佐の頭脳明晰を高く評価する司令官の葛藤が描かれる。そして、リンゲン少佐率いる37突撃隊は、イギリス軍の先制攻撃に遭い四方を包囲されて身動きが取れなくなる。膠着状態を打破する唯一の方法は、37突撃隊もろとも一気に集中砲火する作戦に追い詰められる。リンゲン少佐は、その作戦に同意して司令官に命令を促す。彼は、軍人として、またドイツ国民として任務の遂行を願い死を覚悟する。司令官は、悲痛な面持ちで作戦命令を出す。作戦は成功しドイツ軍の勝利に終わるが、そこに最期を遂げたリンゲン少佐の知らせが届く。ラスト、司令官は「我々の価値は、犠牲の深さによって計られるのだ」と呟くのだ。この台詞が、この映画のすべてを語っていると云える。
結局は第一次世界大戦に敗北したドイツが再び戦争を引き起こし、その戦意高揚の為に過去の失敗の犠牲を描く暗鬱さが、ただ残るだけなのだが。そこに勝利の予感はない。敗戦の結果を知っているからではなく、映画全体が悲壮感に包まれていて、希望がないからである。思えば、日本軍の大東亜戦争末期も、そのような投げやりな戦略と追い詰められた使命感に包まれていたのではないだろうか。人間の価値を犠牲の深さに当てはめる時点で、戦略として終わっている。それが戦争の愚かさと肝に銘じるべきである。
1976年 7月8日 フィルムセンター
このカール・リッター監督の演出は、ドイツ映画の特長を持っていて感心したが、同じ年に制作された「誓いの休暇」の方が秀作だった。ソビエト映画のグリゴーリ・チュフライ監督の名作と同じ題名の日本未公開作である。軍部の検閲に引っ掛かりお蔵入りになってしまったが、どうしてももう一度観たい作品にある。主人公プレトリウス少尉の恋人インゲを演じたインゲボルク・テークに会いたい。彼女の美しさに一目惚れした青春時代の淡い記憶が今でも忘れられないでいる。
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