「少女は成長して“女”になりつつある」エル・スール 松井の天井直撃ホームランさんの映画レビュー(感想・評価)
少女は成長して“女”になりつつある
【ファーストシーン】
画面は真っ暗だ。微かに時計の時を刻む音が聞こえ、小鳥のさえずる声も聞こえて来る。
やがて少しずつ画面に光が入って来ると、どうやらベッドらしきモノが確認出来る。
すると突然犬が吠え始める。
「アグスティン!」
母親の慌てる声が響く。
《フェードアウト》
《フェード・イン》
ゆっくりと部屋に朝陽が挿し始める。ベッドには主人公であるエストレリャが寝ていたが、彼女にはもう父親は戻って来ないのを、枕もとに父親が置いていった振り子から感じる。
部屋の明るさは増し、窓辺から挿す光で部屋の内部が完全に見える。
振り子を見つめながらベッドの縁に佇むエストレリャ。
まるでフェルメールの絵画が動いているかの様な美しさに溢れている。
これで何度目だろう。特集上映から、正式上映。名画座、深夜のテレビ放送、ビデオ鑑賞を含めて7度目かそれとも8度目か。
この映画は主人公であるエストレリャのナレーションに沿って父親の思い出が語られる。
冒頭から引き続き、父親による振り子のマジックを語るまだ幼いエストレリャ。父親の部屋で振り子の振り方を習い、水脈を当てる父親。
この時にスカートを広げコインを受け取る。
この場面ではミレーの絵画の構図を思い浮かべさせる。(確か公開当時はジョン・フォードの『わが谷は緑なりき』との類似性の指摘があったと記憶している)
続いてのナレーション場面は初聖体拝受の前日。父親が棄てた“南”から祖母と父親の乳母がやって来る。
ここまでのナレーションは、父親の振り子も、祖母と乳母ミラグロスも、どんな人かを観客に知らせる為のナレーションになっている。
エストレリャは父親には“南”を棄てなければならなかった秘密があるのをミラグロスから教わり、同時に“南”を身近に感じ、ミラグロスと長年に渡り連絡を取り合う。
「来てくれるかなあ」とエストレリャ。
元来は教会には来ない父親。ミラグロスと交わした会話からスペイン内戦によるフランコ政権化から、父親は“南”から追われ、まだ見ぬ祖父との確執を知る。
肉親・知人・隣人が憎しみ殺し合ったスペイン内戦。北に住む幼いエストレリャにはまだよく理解出来ない。
初聖体拝受当日。教会には来ないかも知れない父親に、着飾った自分を見て貰いたいから走るエストレリャ。父親が放つ空気を切り裂く銃砲の音。
ハッとするエストレリャの顔にオーバーラップで教会の場面が被さる。
教会の隅から見守っていた父親が表れる。
この時のオメロ・アントヌッテイの登場場面がどこかレンブラントの絵画を見る様だった。
駆け寄るエストレリャは白い衣装からドガが好んで描いた少女の絵画の様です。
この教会の場面は計3回オーバーラップがあり、3回目が家族のパーティーシーンで、椅子に掛けられた白い衣装に被さる。
父親とダンスを踊るエストレリャ。
やや下から映される美しいこの場面に流れる音楽は、ラスト近くのレストランで父娘が最後に会う場面に繋がる。
そして遂にエストレリャは父親の秘密を知ってしまう。
ここからエストレリャは少しずつ少女から女の子へ。そして女の子から女へゆっくりと成長して行く事になる。
父親が“南”から大事にして来たイレーネ・リオスとゆう女性の存在。
そのイレーネ・リオスをエストレリャは知ってしまう。
映画館で父親が観ている映画にイレーネ・リオスとゆう女優が出演していた。
この辺りからエストレリャのナレーションによって展開される回想映画で在りながら、父親の目線でもストーリーが展開され始め映画として違和感が出て来る。
父親は映画を観た興奮からか思わずカフェで元恋人へ手紙をしたためる。この時と、その後の返事は明らかに回想映画としては有り得ない。しかしこの手紙を書いている時に父親を見つけたエストレリャは窓越しに父親と眼と眼を見つめ合う。
有り得ないのだが、回想者であるエストレリャが画面上に映っている為に違和感は薄れている。
それより何よりも、この窓越しの場面の何とゆう美しさだろうか。
構図的にはマネの絵画を想像してしまいます。
観方によっては、父親の秘密を知った少女が初めて女への一歩を歩んだ瞬間だったのかも知れません。
続く手紙の返事を父親が読む場面はどうだろう。
ここにはエストレリャは居ない。この後で父親と 母親がなじりあっているのを聞くエストレリャ。以前何も考えずに母親に「イレーネ・リオスって誰?」と聞いてしまった事が原因なのかと自分で勝手に決め込み、映画館で貰ったチラシを燃やす。
この場面こそが少女が女として成長して行く過程の様な気がします。
その前にも父親と母親は一度なじりあう会話が聞こえていたが、今回は自分の責任を感じているエストレリャ。
そう考えるとイレーネ・リオスの手紙の返事の場面は、そんなエストレリャの気持ちを強調する為に必要かも知れないと、今回初めて少し感じた。
現にこの後エストレリャは女としての嫉妬心を露わにする場面が在る。
またしても家を出る父親。涼しい顔をして帰って来た父親に対して抗議する様にエストレリャもその存在を消そうとする。
沈黙には沈黙で返す父親。
この場面の“沈黙ゲーム”こそは、男と女の嫉妬と裏切り、確執のぶつかり合い・せめぎ合いに他ならず、またナレーション無くしては観客には「一体何がどうして、どうなっているんだ!」と疑問を抱かせてしまう場面です。
そしていつしかエストレリャは少女から女の子へと成長する。
この時に映画史上大変に美しい時間経過を観客に知らせる名場面がある。
自転車を漕ぎ“国境”を画面奥まで進むエストレリャ。追い掛ける犬のオーバーラップ。
枯れ葉が“国境”一面に舞い広がっている。“国境”の画面奥から成長したエストレリャが帰って来る。犬は大きくなっている。
何とシンプルでいて深みの在る場面であろうか。
実に素晴らしい!
そして、いつしか少女から女の子に成長したエストレリャにとって父親の存在は少しばかり疎ましい存在となっていた。
ラスト間近レストランで親しい男の子との関係を聞かれ、露骨に気分を害すエストレリャに最早少女としての面影は無い。
少女は成長して“女”になりつつあるのだ。
やがて“あの時”の「エン・エル・ムンド」の調べが聞こえて来る。
「覚えてる?」と父親。
父親の思いは決まっていた。
それを理解出来ず、今となっては父親が残っていった振り子を見つめ直しては、あの時の父親の残した言葉の真意が測りかねて、後悔の念に駆られるエストレリャ。
だからこそ父親が残していった“南”からの“想い出”をバッグに詰めるエストレリャ。
今まさに彼女は“南”を知ろうとする。
ラストシーンで、カメラ越しにスクリーンを見つめている観客に対して、1人の女として鋭い眼光で見つめ返すエストレリャ。
監督のビクトル・エリセはインタビューに対してこう答えている。
「『エル・スール』は未完の作品です。」
何でも経済的な理由から撮影が中断してしまい、その後の撮影が困難になってしまったのだとか。
肝心な“南”が描かけなかったのもその、理由だと…。
でもMr.エリセ。
私はこれで充分に名作だと思います。
何度も何度も観る度に感じます。
今日で確信は更に深まりました。