「タゴールと漱石が響き合う、女性版『それから』ーー19世紀インドに見る近代の痛みと希望」チャルラータ nontaさんの映画レビュー(感想・評価)
タゴールと漱石が響き合う、女性版『それから』ーー19世紀インドに見る近代の痛みと希望
1964年のインド映画だ。先日見たサタジット・レイ監督「ビッグ・シティ」があまりに面白く、刺激的だった。「この監督を追いかけなければ」と、早速、目黒シネマでの上映に駆けつけた。「ビッグ・シティ」同様に、フレッシュでとても楽しく、同時に色々と考えさせられた。すごい監督がインドにいたのを〝発見〟できて嬉しい。
本作を観て、最初の感想は「夏目漱石原作みたいだ」というものだ。夏目の後期、特に「それから」を思わせる内容だった。ストーリー設定、特にエンディングは「それから」を思わせる。男女の違いはあれど「自分らしさ」に目覚めた人の苦悩を書いているところもそっくりなのだ。女性を主人公にした「それから」と紹介したくなる一作だ。
原作は、アジア初のノーベル文学賞受賞者タゴール(80年代に友人と入り浸った神楽坂のバー・タゴールを思い出す。大きな肖像写真が道路に面する壁に貼ってあった。しかし、彼の作品は今に至るまで未読だ。
本作の原作「壊れた巣」は1901年発表で、「それから」の朝日新聞連載は1909年。しかし、夏目がタゴールを読んだ証拠は見つけられなかった(漱石が英語の原著を読んだ可能性はあるかもしれない)。
アジアの最高峰の知識人が、自分の内面に忠実に生きようとする近代人の内面と、それに追いつかない社会ルールの板挟みに苦悩するという、同じ時代の課題を察知した。それが同様の作品として結実したーーということではないだろうか。
本作のあらすじを簡単に書いてみる。
インド独立後の1950年台を舞台にした「ビッグ・シティ」から、ずっと遡って、本作の舞台は1880年のイギリス植民地時代のインド。イギリス風の大邸宅が舞台となる。
同時期の日本で、外国との社交場として建築された鹿鳴館を思わせるたくさんの部屋と英国風の巨大ベッドなどの家具。そこで、子供のいない夫婦が暮らしている。
主人公は、妻のチャルラータ。高い教育を受け、趣味は読書。その教養を活かす場がなく、邸宅の2階に閉じ込めらているかように、退屈に暮らしている。子供はいないし、家事は使用人がやっている。彼女は、刺繍をするか、本を読むくらいしかやることがない。
夫ブバチは近代的な理想主義者の知識人で、英字の政治新聞の発行に熱中している。邸宅の1階がその仕事の場だ。印刷機を導入して、政治新聞を発行するとともに、時に仲間の知識人たちが集まって議論している。しかし、そこにチャルラータの居場所はない。
ブバチは妻を愛し、思いやってもいる。しかし、仕事に夢中であんまり相手をしていられない。退屈するチャルラータのために義理の妹を同居させたが、本も読まない彼女は、せいぜいトランプを一緒に楽しむのが精一杯で、知的会話を本音で楽しむ相手にはならない。
そこでブバチが呼び寄せたのが、大学を卒業したばかりの従兄弟の青年アマル。詩作を嗜むロマンチストの自由な知識人だ。彼の登場で、チャルラータの孤独で退屈な毎日が、詩的で感情豊かな日々に変わっていく。その過程がとても楽しい。彼女は自己表現に目覚めて、文章を書く人になっていく。知的な共鳴は、アマルを特別な存在に変えていく。許されない恋の行方は…(ネタバレを避けるならここまで)という物語だ。
夏目漱石の「それから」との共通点と違いを書いてみたい。
まずは主人公のチャルラータと代助。
高い学歴と知性があるのに、その知性を活かす場がない。裕福な家という経済的バックボーンに支えられて、高等遊民の暮らしをしている。精神的に、とても孤独で孤立していることも共通点だ。
この2人の最大の違いは、言うまでもなく、女性と男性ということ。これは19世紀後半の上流知識階層の違いを反映していると言えそうだ。
インドというと、カースト制や、経済的成長の遅れの印象から、近代化、特に女性の人権や自立と解放は、日本よりずっと遅れていると思っていた。これがとんでもない間違いであることを、本作や同監督の「ビッグ・シティ」を見て、初めて知った。
インド・ベンガル地方では、イギリス植民地になる前の1800年代前半から、ブラフモ・サマージという思想運動が起きている。これは、宗教思想でもあるけれど、相当に現代的でリベラルな要素を持っている。合理的で、人間性重視。同時に、女性の教育と自立を重視するなど、女性解放思想の側面も強いのだ。
現代に至るインド社会の混乱が目くらましになって、僕ら日本人はほとんど知ることがない。この運動自体も、ベンガル上流知識階層にとどまり、インド社会全体を変えるには至らなかった。
原作者のノーベル賞作家タゴールは、このブラフモ思想の継承者でもあり、女性解放論の先駆者でもある。そして、サタジット・レイ監督は、タゴールの創始した大学に学び、晩年に直接教えを受ける機会もあった。
19世紀初頭という、世界的に見ても相当に早い個人主義、自由と自律の思想の系譜が、この映画の背景にあったのだ(元自己啓発書の編集者としては、これを知らなかったのは痛恨である。これからレイ監督の作品を追いかけるとともに、タゴールも読んでいきたい。しかし、タゴールは邦訳がすごく少ないのが残念だ)。
「それから」では、ヒロイン三千代は、言葉少なく流されるように生きていて、自分の意思表示をすることは、最後までほとんどない。それに対して、チャルラータは、最初は黙っているが、物語を通して、自分の言葉を獲得していく。そして、新聞社主であり執筆者でもある夫と、最後には対等のパートナーシップを築くかもしれない高い知性と自己主導性を発揮するに至る。「ビッグシティ」でも同様も流れがあった。
漱石文学では、目覚めた知識人男性は、行き場がない。自分らしさを発揮できる職業も見つからないし、対等のパートナーも得られない。そして、人生に行き詰まっている。
それに対して、本作は(「ビッグ・シティ」も)覚醒した女性が、自らの意志と力で未来に向かおうとする力強さと希望がある。漱石は暗いけれど、こちらは明るいのだ。ここが大きな違いだと思う。
だから、1880年代を舞台にし、1964年に公開された本作を「古い」というのは間違いだ。
現在に至っても、日本では、女性の力強い生き方は困難であるし、男性もまた企業社会に同調して、自分らしさを追求せずに生きていかざるを得ない状況はまだまだ残っている。夫婦の対等なパートナーシップも、ようやくここ10年ほどで実現しつつある状況だと思う。
そうした社会背景など関係なく見ても、本作の演出もモダンで楽しく見どころいっぱいである。
例えば小道具の印象的な使い方。
「ビッグ・シティ」では、口紅が主人公の内面変化を表現する重要な小道具だった。本作では、双眼鏡が重要な小道具になる。
冒頭から、チャルラータがのぞく双眼鏡の視点で、物語は展開していく。横8の字型の双眼鏡の画面で、家の外を眺めたり、室内でも夫の挙動などを双眼鏡で追いかけている。
彼女は観察者だ。観察するだけで、双眼鏡のこちら側、大邸宅の2階の自分の部屋に隠れている。彼女の本質までを見通してくれる人は、アマルが初めてなのだ。そうして初めて「見られる」ことで、彼女は覚醒してくことになっていく。
余談になるけれど、この演出はフランスの画家ドガを思わせるところがあった(たまたま同じ日に、ドガが目玉のオルセー美術館展を見たばかりだった)。ドガは、パリの踊り子など、若い女性をたくさん描いているが、非常に内気で、話したり、直接目を見ることすらできなかったらしい。それで「鍵穴からの視点」の画家と言われるのだそうだ。鍵穴のこっちに隠れて観察だけしているという意味だ。チャルラータも双眼鏡を通してしか、外の世界を繋がっていなかったから、似ているなと思った。チャルラータは文章で、ドガは絵で、内気な自分を表現することに成功したところも共通だ。
本作は、映像的な演出も工夫されている。
彼女が、自分の少女時代を思い出して、それを文章にする場面は、覚醒の瞬間だ。その時、彼女がありありとさまざまな記憶の中に沈んでいく映像演出は、重要な瞬間であることを強調するかのように、それまでの静かな演出とは一変する。
あと、もう一つはラストの演出だ。「それから」同様の、どうなるんだろう、どうしようもないじゃないか、いやなんとかなるのか…という見る側を悩ませる衝撃のラストでも、独特の映像的な演出を施されていて、間違いないく、一生忘れられないような強い印象が残る。
目黒シネマでのサタジット・レイ特集上映はあと数日あるようだ。本作を見て、ますますレイ監督作品への興味が高まった。また彼の映画から学ぶことのできるインド社会の変遷も見ておきたい。
それにレイ監督が描く、自己実現的な生き方や男女の対等なパートナーシップというテーマは、世代に関わらず、生き方のヒントと刺激を与えてくれるものではないかと思う。
サタジット・レイと、タゴールという巨人に出会えた喜びを胸に、彼らの描く人物のように内なる声に忠実に生きてみたいーーそう感じさせてくれる一本だった。
