「映画と無意識」鳥 よしたださんの映画レビュー(感想・評価)
映画と無意識
2回目の鑑賞。前回から5年以上経つだろうか。その時は、単に鳥の恐ろしさ、自然の人間に対する不条理をよく描けた作品くらいに思った。今回までの間に、同じくヒッチコックの作品で「サイコ」を観ていたので、彼の映画における無意識への関心という点から、この「鳥」についても考察を進めることができた。
鳥たちが、一斉に人間を襲うという、この非現実的な不条理を、なせ映画のモチーフとしたのか。これは、漠然とした人間の不安。普段は意識されない、無意識の中に沈んでいる恐怖を象徴しているのではなかろうか。
ボデガ湾のレストランで、鳥類研究を趣味にしているという女性が、鳥が人間を理由なく襲うことなどないと科学的な知見を語るシーンがある。しかし、地球上に生息する全鳥類の個体数のその天文学的な数字に言及した彼女自身が、人類が鳥と戦い、これを滅ぼすことなど不可能なのだという空恐ろしい想像に身震いをする。「もし」という仮定が、現実なったらという恐怖の薄気味悪さを、彼女はここで感じている。
「サイコ」と同様に、主人公の女は自由奔放な性格で、何よりも男好きである。しかも、女が訪れる先の男は、彼の母親の強い支配を受けている好青年。母親の支配から自由になりたい気持ちをどこまで自覚しているのかは判らないが、母親の自分に対する評価にはひどく神経質だ。
一方の母親は、(「サイコ」では実は亡くなっているのだが)息子への愛情の強さを、その恋人と競い合い、最終的には敗北する自らの運命を恐れている。
こうした何となく抱いていた不安が、主人公の女の来訪によって、無意識のレベルから意識の上に現れてくる。これを象徴的な出来事として表現したのが、鳥たちの来襲なのではなかろうか。
ボデガ湾を車で脱出するラストシーン。鳥/恐怖で埋め尽くされた村を、意識を失った女を介抱しながら、男が家族を車に乗せて、ゆっくりと進み始める。静かに、そっと、鳥/恐怖を再び目覚めさせることのないように。
意識を失い無意識の世界に沈んだ女、自らの意識下の恐怖の実態に気付き始めた男とその母親。互いの無意識に潜む恐れを意識させぬように、閉じられた人間関係の中で、肩を寄せ合う姿こそ、現代の核家族の姿と、そこへ侵入することでしか新しい家庭を持つことのできない、現代女性を包む冷ややかな現実に他ならない。