道(1954)のレビュー・感想・評価
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道化の涙
最初から物哀しかったけど、一瞬か二瞬、楽しい時もあったけど、やっぱり最後まで哀しかった…。
ジェルソミーナ!
道化のように不器用で不美人に生まれついた生来の哀しみのうえに、その純真さゆえ、ザンパノの犯した数々の罪まで小さな肩に背負って逝ってしまった。
ラストの慟哭には、確かに野犬のような男ザンパノの己の罪深さへの自覚がこもっていた。
素直にこれを機に改悛したと思いたい…。(また繰り返すんじゃないかな、って疑っている私がいる…w)
ジェルソミーナの一挙一投足に全部意味があるような演出と演技力だった。
第二次世界大戦後の貧窮の中、人々はこの映画に癒されたのだろうな…。
悲しくも生きる希望を感じられる作品
1954年製作。価値観は時代と共に移り変わっていきますが、この作品で描かれる「孤独」は普遍的なものであり、現代を生きる人にも訴えるものがあります。
ジェルソミーナの孤独、ザンパノの孤独、そして綱渡りの青年の孤独。それぞれが違った孤独を抱え生きて、死んでいく。すごく重く苦しくなるような悲しいお話。しかし、ザンパノの孤独を知ったジェルソミーナには微かな希望が見えていたようでした。それは「愛情」なのか、単なる「同情」なのか、微妙なところですが、相手を理解することで「情」が湧くというのはすごくわかります。観客も後半はザンパノに対する見方が変わったと思います。
しかし、それでも全てを台無しにしてしまうザンパノは、きっと最後まで孤独を感じていたと思います。あまりに不器用で粗暴な性格故、周囲から理解されない苦しみを抱いていたのではないかと。終盤、ザンパノが芸を披露する場面がありますが、最後まで映されておらず、成功したのかが分かりません。どうやら脚本では失敗したことになっていたようです。しかしその後のザンパノが暴れまわっていたシーンが、失敗したことに対する苛立ちからではなく、ジェルソミーナの死に対して彼なりに思うところがあったからだと観客に印象付ける為だと思うと、このカットには納得、感心であります。
ジェルソミーナ、ザンパノ、綱渡りの青年の対比が演技によって強調されていて面白かったです。ジェルソミーナを演じたジュリエッタ・マシーナの表情による表現は本作の大きな魅力でもあります。無表情で乱暴なザンパノがより恐ろしく感じられました。
全体的に重い雰囲気が漂っていますが、綱渡りの青年(イルなんとかっていうらしいですが、作中で名前出てたかな?)の言葉やジェルソミーナの優しさには前向きなメッセージが感じられました。こんな私でも何かの役に立っている。そして、孤独を感じているのは自分だけではない。70年前の映画ですが、普遍的なメッセージに心打たれました。
【怪力の大道芸人のザンパノに売られたジェルソミーナを演じたジュリエッタ・マシーナの喜怒哀楽を表情に出した演技が絶品の作品。男なんてものは女性無しに入れらない事を描いたラストが圧巻である作品でもる。】
■粗暴な男ザンパノ(アンソニー・クイン)は、純粋無垢な女ジェルソミーナ(ジュリエッタ・マシーナ)を相棒に旅を続ける大道芸人。
ザンパノからは冷たく扱われながらも、ジェルソミーナは次第に彼を愛するようになってゆく。
だがある時、優しい綱渡りの青年に出会ったことから、ふたりの関係に変化が生じる。
◆感想<Caution!内容に触れています。>
・20数年ぶりに鑑賞したが、細部まで覚えていた事に驚いた作品ある。(滅多にない事である。)
・貧しきジェルソミーナが、ザンパノに売られ”ザンパノが来たよ!”と言う台詞をザンパノに”声が小さい!”と言われ、ピシピシと鞭打たれるシーン。
ー 小柄なジュリエッタ・マシーナの姿が、可哀想だが、何だか可愛い。-
・そして、二人は粗末な馬車の中で結ばれるのであるが(多分・・。)、翌朝ジェルソミーナが嬉し涙なのか、何度もザンパノの隣で涙を拭う姿。
・ザンパノは粗野な男であるが、卑ではない事が判る数シーン。
■ご存じの通り、ジェルソミーナを演じたジュリエッタ・マシーナは、フェリーニの奥さんであった。決して超絶美女では無いが、今作 が世界的な名作になったのはジュリエッタ・マシーナの演技であることは、間違いない。
アンソニー・クインも名優であるが、彼の演技を遥かに超えたジュリエッタ・マシーナの姿は、20年振りに見ても素晴らしいの一言である。
<今作はラストも素晴らしい。
ザンパノが決別したジェルソミーナの死を知り、海岸で彼女を亡くした後悔の念に、斬鬼の想いを晒すシーン。
男にとって、今作を観ると、自分にとって一番大切な女性を本当に大切にしているか、後悔無きように接しているかを深く思った作品である。
学生時代に観た時には、そのような感情は湧きあがらなかったのであるが(当たり前である。)妻子を持つ身になってから今作を観ると、深い感慨を感じた作品である。
故に、映画って素晴らしいと思った作品でもある。>
頭ではわかるが好みではない
愚かしくしか生きられないというのもわかる。
後悔先に立たず、本当に大切なものは失って気付く。
世間からいびつに見えても当人同士には愛だという関係。
これらのことは頭ではわかるが。実際に今もいるとは思うが。
正直前時代的に感じてあまり好きではない。
多少知恵が劣っており、でも心根の優しい女性相手に、暴力をふるい、捨てておきながら、まだ女を偲んで泣くという、なんという傲慢でエゴイスティックで都合よく解釈している奴なのか。
この関係性が自分にはマザコンの男の幻想としか感じないのです。
あれだけのことをしておきながら、女性は男を恨むでもなく。男は女の愛だけは俺にあると思っている。
気持ち悪い。
何をしても俺を嫌わない存在で、さらに俺より劣っており、教育してやらねばならない存在だ、というこの関係性を見て、吐き気しか感じません。
愛だと言われたって、相手を自分と同じ人間と見てないとしか思えないのです。
いくら後悔して泣こうが、己の愚かさに泣いていて、やはりジェルソミーナの気持ちを考えての涙ではないのです。どこまでも自分のことしか考えていない。
フェミニストを声高に叫ぶのも嫌いなのですが、名作だ、愛の形だ、ともてはやされると己の中の違和感がぬぐえなくて気色悪い。
これ男女逆転であっても感動を覚えるものでしょうか?
そうだとすんなり思えなければ、やはりそこには愛なんて言葉では誤魔化せないものがあるのではないでしょうか。
昔の作品なので、当時の社会通念的に、これがまかり通った背景があるのも分かります。
だから今の肌感覚になれてしまった自分が、感動出来ないのも、仕方なくも思えます。
品川心中の様に真暗な海の中に入って行って『FINE』
我が親父が『一番好きだ』と曰っていた映画だ。ガキの頃、家族で見せられた。いつだったか、覚えていないが、母も一緒に見たと記憶する。〔その時の母はつまらないと言っていた。ザンパノの性格と親父が似ているとの事)勿論、テレビでの鑑賞。小学一年生(訂正 中二病の14歳でした)の時には白黒テレビがあったから、10歳以前だと思う。コマーシャルが無かったと思うので、旧国営放送だ。
さて、今回は『なんと、なんと』二回目の鑑賞。しかし、実に良く覚えていた。最後、品川心中の様に真暗な海の中に入って行って『FINE』と思っていた。そこが違った様だ。それと、彼らの関係を男女関係とは思っていなかった。男のダンディズムくらいに考えていた様だ。また、キじるしが悪人に見えた。
しかし、この年になって二回目を見て、その印象は大きく変わった。
傍らの愛する女性を助けられない男性の愚かさを見事に描いている。そして、何一つ反省無く、逃げお押してしまう。キリスト教に於ける人間の『贖罪』の様に感じた。キじるしのセリフは、今の社会にも求められている事だと思う。
僕とっては、二度目の鑑賞だが『禁じられた遊び』と同様に歴史に残る名作だと観じた。
追記 『日本では、N○○教育テレビで1971年11月23日の10:30〜12:19』との事。私は14歳のでした。謹んで訂正します。
日本の大監督が『この映画に影響を受けた』とのたまわっているが、全く逆だ。
この映画で『泣ける』と言う印象を持つのと同じだと今の私は思う。私は、泣けもしなけりゃ、笑いも無し。ザンパノに対する怒りがふつふつと湧いてくる。
男と女にある孤独を神の視点から描き魂の救済に至るネオレアリズモ映画の、男の悔恨の涙
初見は18歳の時に東京のテアトルダイヤという名画座で、「第三の男」と二本立ての入場料が300円だった。前年に感銘を受けた「フェリーニのアマルコルド」に続くフェリーニ作品二本目であり、男と女の根源的なテーマのネオレアリズモ映画の神聖さに感心はしたが、内容を深く理解したとは言い難い。それは、その後何度か見直して観るたびに感動を新たにする経験から振り返っての感慨である。本当に良い映画の中には、観る者の人生経験の積み重ねで漸く辿り着くものがある。特にこの映画は、粗野で暴力的な旅芸人ザンパノが持つ男の、愚かでデリカシーの無い精神が強靭な肉体と共存して描かれて、最後は肉体が衰えて漸く自覚する悔恨の念が物語を閉める。女性の愛を受け止められない男の罪、女性の有難さに気付けない幼さ、そして失って初めて思い知る女性の優しさ。男として駄目なザンパノと純粋無垢で汚れの無いジェルソミーナの、このふたりの人生の道が悲劇に終わる教訓劇として、この映画には考えさせるものが多い。大分昔、映画好きなある作家が数十年振りに学生時代の旧友に再会して、お互いの生涯のベスト映画を紙に書いて照らし合わせたところ、この「道」であったと映画雑誌で知って、何て素晴らしいエピソードだろうと思ったことがある。現代ではザンパノのような酒と女と力自慢だけの男は生きて行けないだろうから、これはあくまで男尊女卑の時代背景におけるフェミニズム映画としての価値を見極めなければならないだろう。
この作品の中で特に印象的なシーンは、イル・マット(キ印)と呼ばれる綱渡り芸人とジェルソミーナの会話場面であり、そこで語られる台詞がシンプルに深い。ジェルソミーナが“私はこの世で何をしたらいいの”と生きて行く希望を見失って呟くと、イル・マットが何かの本で知った言葉、“この世の中にあるものは、何かの役に立つんだ”と語りかけ、“こんな小石でも何か役に立っている”と慰める。イル・マットは態とちょっかいを出してザンパノの怒りを買ういたずらっ子のようなお調子者に見えるが、ザンパノは犬同然で吠える事しか出来ないと見抜いて、ジェルソミーナに惚れているのに伝えられない不器用さを可哀そうと憐れむ。フェリーニ監督は、この映画でジェルソミーナの孤独、ザンパノの孤立、そしてイル・マットの虚無感と、三人三様の独りぼっちを、道を行き交う人間の社会の縮図の中で巧みに描いていく。そして、イル・マットが綱渡りの曲芸を披露する時に着るのが翼を付けた天使の衣装で分かるのは、彼が神の使いであること。ローマ・カトリックの精神的支柱を持つフェリーニ監督自身が抱える、魂の救済と神の愛と恵みが、この映画の本質であるのだろう。異教徒の私でも胸を締め付けられるようなシーンがある。それは、修道院のシークエンスで描かれる、ジェルソミーナとひとりの尼僧とのやり取りだ。優しい言葉を掛けて気使うその尼僧は、ジェルソミーナの境遇も純粋さも見通して接してくれる。ザンパノが教会の銀の装飾を盗んだ罪に打ちひしがれて涙をみせるジェルソミーナとのシーンは、別れを惜しむ心配顔の尼僧との対比が何とも切ない。後に盗まれたことを知った尼僧のこころを想像すると居た堪れなくなる。これこそ映画で表現できる人間の感情、そして人の繋がりを感じさせるシーンではないか。この映画のテーマは、人間の孤独と絆について考察した悲しいリアリズムである。ラストシーン、ザンパノは夜空を仰ぎ見、後悔の涙を流す。そこには愚かな自分に漸く気づく自責の念と、神に対する懺悔の感情が入り混じっていると思えた。
ザンパノを演じたアンソニー・クインと、ジェルソミーナのジュリエッタ・マシーナ。映画史に遺る名演だと思います。クィンは特に最後のうらぶれた男の姿を見事に演じ切っている。撮影当時30代前半だったジュリエッタは、厳密に言えば主人公の少女設定からは大分かけ離れてリアリズムタッチに合わないのに、何の違和感もない。これは凄いことである。舞台の演技を映画の空間で魅せるその表現力の豊かさ。ザンパノとイル・マットの事件から精神に異常をきたすところが白眉であり、それでも可愛らしさを失わない女優としてのチャーミングさは、他に例を見ない彼女だけの個性である。ニーノ・ロータの音楽は、フェリーニ映画を更に神聖な映像の世界にして、ジェルソミーナの無垢さに優しく繊細に共鳴していて、これも映画史に刻まれた名曲である。
フェリーニ監督作品では、この「道」と「甘い生活」、「81/2」、そして「フェリーニのアマルコルド」が素晴らしい。淀川長治氏は晩年の選出で洋画ベストテンに「81/2」と「フェリーニのアマルコルド」の二作品を挙げていたものの、「道」の評価について調べても、あまり評論を残していない。日本公開の1957年の2年前に催されたイタリア映画祭の上映で鑑賞されたとある。また、別の記事では、(「道」は映画にへつらった)とあり、特に絶賛ではなかった。同じ年に公開された「カビリアの夜」の方を高く評価されていた。後に映画伝道師として「道」について多く語るようになり、変わっていったのではないかと想像します。個人的に意外に思ったのが、飯島正氏が85歳の時に選出した洋画ベストテンに、「大いなる幻影」「天井桟敷の人々」「野いちご」「夏の嵐」と並んで、この「道」を挙げていたことだった。フェリーニ映画で最も心に感じた作品と述べていた。
追記
この映画に出会って後に、永六輔氏の新書を読んだ時、何故男の身体に乳首があるのか、の疑問の答えの追跡を読んで、思い出したことがあります。それは、母体で受精した時点で人間の身体は誰もが女性の身体であること。その後に男と女に分かれ、生まれる時は完全に性別を特徴とする内容で、そのため男に必要のない乳首があるという事でした。医療が発達する以前は、男児の死亡率が高く、そのため自然の摂理で男の出生率が高いとは聞いていたが、それは生命体として男の身体は脆弱であることを意味して、それが乳首に象徴されているということ。ザンパノは鋼鉄より強い粗鉄製の鎖を身体に巻くが、何故か最も筋力が張り詰めるトップサイズの胸囲にはもっていかない。それは偏にそこに乳首があるから。男の強さを見せびらかし、肺と胸の筋力を誇示するザンパノの芸には、男の弱さも兼ねた姿が窺えて興味深い。
切なくなるな
まず何が悲しいって、こんな男に子供を売らなければいけないほど貧しいこと。それで娘を2人も立て続けに失った母親。最初に売られた娘は一体何が原因で亡くなったのだろう?
ジェルソミーナの健気さと純粋さ。やっと自分の居場所を見つけられた気持ちだったのだろう。綱渡りの男イルマットからの助言を素直に受け止め、鎖男ザンパノと再び一緒に旅をする事を選んでしまった。
そこでまさかの事態が起き、ジェルソミーナは2人の自分にとって大切な男の狭間でもがき苦しむ。綱渡りの男イルマットから教えてもらった曲をずっと吹いていて多分彼女なりの恩師への弔いだったのだろうな。
ジェルソミーナは愛している人に何度も捨てられて非常に悲しい映画でした。この状況、精神病むよなぁ・・ザンパノみたいな男に二度も娘を預ける母親の心境が理解出来ない。金持ちの家の住み込み家政婦とかでどうにかならなかったのか。
人生には幾つもの分岐点があるけれど、その選んだ「道」は後戻り出来る場合もあれば、取り返しのつかない場合もある。人との出会いや自分で選んだ道。先が見えないからこそ希望を持ち生きていけるのかもね。
あの時、修道院を選んでいたらジェルソミーナは幸せに過ごせたかな
切なくなった
・冒頭でザンパノがローザが死んだから1万リラで長女を買っていく?所から、凄かった。
・旅芸人が鎖を胸の筋肉で切るのとあとはお笑い劇のみとほぼ一本で食っているのが凄かった。
・物がない時代の感じが凄くて未亡人から亡き夫の服をもらえないかと申し出るザンパノのシーンがそういうものかと思った。
・暴力的なザンパノが綱渡りの青年を殺してしまってから更におかしくなったため、ジェルソミーナを置いて行ったあとに、ジェルソミーナのラッパの音楽をくちずさむ女がジェルソミーナは数年前に死んだと聞いてラスト、ザンパノが浜辺で嘆くシーンが印象に残った。どんな人間でも後悔は先に立たないな、と。
すごくよかった
20代の時にリバイバル上映で見たのだけど、その時はさっぱり面白いと感じなくて、もしかして眠ってしまったのかもしれない。それ以来フェリーニはつまらないと思っていたのだが、今回見たらとてもストーリー性が豊かでキャラも魅力的でとても面白かった。主人公の女の子、最初は変な顔ばっかりしてると思っていたのだが、だんだんかわいらしく感じるようになる。ザンパノも殺人を隠ぺいするほどのクズだが、人生の悲哀をたっぷり背中にしょっている感じがたまらない。また5年くらいしたら見たい。
佐藤仁美&大谷亮平
二人の主人公が表題の俳優にそっくりで、かなり驚いたのがファーストインプレッションである。
監督フェデリコ・フェリーニは名前だけは以前から存じ上げてはいたが、やはり今作品が映画館に掛かるということならば観ねばならないと、本当ならば“瘭疽”の治療に行かねばならぬところをこちらに選択したのだがはっきりと正解だったと思い込める、流石世界の名作であった。
特にヒロイン役の女優の演技の秀逸さは群を抜くレベルである。とぼけた仕草があれほど愛らしく、しかしどこか悲しげでニヒリスティックな佇まいに心を奪われてしまう。ロードムービーでもある今作は、その行く先々での二人の関係性に変化を持たせながら、それが不幸への切符である印象を端から印象付けているので、ストーリーが進む程に、より悲しくメランコリックさを強調させながら、それでもヒロインの健気さや生きる必死さを、観客に訴えかけるように頑張る姿勢に心を激しく打たれ続けるのである。そしてそれとは逆に男の卑屈さや粗野、そして狡賢さはこれまた類い希なる極悪さを強調させ、だからこそラストのカタルシスへと誘う演出に、唯々見惚れてしまうばかりだ。哀愁や悲哀を全て羽織って、それでもヒロインのあのトンチキな仕草に救われることでの心の持ち様は、さすが名監督の掌で転がされているが如く、心を弄ばれてしまう。やはり名作はいつの時代も人間の心を掴んで離さないものだと、改めて敬服するのみである。
マットという男の生き方
僕にとってこの映画の最も印象的なシーンは、ジェルソミーナとマットの会話から別れのシーン。それまで軽い人間という印象ばかりだったマットが、突然ジェルソミーナを優しく諭すシーンである。
「美人でもないし、料理もできない。一体君に何ができる?」
「自分でもどうしてこの世界にいるのか分からない。」
「こんな小石でも何かの役に立っている。それが何の役にかは、俺には分からないけど」
このシーンで、ジェルソミーナは初めて自己肯定感を得られた。何もできないただの食い扶持として家族の中に存在し、ザンパノにも、女性としての扱いを全くされない。自分が何て価値のない人間なのかと嘆き続けた人生だった。マットはそんな彼女でも価値がある存在なのだということを思い出させてくれる。それが、ザンパノが寂しい人間で、ジェルソミーナがいなければ彼はひとりぼっちになってしまうということだった。ここにある悲しい事実は、ジェルソミーナのいるべき場所が、彼女を勇気づけたマットとともにあることではなく、結局はザンパノとともにあるということである。
二人が別れるシーンはとても印象的で、下を向く彼女に思い出としてネックレスをプレゼントするマットの表情、顔を上げ、手を握り(この別れの手の動きも僕にはとても印象的)彼を見送る彼女の表情。このどちらもが、愛するものと別れる時のそれだと僕は思った。マットは彼女が好きだった。また彼女もマットが好きだった。ではなぜ二人は一緒になれないか、ジェルソミーナの居場所はザンパノと共にあること、であるからだ。
どうしてマットはジェルソミーナを一緒に行けなかったのだろう。マットは彼女に綱渡りを教えてあげることも提案しているし、彼女がそれに興味があることもわかっていた。警察署の前まで来て、本当は自分と一緒に行きたいのではないかと聞いている。けれども、「何もできない女を連れて歩けない」といって、彼女を突き放す。
一つには経済的な理由ということもあるだろう。ザンパノの一件で自身もサーカスから追われてしまったマットには、もう一人を連れて歩くということが経済的な難しさは容易に想像できる。しかし、楽観的な彼がそれだけの理由で諦めたというには、弱すぎるように思うのだ。
もう一つ、気になる言葉は、ジェルソミーナも気にしたように、彼が早死にすることを仄めかす発言をしたことである。その前後の描写でも彼が早死にすることに予感させるもの、病気などについて言及はされていないから、これは単純に彼自身の予感のみからくる発言なのだろう。しかし、ひょっとする彼自身の内には、そのあとに起こる現実への予感が、病気などのように確固たる根拠を伴った事実として感じられていたではないだろうか。ジェルソミーナは他者を必要とする人間でもある。一人で生きていくには弱すぎる人間である。だとすれば、自分の生だけではなく他者の生の責任を負う覚悟が、マットにはなかったということなのだろう。
もしくは、前述のような予感はなかったとしても、その責任を引き入れるということが、彼の生き方には合わなかったということかもしれない。
本当はザンパノとジェルソミーナの関係が本筋なのだろうと思うけど、マットとジェルソミーナの会話のシーンがすっかり僕のこの映画の印象になってしまった。
マットの生き方は気楽なように見えて、実はそのために、手に入れることを諦めざるをえない喜びがある。マットを見ていて、そんなことを考えた。
ジェルソミーナはマットの死によって心を乱したように、映画のラストでザンパノはジェルソミーナの死を知り打ちひしがれる。すでにそれぞれの生活の中では不在であったはずの人間の死が、こんなにも心に迫ってくるのは、その人間の存在こそが自身を支えるものになっていたからだろう。
そう思うと、人は、意外にも目の前のものではなく、常に心に奥にある大切なものに依って生かされている生き物なのかもしれない。自らは誰を心の支えにするでもなく、ジェルソミーナを勇気付け、彼女の支えとなったマットの生き方に、僕は憧れる。
過ぎたるは及ばざるがごとし
不思議な愛の形だと思った。ちょっと知恵遅れみたいな女の人と、大道芸人のおっさんが芸をしながら旅をしていく話で、初めは本当に金のために買った売られた仲なんだけど、だんだん距離が縮まって、愛情?さえ感じるようになる。でも、生きていくためにおっさんは女を置き去りにしてしまう。ここに出てくる人たちは、みんなものすごく孤独なんだと思う。お互いにそれを感じあって、傷を舐め合うのに、突き放しあって、さらに傷を深めてしまう。負の連鎖である。イタリア人は、能天気に見えるが、悲しい映画が多いことからすると、内面はとても繊細なのかもしれない。ぐっとくる映画だった。
ジェルソミーナが初めて街に繰り出すシーンが良かった 脇役の彼が良か...
ジェルソミーナが初めて街に繰り出すシーンが良かった
脇役の彼が良かった 何度も振り返るのが良かった
絶望的な孤独を紛らわせるピエロ調が切なかった
序盤の挙式の宴会した家の病気の子どうなったのかな
初フェリーニ華々しく響く
こんな小石でも何か役に立ってる
神様はご存知だ
小石が無益なら全て無益だ
空の星だって同じだと俺は思う
お前だって何かの役に立ってる
憎まれっ子、世に憚るが虚しく寂しいという
1人では生きていけないという
典型的な主題だけどね
でも素晴らしい映画でした。
個人的には初夜の後の泣いてるのか
微笑んでるのか分からない主人公の心理が
絶妙な表情で表されてて
でも、気持ちは解るから
更に共感してしまいました。
この映画を見て泣かない人っているのか?
名作と言われる古いイタリア映画を今になって改めて見直すと、相変わらず感動する作品と、「自転車泥棒」や「鉄道員」のように古臭く感じてしまう作品がある。多分後者は自分が歳をとったせいか、価値観が変わったせいだと思う。もちろんこの作品は前者だ。多分、何年たってもこの感動は変わらないだろう。自分の感性に直接揺さぶりをかけてくる感じだからだ
最後はザンパノ同様、号泣でしたね。結局、彼も人間だったんですね。何度見ても泣ける名作です。ジェルソミーナが亡くなるシーンがないのに、彼女を失った事を知った時のザンパノの胸を締め付けられるような思いが痛いほど分かります。
忘れえぬ別離のシーン
間違いに気付いているのに、その生き方とは別の生き方を選び取ることのできない愚かさ。主人公ザンパノはそのような人間の側面を極大化した人物として描かれている。
奇しくもこのザンパノについて冷静に見ているのは、彼をいつもからかう道化。この道化を通して、自らの存在意義を確認することのできたジェルソミーナ。母親にすら口減らしのために売られてしまう彼女は、おそらく生まれてこのかた何者かに必要とされることはなかった。その彼女に、ザンパノが本当は彼女を必要としていること、道端の石ころですら何かの役に立つことを教えたのは、この道化であった。
しかし、この道化はザンパノによって殺められてしまう。
自分という存在を照らしてくれるものを失ったジェルソミーナは、ふさぎ込み、大道芸の仕事をしなくなる。
このままでは食べていくことができないと思ったザンパノは、ジェルソミーナが寝ている隙に、彼女を置き去りにしてしまう。
この別離のシークエンスが重い。
一人では生きていけないことが分かりきった彼女を捨て去る冷酷さと、寒さ除けの毛布と彼女の商売道具になるであろうラッパを置き土産にする優しさ。この残酷さと優しさが同時に対比されるせいで、ザンパノの葛藤の大きさがいっそう際立つ。
このとき、ザンパノは自分がこののち後悔することも知っているし、すでにジェルソミーナのことを忘れられない自分に気付いている。だからこその優しさなのだが、だからと言って彼女を捨てることを思い止まることはないのだ。
生きていくためにほかの選択肢がない弱い存在なのは、ジェルソミーナもザンパノも同じ。彼らも、そして観客の多くも、苦難に立ち向かうことでモラルや愛情を守ることのできる強者ばかりではないことを知り、その自らの愚かさラストの海辺のシーンで思い知ることとなる。
奴は犬だ。
映画「道(1954)」(フェデリコ・フェリーニ監督)から。
名作と言われながらも、まだ観ていなかった「道」。
多くの映画ファン・関係者が綴る作品解説を読みすぎて、
やや頭でっかちになっていたかもしれないなと感じ、
私なりの感覚でメモを取り、どの台詞に引っ掛かるのか、試したくなった。
綱渡り芸人「イルマット」が、主人公の娘「ジェルソミーナ」に語る
「この世の中にあるものは、何かの役に立つんだ。
例えば、この石だ。こんな石でも何か役に立ってる」のフレーズは、
この作品の根底に流れている考え方かもしれないが、
それ以上に、インパクトがあった台詞は、同じ2人の会話でも、
主人公のひとり「ザンパノ」に対する例えだった。
「奴は犬だ。お前に話しかけたいのに、吠えることしか知らん」
会話をメモしていても、言葉が単語だけであったり、長い台詞はない。
だから、彼女に対してどうしても命令調の口調になってしまっている。
他人とのコミュニケーションが上手に出来ないがために、
彼女への想いもうまく表現出来ない、そんな彼の性格を言い当てていた。
そんな彼の不器用さ、寂しがり屋な面が、浮き彫りにされた気がする。
そして有名なラストシーン、海に佇み、天を仰ぎ、声を上げ号泣する場面、
何を感じ、何に対して嗚咽したのか、その解釈はいろいろでいいと思う。
また数年後、この作品を観た時、違った感想を持つんだろうな、きっと。
P.S.
家内は「小学生の頃、映画鑑賞会の授業で観たよ」と言ったが、
こんな悲しい話、何を学んで欲しかったのかなぁ。
人生の辛酸と、取り返しのつかなさを知った慟哭
総合:55点
ストーリー: 60
キャスト: 65
演出: 65
ビジュアル: 60
音楽: 80
実の親からすら見放され、自分が白痴で誰からも必要とされていないという劣等感からだろうか、ジェルソミーナはとても純真で献身的である。時に人生は不条理である。働けど生活苦は続き、誰からも愛されず、精一杯の献身が実らない。
だがザンパノからすれば、金で買った奴隷に過ぎない。厳しい旅芸人の生活、報われない愛情。見ていて辛い。
そのようなことばかりあった後でザンパノが泣き崩れても、もう彼女はいない。やっと気付いたときには取り返しがつかない。
そもそも粗野で自分勝手で相手の人格を無視して奴隷のように人を扱うこの男が、私は最初からどうにも好きにはなれない。名作なのだろうが、もし彼らが自分だったらとか想像してしまうと、可哀想な人たちだね、だけで自分の中でどうも済まないのである。後味悪くてそのぶん点数も辛め。
ジェルミナは白痴ということらしいが、普通に喋ったりもしているし、解説を見るまではそうとわからなかった。いい配役なのかもしれないが、そこは気になった。
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