「手塚治虫先生のコマ割りを観ているようで、途中からはのめり込む。」メトロポリス(1926) とみいじょんさんの映画レビュー(感想・評価)
手塚治虫先生のコマ割りを観ているようで、途中からはのめり込む。
Wikiによると、手塚先生はこの映画を観ていらっしゃらないようなのだが。
映画.comの作品解説では上映時間は108分とあるが、私が鑑賞したDVDは2時間30分30秒の完全復元版。
いろいろな理由で、監督の監修なしにかってに編集され、ドイツ国外に配給され、ドイツ国内にも短縮版が再配給されたのだとか。著作権ないんだ。
それが映画研究者たちの努力により、失われた映像を集め、今の技術で可能な限り修復して作った版であり、映像等が見つからなかったが、雑誌等でこんなシーンだったのだろうと補足した箇所は斜体で記している等の説明があり、本編に入る。
途中、「前奏の終わり、間奏」のテロップが入り、「間奏の終わり」のテロップが流れて、怒涛の展開。
筋自体は、今となっては使い古されたモチーフ。って、こちらが元祖なのだが。
だが、映像と音楽で魅せる。(サイレント映画)
テロップ。地下を説明するときには、テロップが下にスクロール。バベルの塔を模した地上の楽園を説明するときには、テロップが昇っていく。『SW』の冒頭テロップを思い出してしまうが、これからの世界観を一瞬で理解させてくれる。
労働者のシフトチェンジ。もそもそと動く労働者たち。エキストラ?皆訓練された人のように同じ動き。この労働者自体が部品に思えてくる。”機械に使われる労働者”と言う点では『モダンタイムス』と同じテーマだろうが、こちらと比較すると『モダンタイムス』が如何に優雅でコメディセンスが溢れているのかと、感嘆してしまう。ラング監督がユダヤ人と知ると、アウシュヴィッツも思い起こされ、ぞっとしてくる。この映画が製作されたのは、あの凶行の前なのだが。
上流階級の子弟が遊ぶ”永遠の園”。女性達の衣装の斬新なこと。アール・ヌーヴォー?美しい人形。ミュシャやエゴンシーレの絵に出てきそうな…。そこに突然現れるマリア。衣装は、今のファストファッションにありそうな物なのだが、マリアの可憐さ・美しさが際立つ演出。支配者の一人息子フレーダーが一目ぼれするのもかくや。
果たして、思春期真っ盛りフレーダーは、マリアを求めて、地下へ。地下工場の意匠がこれまた素晴らしい。舞台劇かオペラの舞台?。同じ動きをする労働者も群舞かと言いたくなるような動き。事故が起これば、古代神への生贄とオーバーラップさせ…。心が震える…。
フレーダーと11811号が入れ替わった作業も意匠としては美しいが、鑑賞している私からは意味のない作業なので、”労働”の比喩がすごいなと。
ヨザファートのクビ切りは、無茶苦茶。そこも、わずかなテロップだけで、映像だけで見せる。
影なき男は、フランケンシュタインか吸血鬼かというような怪物感を醸し出してくれ、不気味さを味わいマシマシ。
マッドサイエンティスト・ロートヴァングのいかにもの風貌・ふるまいも演劇がかって興を添えてくれ、これから話がどこに行くんだという興味を誘ってくれる。
と、映像と音楽に惹きつけられるが、前半は多少、退屈になる。
一人息子フレーダーが私の好みではないことが大きい。その行動を見れば、本来は10代の役なのだろうが、それを20代の若者が演じているし、かつ、大仰で暑苦しい演技をするので、ちょっと引いてしまっていた。初めはその衣装のイメージも重なって、クラッシックバレエダンサーが、クラッシックバレエの舞台でする演技をしているのかと思ったくらい。DVDの解説映像を見ると、かなり監督が演技指導をしていて、演者のせいではなく、監督の趣味だったらしい。
ロートヴァングが地下でマリアを捕まえるところは、手塚先生か楳図かずお先生か?と煽ってくれる。光と闇の効果が見事。足踏み外すんじゃないかとそちらもドキドキ。
「前奏の終わり、間奏」
だが、偽マリアが誕生するあたりから、がぜん面白くなる。
ロートヴァングの家で助けを求めるマリアを救おうとするフレーダー。ドアを叩く、たくさんあるドアが勝手に閉まったり開いたりして翻弄される。ドア。フレーダーのアップ。閉まったドアにしがみつきながら座り込んでしまうフレーダー。手塚治虫先生のコマ割りを見ているようだった。手塚先生の常連キャラ・優等生・ケンいち君がそこにいる!倒れた背中の角度・足の投げだし方までケンいち!このあたりから、私にはフレーダー=ケンいちにしか見えなくなってくる。
そして、マリアの姿をロボットに与える有名なシーン。科学的にはなんの根拠もない意匠なのだろうけれど、これほど、わくわくさせる”それらしい”絵があろうか?
影なき男の予言(フレーダーの悪夢)も趣満点。
偽マリアが”ヨシワラ”で踊るシーン。それを見る観客。偽マリアの登場に惹きつけられる横顔・横顔。そして目だけのコラージュ。男たちの、誇張された奇妙な下卑た表情のコラージュ。偽マリアの顔や踊りと交互に映る。手塚先生の作品にもよく出てくるコマ!(”ヨシワラ”って、浮世絵・ジャポニズムの影響?)
ゴシック教会の七つの大罪像も、動きは素朴なのだけれど、それを補って余りある意匠。破滅が来るイメージが沸々と。
その一方で、フレーダーの父である支配者フレーダーセンの片腕だったヨザファートと影なき男との攻防。保身のために裏切るかと思ったら、見せてくれる侠気。
ああ、興奮が止まらない。
「間奏の終わり」
そして、偽マリアに扇動された地下の民達の暴動。彼らの狂気・興奮。
水が溢れてくる中での子どもたちの逃走。警報を鳴らす台に集まる子ども達。その行動が何につながるのかわからないが、必死に食い止めようとしているのがわかるマリアの行動。それに縋るように伸びてくる手・手・手。なんという美しくも緊迫した映像!は・や・く・助けてあげて!!!
間に合うフレーダー=ケンいちとヨザファート。地下と地上を知るヨザファートにより活路を見いだせたかと思えば、立ちふさがる格子。一難去ってまた一難。
そして、自分たちの凶行を誰かのせいにしたい人々。マリアが!とハラハラさせ…。ここの地下の民を束ねる役目だった方も役柄にふさわしい演劇仕込みの演技を見せてくれる。そして、名もなき群衆の一人一人の表情。ここでも、ある方に光をあて、他は闇に沈み。別の方に光が当たり…と、緊迫感がすごい。
「息子はどこだ?」「明日になれば、たくさんの人々が同じことを言いますよ」と応じる影なき男。己のことしか考えない父でも、息子は心配。そんな父の意を介さず、己の正義で突き進むフレーダー=ケンいち。10代ならでは。
偽マリアの正体。息をのむ人々。
そこからの、マリアとロートヴァング、フレーダー=ケンいちの、ゴシック教会尖塔・屋根での追いかけっこ。
息をもつかせぬ展開。
そしてラスト。ちょっと、テーマ≒教訓に強引に結び付けている感はなきにしもあらずだが。けれど、フレーダー=ケンいちになっている私的には、これでいいんだ・満足。思春期の寓話だから。
DVDについていた解説によると、短縮版はフレーダーとマリアの関係を中心に編集したとか。
だが、映画のクレジットでは支配者フレーダーセンを演じたアーベル氏がトップ。フレーダーを演じたフレーリヒ氏は父が映画監督とはいえ、この映画の頃はまだ無名に近かったそうなので、格上・アーベル氏のクレジットが先なのだろうか。でも、映画の主題自体も、フレーダーセンの改心みたいなものも含まれているのかもしれないと思う。
ラストは、監督と、当時の妻である脚本家・ハルボウさんの意見が分かれたらしい。ユダヤ人である監督。のちにナチス信奉者となるハルボウさん。そして、この映画の後、独立してしまう監督。映画が監督のものだけでないのは、今と同じか?
★ ★ ★ ★ ★
マリア・偽マリアを演じたヘルムさんがすごい。
DVDについていた解説によると、映画どころか、学校の演劇で演じたことがあるくらいで、演技初だそうだ。かなり、監督の演技指導が入ったとか。陰で「サド・ランゲ」と呼ばれていたらしいから、ヘルムさんだけにではないのだろうが。ロートヴァングに、頭を下にして肩に担がれるシーンは12回も撮り直して、頭に血が上り、失神した話とかも書いてあった。あの、金属のロボットの中にも入れられたとか。火刑のシーンも消防車とかを配置して、実際に偽マリアが縛られている台に火が放たれたとか。労働コンプライアンスとかもなかった時代ならでは逸話がたくさん書いてあった。映画公開時ヘルムさん20歳だから、撮影時はティーンエイジャー。「ラング監督とは二度と一緒にやりたくない」とおっしゃったとも書いてあったが、そりゃそうだ。
とはいえ、幾ら監督の指導が入ったとして、この演技の見事さは、演じられたヘルムさんの才能ありきであろう。清楚なマリアの物静かさ、それでいて真の強さ。偽マリアの時の躍動感、それでいてぎこちない動き。ギリシャ彫刻のような美貌と体形。
この偽マリアの役が当たり、会社からこの役に似た役しかやらせてもらえず、など、他のことも兼ね合わせて、早めに引退と書いてあった。勿体ない。
監督はかなりテイクが多かったそうだ。
このように修復したという解説の、DVDの特典映像によると、同じ場面でも、国によって違う画が入っている物があると実際に見せてくれる。ヨザファートがクビを言い渡されるときの、ヨザファートの反応が微妙に違うのだ。
★ ★ ★ ★ ★
意匠も見事。
ミニチュアを鏡を使って大きく見せる、合成する等、いろいろな工夫がされているとのこと。
都市の風景など、『ブレードランナー』等への影響をDVDで語っていた。
だが、ここでも私は手塚先生のコマを見てしまう。『火の鳥』などに出てくる未来都市とそっくり。ミニチュアを一コマずつ動かして撮ったそうだ。
監督のお父様が建築士で、監督ご自身も若い頃は風刺画や絵葉書の絵を描いて生活費を稼いでいらしたことが影響しているのか。
そして、ちょうどこの頃流行っていたアールヌーボーやアールデコのデザインを私が好きと言うのも、惹かれる要素なのだろう。
★ ★ ★ ★ ★
音楽も、オペラのように、壮大な物語を彩ってくれる。
(『メトロポリス(1984年再公開版)』未見。冒頭3分のみYouTubeで鑑賞。歌が語りすぎで余韻なく、私は1926年版が好き)
復元には、音楽のスコアも手掛かりとしたらしい。
手に入れたスコアやシナリオ、当時のインタビュー記事や特集と合わせると、映画にはない映像がある。
イギリスのプレミアの時に配られたパンフレットと、ドイツで配られたパンフレットに載っている映像が違う!映画にない!
各国や、各地に保存されたフィルムを比較すると、こちらのこのシーンではヨザファートの動きが違う。あちらにはこの映像がありこの映像がない、こちらにはこの映像があり、この映像がない。
たくさんの方の研究の成果。まるでトレジャーハンター。DVDの特典映像をみて、彼らの仕事に感激し、わくわくしてしまう。
しかも、この時代のフィルムは可燃。『ニュー・シネマ・パラダイス』を思い出して、保存されていた奇跡にも感謝してしまう。
そして修復。悲しいかな、現代の技術では、これ以上やるとフィルムがダメになってしまうということで、雨が降ったままのシーンもあるが、そのシーンごと鑑賞しての楽しみ、そのシーンを省いたときの楽しみという見方もできて二度おいしい。
雨が降っているシーンを除いても、粗筋自体は変わらないが、やはりあった方が繊細。監督の美意識に酔ってしまう。
★ ★ ★ ★ ★
SFであり、社会派の映画であり、冒険譚であり、ボーイミーツガールであり。親と子の物語であり。こんなに古い映画なのに、こんなに満足させてくれるなんて。
「頂点」と言われるにふさわしい映画。
震える。