「異文化の中で気づきを与えられる」河(1951) Socialjusticeさんの映画レビュー(感想・評価)
異文化の中で気づきを与えられる
現在のお祭り騒ぎのディワリより、この伝統的なのに興味があり集中して見ていたが、米国帰還兵士ジョン(Thomas E. Breen)の心の葛藤に興味が出てきた。
息を呑むようなインドのガンジス・デルタ文化とそこで醸し出す人間ドラマで、キャプテン ジョンが第2次大戦で負傷して片足を無くしたことにより、自分を見失ってしまったが、いとこの家庭に滞在している間で、人々と関わっている間に自分を取り戻し、立ち直り米国に戻っていくというストーリー。
ガンジスがわのそばに住んでいるイギリスの家族(この映画が何年の設定か明確でないが当時はインドはイギリスの植民地。)
父親はジュートの繊維工場を経営していて、子供達(姉妹と弟)とインド人の召使たちと暮らしている。そこに近所のメラニー(Radha Burnier )の父親がアメリカの従兄弟ジョンを招く。ハリエットたちはアメリカ人、ジョンに興味を持つが片足が不自由だと気づく。
ハリエット(Patricia Walters )と姉のバレリー(Adrienne Corri )とメラニーはジョンが好きになる。
ここで大きな気づきを与えてくれる最高のシーンがある。
自分が片足になったことを受け入れられないでいるジョン。メラニーはジョンに「同意する」ことだという。受け入れると言う方が適切な日本語だろう。
ジョンは「何に」と
メラニーは「全てに」と
「自分は反逆している」と。
メラニーは「反逆も争いだ」と。
それからジョンは
「I am not stranger anymore」と
ジョンは自分は片足のジョンで生きることを受け入れることができた。メラニーの言葉はジョンに気づきを与えてくれた。
この迷いをメラニーも持っていた。メラニーは自分のことが嫌いだとジョンに言った。ジョンは不思議そうな顔をしたが、当時のインドにはメラニーのアメリカ人のお父さんのようにインド人との結婚で二つの文化を持ったメラニーのような子供を持つことは稀だったようだ。メラニー自身も自分のアイデンティティを探している時、自分を失ったジョンにあったわけだ。
例えば、メラニーの父親は「メラニーはどこに属するかわからない」と。そして「生まれなければよかった」と言う。
メラニーは「私は生まれている。いつか自分がどこの属するか見つける」と言う。
自分を受け入れられないで「争い」をする。例えば、ある人は自分が老いていくことを受け入れられなくて、整形を繰り返して戦う。単純な例だがこの人は受け入れると言うことに気づかない。自分の意識にないのである。
これに言語化して気づかせたバレリーとメラニーの存在は大きい。
ハリエットが(Patricia Walters )が大人になって書いた小説をナレーターとして話しているという形にしている。