「アメリカン・ニューシネマの向こう側」暴力脱獄 因果さんの映画レビュー(感想・評価)
アメリカン・ニューシネマの向こう側
ハリウッド黄金期のアメリカ映画には「世界の正義を牽引する民主主義国家」というアメリカの国家的自意識が反映されており、それゆえに力強くわかりやすい物語を湛えた傑作が数えきれないほど生み出された。しかしベトナム戦争でアメリカの自意識が根底から揺らいだとき、それと軌を一するようにアメリカの文芸にも大きな揺らぎが生じた。
映画の場合、それはアメリカン・ニューシネマというムーブメントとして表出した。そこではもっぱら「苦悩する若者」という表象においてアメリカが掲げる「正義」なるものの暴力性や空虚さが暴き立てられた。
ただその中には、名作と呼ばれているものの、実のところ国家や権力に対する異議申し立て以上の射程を持たない作品が少なからず存在していた。しかしそれだけでは当時のアメリカを覆い尽くしていた不安の本髄に触れたことにはならないのではないかと私は思う。
この不安の正体とはつまるところ何であるのか?そんな疑問に真っ向から対峙したのが本作だ。
主人公のルークはパーキングメーターを破壊した罪でフロリダの刑務所に収監される。ルークはその超然とした佇まいで囚人たちに気に入られ、看守たちともそこそこ円滑な関係を構築していく。
しかし刑期満了目前のある日、彼は突如として刑務所を脱走してしまう。彼は刑務所に連れ戻され、それなりの処罰を受けるが、性懲りもなく二度目の脱走に及ぶ。
彼がなぜ脱走するのか、その理由はまったくといっていいほど語られない。ただ一つわかることは、ルークが「自由」の求道者であるということだけだ。
ルークが去ってからしばらく後、獄中の囚人たちにルークから便りが届く。同封されていた写真には両腕に美女を抱いた彼の姿があった。囚人たちは彼の「自由」な生き様に惜しみない称賛を送る。
直後、ルークが再び刑務所に連れ戻されてくる。彼は看守から度重なる拷問を受け続け、ついに心が折れてしまう。情けなく看守の足に縋りつき「改心します」と泣き喚く彼を見て、つまり「自由」を手放してしまった彼を見て、囚人たちは深く失望する。
しかし彼は作業用トラックで三度目の脱走を果たす。囚人仲間であるドラグラインも一緒だった。意表を突かれた看守たちは総出になって彼らを追い詰める。
逃走ルートを発見したドラグラインはルークに一緒に来るよう持ち掛けるが、ルークは悟りきったような表情で首を横に振る。このとき彼は「内側も外側も同じなんだ」というようなことを言う。
どれだけ「自由」を求め彷徨っても、そんなものはどこにもない。刑務所とシャバという二項対立を仮想し、それぞれを「内側」「外側」と区切ってみたところで意味がない。それは言うなれば「どこへ行っても同じである」という虚無的真実を隠蔽するための言葉遊びに過ぎない。彼は「反権力」「反国家」といったお題目のさらに先にある、絶対無の地平を見てしまったのだ。「諦めんなよ!」としつこく食い下がるドラグラインに「俺だって頑張ってみたさ」と弁明するルークの笑顔はまるで能面のように生気が抜けている。
いよいよ追い詰められたルークが最後に辿り着いたのは田舎の古びた教会の中だった。無神論者であるはずの彼は、最後の望みを賭けるように、そこにいるはずの神に語りかける。この世界が内側も外側も存在しない地続きの虚無であることを知ってしまった彼にとって、宗教は最終最後の拠り所だった。しかし神は何も答えない。そして一発の銃弾が彼の心臓を貫いた。
エピローグで刑務所に送還されたドラグラインがルークの武勇伝を他の囚人に語って聞かせるシーンはことさら印象深い。彼らはルークを権力に対する勝利者であると称えるが、これは冒頭で述べたような「反国家」「反権力」それ自体を目的とした一部のアメリカン・ニューシネマと同等の位相にある。
しかしルークは、あるいは本作はそこが最終地点ではないことを知っている。彼の諦観めいた双眸の先には、国家も権力も戦争も自由も宗教も何もかもが等しく効力を持ちえない絶対無の地平が、ただただ広漠と広がっているばかりだ。