ビッグ・シティ

劇場公開日:2025年7月25日

解説・あらすじ

「大地のうた」をはじめとする「オプー3部作」で知られるインドの世界的名匠サタジット・レイが1963年に発表した代表作のひとつで、大都会カルカッタを舞台に共働き夫婦の暮らしを描いたドラマ。

1953年、カルカッタ。薄給の銀行員シュブラトの妻アラチは、家計を助けるために訪問販売の仕事を始める。やがて彼女は社長に能力を認められるようになり家計も楽になるが、夫としての立場を失ったシュブラトは仕事をやめさせようとする。日本では「大都会」のタイトルで76年に岩波ホールで公開。

2015年9月、レイ監督のデビュー60周年を記念した特集上映「Season of Ray シーズン・オブ・レイ」でリバイバル公開。2025年7月にもレイ監督のデビュー70周年を記念した特集上映「サタジット・レイ レトロスペクティブ2025」でリバイバル公開。

1963年製作/131分/G/インド
原題または英題:Mahanagar
配給:グッチーズ・フリースクール
劇場公開日:2025年7月25日

その他の公開日:1976年4月17日(日本初公開)、2015年9月12日

原則として東京で一週間以上の上映が行われた場合に掲載しています。
※映画祭での上映や一部の特集、上映・特別上映、配給会社が主体ではない上映企画等で公開されたものなど掲載されない場合もあります。

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映画レビュー

4.0 半世紀以上前のインドの「女性活躍」映画でありながら、肩ひじを張らない小津っぽさが素敵。

2025年12月31日
PCから投稿

2025年の年の瀬にあたり、プロフィールに「映画館で観た映画はなるべくすべてここに感想を記す」と書きながら、書かずじまいでいた作品が3本あることを思い出し、そのうち2本の感想を備忘録的に(いつもより短めに)記しておきたい。

『ビッグ・シティ』は、すでにここで感想を書いた『音楽サロン』『聖者』『エレファント・ゴッド』を観たときに合わせて鑑賞したものだが、その後、月残業120時間の異常な状況が2か月続いて、とても感想を書く気力がわかなかった。

映画としては、1950年代のカルカッタを舞台に、とある聡明な女性の社会進出が引き起こす家庭内での軋轢を描いた、まさに「社会派」といっていいような作品だ。
個人的に、映画を用いて社会正義を訴える系統の作品はきわめて苦手としているので、若干構えて観に行ったのだが、結論からいうと全くの杞憂にすぎなかった。

実際には至極まっとうな「ドラマ」であり、
観ていて、とにかくぐっと引き込まれた。
「声高さ」などは、どこにもない。
「監督の政治的主張」など微塵も感じさせない。
あるのは、インドの「今ここにある現実」と、
やむを得ず、労働に従事することになる主婦と、
「職業婦人」が引き起こす顚末。
冷徹な現実を、温かみのある眼差しと
リアリティをもって描いている。
じつに丁寧に作られた家庭劇であり、
真摯な女性映画だ。

テイストとしては、職業婦人として能力を発揮するヒロインの溌剌とした姿や、義父母との愛情のこもったやり取り、先生をやっていた老人がかつての教え子を訪ねて回る展開など、なんとなく小津の映画を彷彿させる部分が多い。
(サタジット・レイ監督自身は、外遊中に観たイタリアのネオ・リアリズモ映画から影響を受けたことを公言している。)

いちばんの特徴は、とある善良な中流家庭の様子が、等身大で描かれているということだ。
明快な悪意を持って動いたり、嫉妬や劣情で相手を傷つけたりする安易な「敵役」を用意せず、「善人」たちが悩み苦しみながら織りなすドラマが展開されるので、観ていて実にすがすがしい。
家族全員、戦後の貧困と社会変革のなかで苦境に立たされながらも、お互いへの思いやりと愛情は強固に保っている。会社の上司も同僚も、功利的だったりずぼらだったりはしても、決して悪い人間ではない。
「監督が語りたいテーマに合わせて、殊更に悪く描かれる存在」や「物語の都合上、女性の社会進出を阻害する存在」を無理に出そうとしないあたりには、監督の矜持と自制が感じられる。

とくに、旦那の描き方がとても良い。
妻の社会進出に対してステロタイプな反発を示さず、最初は開明的な様子を見せようとしながらも、だんだんと嫉妬やプライドの棄損でメンタルをやられていく感じが、実に生々しくて人間臭い(正直、いまの日本の夫婦の話に置き換えても十分通用するような話)。
彼の両親も含めて、家族が旧弊な価値観に囚われていてヒロインの活躍ぶりに動揺しているのは確かなのだが、だからといって、家族としての愛情や思いやりを喪ったわけではない。
同様に、妻であるヒロインも、仕事の楽しさに目覚めたとはいえ、夫や子ども、同居する家族への愛情は揺るがないし、むしろ彼女にとってのモチベーションは徹頭徹尾「家族の財政的支援」なのだ。
すなわち、この話は基本的には「女性の社会進出」を扱った映画でありながら、「家族総出で危機を乗り越えようとする物語」でもあるわけだ。

「すべき」論に陥らず、それを強調するための「憎まれ役」を用意したりもしない。
リアルな家族が時代の要請に従って「夫婦共働き」を選択し、そのなかで妻も、夫も、家族も、一定の挫折を経験しながら強い想いを抱いて成長していく。これは、きわめて「まっとう」で「フェア」な家族の成長譚だ。

僕は、女性の虐げられた環境を観客に印象づけるために、男性の悪を殊更強調するような作劇を見ると、ふつうに吐き気を感じるタイプなので、こうやって、女性をメインで描きながら、ちゃんと「男性」や「年長者」も「人間」として描いてみせる映画を観るとほっとする。

インドは、2025年現在もなお男尊女卑がはびこり、一方的で組織的なレイプやリンチが多発する問題の多い国でもある。
そんなインドを本拠地に、1960年代の時点で、このようなバランスのよい「女権映画」を撮り得たのは、上流階級出身で左派的思考に触れる機会のあったサタジット・レイの先進性だったのか、それともカルカッタのような大都市(ビッグ・シティ)ではこのくらいの男女のあり方がリアルだったのか。

個人的には、息子の嫁から施しを受けるくらいなら、教え子の家を回って物乞いをしようと一念発起するおじいちゃんが、インパクト十分で面白かった。
元学校教師のような先進的で教養豊かな人物でも、こういう考え方しちゃうんだよね。むしろかつて支配的にふるまえていた人物のほうが、老いを迎えるとどうにも融通がきかなくなっちゃうのは、日本でも変わらないだろう。
押しかけられて困惑している教え子の丁重な応対ぶりや、階段落ちで見せるやけにアクション重視のカメラワークも含めて、監督も妙に力を入れて描いていた気がする。

あと、インド在住英国人の同僚女性のぼんくらキャラも、まあまあ新鮮だった(インドの庶民のなかに交じって労働者として働いているイギリス人女性とか、こういう映画以外では見る機会ないからね)。むしろ、インド人経営者からは、ナマケモノで図に乗っていると低く見られがちってことなのかな?

なお、同じ日に観た『臆病者』は、疲れ果てて半分くらい寝落ちしてしまったので(笑)、しょうじき中盤に何があったかよく覚えていない。来年横浜シネマリンであるらしい再上映で、あらためて観てから感想を書きたいと思う。

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じゃい

4.5 60年前のインド映画がこんなに新鮮! 夫婦の葛藤と女性の覚醒の物語

2025年12月1日
PCから投稿
鑑賞方法:映画館

1963年のインド映画。1950年代のカルカッタを舞台に、モノクロームで撮影した共働き夫婦のホームドラマである。古い作品なので、我慢して見る部分があるんじゃないかと思っていたのだけれど、全くそんなことはなかった。予備知識なしで見たけれど、1人の女性の成長物語として、全く飽きることなく魅せられてしまった。物語はわかりやすく刺激的でテンポがいい。映像もクリアで撮影技術もモダンで美しい。
一言で言うと、最高であった。サタジット・レイ監督作品は、これから追いかけて見ていきたい。作品数も多いから、新たな楽しみができて、本当に嬉しい気分である。

見に行ったきっかけは、このところ、中国のジャ・ジャンクーや台湾の侯孝賢などを名画座で見て、ヘタな新作を見るより、ずっと楽しく、刺激的だったからだ。本作の映画.comの紹介を見て、同じ楽しさと刺激があるのではないかと思ったのだ。
彼らの映画の背景には、社会分析がある。アジアの近代化と、変化の中で生きる痛みを描いている点が共通している。物語としての感動と共に、同じ世界で生きているもの同士の深い共感がある。また自分自身の日常のモヤモヤの要因を「こういうことですよね」と俯瞰的に見せてくれる映画でもある。そして、本作も大当たりだった。
サタジット・レイは、ジャ・ジャンクーや侯孝賢よりかなり前の世代になるけれど、レイの作品の方がより観やすいかもしれない。明快なストーリーと魅力的な登場人物たち、カタルシスあるエンディングまで、売れる映画の要素が詰め込まれている。

「私が映画作りの技術について学んだことのすべては、アメリカ映画の製作から得たものです。」

1992年にアカデミー名誉賞を受賞した際のスピーチだ。ハリウッド映画の文法を学び、影響を受けている。実際、娯楽作品としての楽しさもたっぷりで、かつ社会的視点も盛り込まれていて、リアリズム映画的な批評性も兼ね備えている。初めて知ったけれど、すごい監督なのだ。

「レイの映画を見ていないということは、太陽も月も見ずにこの世に生きているのと同じことだ。」

これは、黒澤明監督の言葉だ。そんな大切なものを見逃したままでいては、生きてる意味がないというものだ。観られてよかった。

本作を観て、先のジャ・ジャンクーや侯孝賢以外の、いろいろな作品や監督を想起させられた。
まず、最初に思い出したのは、今年のマイベスト映画の1本「私たちが光と想うすべて」だ。こちらも近代化が進むインド社会を背景に、女性の自立を描いたフェミニズム映画の側面もあって本作と重なる。両作品の間には、約60年の隔たりがある。インドの都市で働く自立した女性の歴史は古かったのだ。勉強になる。

もう一つ思い出したのは「風とともに去りぬ」のビビアン・リー演じる主人公スカーレット。
本作の主人公アルティを演じるマドビ・ムカージーもビビアン・リー同様の、強い自我を感じさせる眼差しを持ったたいへんな美貌の持ち主だ。ただ、映画の序盤では、そのスカーレット性を感じさせない。
家父長制の家族のもと、教育も途中で諦め、夫と同居する義理の両親に尽くす専業主婦だ。自分の意見というものはなく、夫と義父の意向に沿って生きている。一家は、イギリス植民地時代は、知識階層の職業人として裕福に暮らしていたらしいが、独立後の混乱する社会の中で、生活苦に陥ってしまっている。それで専業主婦アラトは働きに出る決意をするのだ。
訪問販売の仕事に就くが、最初の家では、ピンポンを鳴らして出てきた相手に「なんでもありません」と言って逃げ帰ってしまうほど、内気で自信がないアラトが、眠らせていた有能さと魅力と自我を覚醒させていく様は、本当に楽しく力強い。
そしてラストは「風と共に去りぬ」のあの有名なラストシーンのスカーレットと完全に重なる。スカーレットは家も財産も、家庭も、愛する人もすべて失うけれど、大地に力強く立って未来に向かう。本作でも、最初は弱気で地味に見えたアラトが、ラストではビビアン・リー演じるスカーレットと完全に重なるほどに、覚醒し、本来の魅力を解放するに至るのだ。これだけでももう最高である。

それに対する男性陣も印象的だ。
まずは義理の父。かつては教師をしていたが、今は1人しょぼくれていて、アラトに何から何まで面倒見てもらっている。家計も苦しいし、家庭教師でもやればいいのにと、家族に思われているが出ていかない。小銭があると、料金付きのクロスワードに使って一発逆転を狙うダメ舅である。かつての教え子を頼りにしたりもするが、「かつては自助論を熱心に教えた先生がね…」と哀れまれている(「自助論」は日本でも長年ベストセラーのサミュエル・スマイルズによる自己啓発の古典)。
小津映画に出てくる東野英治郎が、何かの作品で同じような役柄だったなと思い出して、調べてみると、レイ監督は小津映画の愛好者で影響を受けているのだそうだ。本作も小津映画を思わせるホームドラマでもあり、日本との繋がりは嬉しい発見だった。

もう1人の夫は、本作の重要人物だ。インド銀行に勤めているが、折からの不況で経営破綻し、彼は無職になってしまう。彼は、家父長制の男性特有の、妻にあれこれと指図する一方で、新しい時代の男女平等や女性の自立とかに、なんとか適応しようと努める側面もある。みるところ優しい夫だが、しかし、一家を養う義務や「男として強く立派で稼がなくてはならない」というプレッシャーに苦しんでもいる。だから、妻が働きに出ることは、自分を揺るがす事件でもあって、物語を通じてその葛藤と戦い続ける姿を見せる。
本作の印象的な小道具、働き始めた妻が、こっそり持っていた口紅が、その動揺に追い打ちをかける。自分以外の職場の人間に、美しい姿を見せていることを受け入れるのは、受け入れ難いハードルなのだ。しかし、物語を通じて、その妻の自立を受け入れていくことで、彼も成長していく。ここも、本作のもう一つの見どころだ。

しかし、インド社会って、1950年代に女性の自立がテーマになるほどの状況だったのか、現代映画の「私たちが光と思うすべて」で描かれた通り、近年の課題ではないのか…という違和感があった。それに男性の監督が、60年も前にその視点で映画を撮っていることも不可解に感じた。
調べてみたら、監督の資質と、1800年代のイギリス植民地化からの思想運動の影響を知ることができた。
19世紀に監督の出身地ベンガル地方ではベンガル・ルネッサンスという社会改革運動が起きていて、監督の祖父と父は、その運動の担い手であった。監督もその影響を受け、マルチなルネサンス的知識人として成長した。
監督は元々はグラフィックデザイナーで、タイポグラファーとしても、独自の書体をいくつも作り上げている(構図の美しさはこのキャリアによるものだ)。その才人が、イギリス出張中にイタリア映画「自転車泥棒」(ネオリアリズム映画の源流でもあり、歴史的金字塔)を見て、劇場を出てすぐに「この手法でインドの現実を撮影しよう!」と映画監督になることを決意したのだそうだ。
脚本から音楽、美術、編集、ポスターデザインのすべてを、監督は自らコントロールするのだという。小説家としても児童文学やYA作品を多数執筆し、今も愛読されるベストセラーなのだそうだ。
その多彩な監督のバックボーンが、ブラフモ・サマージという宗教改革の思想運動だ。監督の祖父・父はその運動の担い手だった。
イギリス統治下で、多神教は退廃的で古いとされた。そこでブラフマンを唯一神としたキリスト教的一神教の思想を作ろうとしたのがブラフモ・サマージだ。ただ、それは近代のリベラリズム的な価値観をかなり含んでいる。近代合理主義的な西洋と、東洋を融合したコスモポリタン的な考え方、個人の尊厳・自由と責任、女性の教育と地位向上の推進などなど。このスタートが1800年代というから、インド・ベンガル地方は世界的にもかなりの先進性を持って、近代化に取り組んできた場所なのだ。知らなかった。

インドの人は、強い主体性と自我、つまり自分の価値観と意見というものをはっきり持っていて、「同調圧力って何?」くらいの強さを持っていると感じるところがある。それは、こうした歴史にもよるのかもしれない。仏教やヒンズー教などの世界宗教を生み出した国は、思想的な強さを歴史的に持っているということだろうか。
日本人の場合は、今に至るまでかなり集団主義的だ。明治維新でも、敗戦後でも、自分の価値観にこだわらず、変化に適応するためにどんどん自分を変えた。
ベンガルの伝統は、それとは正反対に、原理原則となる思想を持とうとする。それが、インドでの、この物語の後の社会的混乱にもつながったのかもしれないし、日本の場合は企業戦士育成に有利に働いて、戦後の経済成長につながったのではないだろうか。
ただ、日本人は、経済的には先に豊かになったけれど、自己の不安定さを抱えて、自分探しをしながら、不安を抱えて生きている。インド映画から、自らの信じることに従って、自分の道を切り開く、個人の強さを学ぶという刺激をたくさんもらうこともできると感じた。

サタジット・レイ監督の作品は、苦しいけれど希望に満ちた1962年の本作から、その後のインド社会の変遷に従って、より社会を告発するものに変わっていったという。1992年に亡くなった監督の、その後のフィルモグラフィーをこれから追いかけて見ていきたい、そんな思いにさせられた監督との出会いであった。

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nonta

3.5 タイトルなし(ネタバレ)

2025年8月31日
PCから投稿
鑑賞方法:映画館
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りゃんひさ

5.0 強いられない決断としての女性の労働

2025年8月10日
PCから投稿
鑑賞方法:映画館

1963年。サタジット・レイ監督。カルカッタで暮らす銀行員とその妻は一人息子を持ち、老いた父母、年の離れた夫の妹と同居してなんとか生活している。いよいよ生活に困って妻も働きに出ることにするが、老父には理解されないし、息子はぐずりだす。セールスレディをやり始めると、驚くほど優秀な業績を上げて家計を助ける妻だが、夫との関係が微妙になっていくと、なんと夫の銀行が倒産してしまう。一手に家計を支えることになる妻だが、、、という話。
これすばらしい。後期の小津かと見まがうばかりの庶民生活の描写。古い家父長制の意識と新しい都市の生活の対立、誤解からこじれる愛情。
いったんは家族のために仕事をやめようとした妻が、すんでのところで夫の失業を知って思いとどまったものの、それは働き甲斐や主体的な意思とは別の「強いられた決断」であり、そのあたりのもやもやが主演のマドビ・ムカージーの眉のあたりのこだわりとして表れている限り、物語は終わらない。理不尽な会社の決定に対して馘首を覚悟して反旗を翻し、無理を承知で夫に真情を涙ながらにうち明けて初めて、彼女の心は晴れやかになるのだ。「強いられない決断」として女性が働くこと。「チャルラータ」「臆病者」に共通するマドビ・ムカージーの怒りの表情もすばらしいが、最後に喜びの涙にむせる彼女の表情もすばらしい。

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