ビッグ・シティのレビュー・感想・評価
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60年前のインド映画がこんなに新鮮! 夫婦の葛藤と女性の覚醒の物語
1963年のインド映画。1950年代のカルカッタを舞台に、モノクロームで撮影した共働き夫婦のホームドラマである。古い作品なので、我慢して見る部分があるんじゃないかと思っていたのだけれど、全くそんなことはなかった。予備知識なしで見たけれど、1人の女性の成長物語として、全く飽きることなく魅せられてしまった。物語はわかりやすく刺激的でテンポがいい。映像もクリアで撮影技術もモダンで美しい。
一言で言うと、最高であった。サタジット・レイ監督作品は、これから追いかけて見ていきたい。作品数も多いから、新たな楽しみができて、本当に嬉しい気分である。
見に行ったきっかけは、このところ、中国のジャ・ジャンクーや台湾の侯孝賢などを名画座で見て、ヘタな新作を見るより、ずっと楽しく、刺激的だったからだ。本作の映画.comの紹介を見て、同じ楽しさと刺激があるのではないかと思ったのだ。
彼らの映画の背景には、社会分析がある。アジアの近代化と、変化の中で生きる痛みを描いている点が共通している。物語としての感動と共に、同じ世界で生きているもの同士の深い共感がある。また自分自身の日常のモヤモヤの要因を「こういうことですよね」と俯瞰的に見せてくれる映画でもある。そして、本作も大当たりだった。
サタジット・レイは、ジャ・ジャンクーや侯孝賢よりかなり前の世代になるけれど、レイの作品の方がより観やすいかもしれない。明快なストーリーと魅力的な登場人物たち、カタルシスあるエンディングまで、売れる映画の要素が詰め込まれている。
「私が映画作りの技術について学んだことのすべては、アメリカ映画の製作から得たものです。」
1992年にアカデミー名誉賞を受賞した際のスピーチだ。ハリウッド映画の文法を学び、影響を受けている。実際、娯楽作品としての楽しさもたっぷりで、かつ社会的視点も盛り込まれていて、リアリズム映画的な批評性も兼ね備えている。初めて知ったけれど、すごい監督なのだ。
「レイの映画を見ていないということは、太陽も月も見ずにこの世に生きているのと同じことだ。」
これは、黒澤明監督の言葉だ。そんな大切なものを見逃したままでいては、生きてる意味がないというものだ。観られてよかった。
本作を観て、先のジャ・ジャンクーや侯孝賢以外の、いろいろな作品や監督を想起させられた。
まず、最初に思い出したのは、今年のマイベスト映画の1本「私たちが光と想うすべて」だ。こちらも近代化が進むインド社会を背景に、女性の自立を描いたフェミニズム映画の側面もあって本作と重なる。両作品の間には、約60年の隔たりがある。インドの都市で働く自立した女性の歴史は古かったのだ。勉強になる。
もう一つ思い出したのは「風とともに去りぬ」のビビアン・リー演じる主人公スカーレット。
本作の主人公アルティを演じるマドビ・ムカージーもビビアン・リー同様の、強い自我を感じさせる眼差しを持ったたいへんな美貌の持ち主だ。ただ、映画の序盤では、そのスカーレット性を感じさせない。
家父長制の家族のもと、教育も途中で諦め、夫と同居する義理の両親に尽くす専業主婦だ。自分の意見というものはなく、夫と義父の意向に沿って生きている。一家は、イギリス植民地時代は、知識階層の職業人として裕福に暮らしていたらしいが、独立後の混乱する社会の中で、生活苦に陥ってしまっている。それで専業主婦アラトは働きに出る決意をするのだ。
訪問販売の仕事に就くが、最初の家では、ピンポンを鳴らして出てきた相手に「なんでもありません」と言って逃げ帰ってしまうほど、内気で自信がないアラトが、眠らせていた有能さと魅力と自我を覚醒させていく様は、本当に楽しく力強い。
そしてラストは「風と共に去りぬ」のあの有名なラストシーンのスカーレットと完全に重なる。スカーレットは家も財産も、家庭も、愛する人もすべて失うけれど、大地に力強く立って未来に向かう。本作でも、最初は弱気で地味に見えたアラトが、ラストではビビアン・リー演じるスカーレットと完全に重なるほどに、覚醒し、本来の魅力を解放するに至るのだ。これだけでももう最高である。
それに対する男性陣も印象的だ。
まずは義理の父。かつては教師をしていたが、今は1人しょぼくれていて、アラトに何から何まで面倒見てもらっている。家計も苦しいし、家庭教師でもやればいいのにと、家族に思われているが出ていかない。小銭があると、料金付きのクロスワードに使って一発逆転を狙うダメ舅である。かつての教え子を頼りにしたりもするが、「かつては自助論を熱心に教えた先生がね…」と哀れまれている(「自助論」は日本でも長年ベストセラーのサミュエル・スマイルズによる自己啓発の古典)。
小津映画に出てくる東野英治郎が、何かの作品で同じような役柄だったなと思い出して、調べてみると、レイ監督は小津映画の愛好者で影響を受けているのだそうだ。本作も小津映画を思わせるホームドラマでもあり、日本との繋がりは嬉しい発見だった。
もう1人の夫は、本作の重要人物だ。インド銀行に勤めているが、折からの不況で経営破綻し、彼は無職になってしまう。彼は、家父長制の男性特有の、妻にあれこれと指図する一方で、新しい時代の男女平等や女性の自立とかに、なんとか適応しようと努める側面もある。みるところ優しい夫だが、しかし、一家を養う義務や「男として強く立派で稼がなくてはならない」というプレッシャーに苦しんでもいる。だから、妻が働きに出ることは、自分を揺るがす事件でもあって、物語を通じてその葛藤と戦い続ける姿を見せる。
本作の印象的な小道具、働き始めた妻が、こっそり持っていた口紅が、その動揺に追い打ちをかける。自分以外の職場の人間に、美しい姿を見せていることを受け入れるのは、受け入れ難いハードルなのだ。しかし、物語を通じて、その妻の自立を受け入れていくことで、彼も成長していく。ここも、本作のもう一つの見どころだ。
しかし、インド社会って、1950年代に女性の自立がテーマになるほどの状況だったのか、現代映画の「私たちが光と思うすべて」で描かれた通り、近年の課題ではないのか…という違和感があった。それに男性の監督が、60年も前にその視点で映画を撮っていることも不可解に感じた。
調べてみたら、監督の資質と、1800年代のイギリス植民地化からの思想運動の影響を知ることができた。
19世紀に監督の出身地ベンガル地方ではベンガル・ルネッサンスという社会改革運動が起きていて、監督の祖父と父は、その運動の担い手であった。監督もその影響を受け、マルチなルネサンス的知識人として成長した。
監督は元々はグラフィックデザイナーで、タイポグラファーとしても、独自の書体をいくつも作り上げている(構図の美しさはこのキャリアによるものだ)。その才人が、イギリス出張中にイタリア映画「自転車泥棒」(ネオリアリズム映画の源流でもあり、歴史的金字塔)を見て、劇場を出てすぐに「この手法でインドの現実を撮影しよう!」と映画監督になることを決意したのだそうだ。
脚本から音楽、美術、編集、ポスターデザインのすべてを、監督は自らコントロールするのだという。小説家としても児童文学やYA作品を多数執筆し、今も愛読されるベストセラーなのだそうだ。
その多彩な監督のバックボーンが、ブラフモ・サマージという宗教改革の思想運動だ。監督の祖父・父はその運動の担い手だった。
イギリス統治下で、多神教は退廃的で古いとされた。そこでブラフマンを唯一神としたキリスト教的一神教の思想を作ろうとしたのがブラフモ・サマージだ。ただ、それは近代のリベラリズム的な価値観をかなり含んでいる。近代合理主義的な西洋と、東洋を融合したコスモポリタン的な考え方、個人の尊厳・自由と責任、女性の教育と地位向上の推進などなど。このスタートが1800年代というから、インド・ベンガル地方は世界的にもかなりの先進性を持って、近代化に取り組んできた場所なのだ。知らなかった。
インドの人は、強い主体性と自我、つまり自分の価値観と意見というものをはっきり持っていて、「同調圧力って何?」くらいの強さを持っていると感じるところがある。それは、こうした歴史にもよるのかもしれない。仏教やヒンズー教などの世界宗教を生み出した国は、思想的な強さを歴史的に持っているということだろうか。
日本人の場合は、今に至るまでかなり集団主義的だ。明治維新でも、敗戦後でも、自分の価値観にこだわらず、変化に適応するためにどんどん自分を変えた。
ベンガルの伝統は、それとは正反対に、原理原則となる思想を持とうとする。それが、インドでの、この物語の後の社会的混乱にもつながったのかもしれないし、日本の場合は企業戦士育成に有利に働いて、戦後の経済成長につながったのではないだろうか。
ただ、日本人は、経済的には先に豊かになったけれど、自己の不安定さを抱えて、自分探しをしながら、不安を抱えて生きている。インド映画から、自らの信じることに従って、自分の道を切り開く、個人の強さを学ぶという刺激をたくさんもらうこともできると感じた。
サタジット・レイ監督の作品は、苦しいけれど希望に満ちた1962年の本作から、その後のインド社会の変遷に従って、より社会を告発するものに変わっていったという。1992年に亡くなった監督の、その後のフィルモグラフィーをこれから追いかけて見ていきたい、そんな思いにさせられた監督との出会いであった。
タイトルなし(ネタバレ)
家父長制が色濃いインド。
大都会コルカタの一家、夫(ハレン・チャタージー)は銀行員。
夫の実父母を引き取り、夫の妹も同居している。
銀行員としての給与だけでは生活が苦しい。
家計扶助のため、訪問販売員として妻(マドビ・ムカージー)も働きに出ることした。
妻の働きが軌道に乗り始めるも、夫は体面のため妻を辞職させようとする。
が、銀行が倒産して失業してしまう・・・
といった物語。
サタジット・レイ監督作品は今回が初鑑賞。
作品公開が相次いだ70~80年代、関西では上映機会が少なかったこともあるが、若い身としては食指が動かなかったことも確か。
家父長制一家を描く前半はあまり面白くないが、ドラマが進展するに従い、演出もキビキビしてくる。
特に、失業したことを恥じている夫や、家計扶助のために働きに出ていることを周囲に隠す妻、さらには教え子の元を訪ねて小遣いをせびる老父など、シリアスながらも喜劇的な側面が強調される。
最終的には夫婦ともに気概をみせる。
のだけれど、ちょっといい加減というか、ゾロっぺぇというか、楽天的というか、な結末。
で、これはこれで悪くないけれど、ちょっと取って付けたような感じがしないでもない。
強いられない決断としての女性の労働
1963年。サタジット・レイ監督。カルカッタで暮らす銀行員とその妻は一人息子を持ち、老いた父母、年の離れた夫の妹と同居してなんとか生活している。いよいよ生活に困って妻も働きに出ることにするが、老父には理解されないし、息子はぐずりだす。セールスレディをやり始めると、驚くほど優秀な業績を上げて家計を助ける妻だが、夫との関係が微妙になっていくと、なんと夫の銀行が倒産してしまう。一手に家計を支えることになる妻だが、、、という話。
これすばらしい。後期の小津かと見まがうばかりの庶民生活の描写。古い家父長制の意識と新しい都市の生活の対立、誤解からこじれる愛情。
いったんは家族のために仕事をやめようとした妻が、すんでのところで夫の失業を知って思いとどまったものの、それは働き甲斐や主体的な意思とは別の「強いられた決断」であり、そのあたりのもやもやが主演のマドビ・ムカージーの眉のあたりのこだわりとして表れている限り、物語は終わらない。理不尽な会社の決定に対して馘首を覚悟して反旗を翻し、無理を承知で夫に真情を涙ながらにうち明けて初めて、彼女の心は晴れやかになるのだ。「強いられない決断」として女性が働くこと。「チャルラータ」「臆病者」に共通するマドビ・ムカージーの怒りの表情もすばらしいが、最後に喜びの涙にむせる彼女の表情もすばらしい。
正にブルシット・ジョブだ!
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