エドワード・ヤンの恋愛時代のレビュー・感想・評価
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エドワード・ヤンの群像劇
まあまあ、が基本ずーっと続きます(笑)
評価が高いみたいだから観たんだけど、なんかガッカリ(笑)
登場人物が多くて名前と顔を覚えるのが大変で、こんがらがるし(笑)
90年代の台湾が舞台ですが、90年代の日本と似た感じもあって、なつかしい。
なんか、当時のトレンディドラマっぽいタッチかも?
僕は、同じ群像劇で、同じアジア圏の、ウォン・カーウァイ監督の『欲望の翼』の方が好きです。
『欲望の翼』は哀愁を帯びててノワールっぽくて、
この映画はコメディ色ありながら綺麗っぽくて、
そんな感じかな。
一国二制度の生み出した奇跡
最初の方は正直退屈で失敗したかと思った。4組8人の男女の恋愛模様というかすれ違いや新たな結び付きが描かれる。登場人物が出揃ってそれぞれの事情が明らかになってきたあたりからは俄然面白くなる。
年代からいって日本のトレンディドラマの影響は見受けられるが何というかあれをもっと昇華させたイメージ。生活感がないのは同じだが日本のトレンディドラマが描ききれませんでした、気配りが足りませんでした、といった言い訳満載なのに対し、恋愛事情に関係ないのでバッサリ切りました、といった潔さが感じられる。カッコいいレストランやカフェも出てくるが書き割りみたい。
つまり極めて演劇的なのである。肉体性も薄く(ベッドシーンも一箇所だけ)ドロドロした部分はなく何か形而上的に全員が恋愛の成就をトロフィーとして競っているようにすらみえる。
だからシェークスピアの喜劇「から騒ぎ」「ウインザーの陽気な女房たち」なんかに近い作劇センスを感じた。バーディーとかモーリーとか英米名でファーストネームを呼び合ってるとこからの連想もあるけど。監督もエドワードだしね。
1994年というと一国二制度が奇跡的なバランスを保っていた時代。政治の安定と経済の発展は個人の希望と野心を生み出し文化の成熟につながる。この時代の台北ではこんな知的な恋愛喜劇がつくれたんだなとしみじみ思う。
ケンケンしすぎ
みんながみんな、好き放題感情を爆発させてケンケンしていて雰囲気が悪い。モーリーみたいな怒りっぽい女がいい女扱いされているのだけど、絶対遠慮したい。男は全員遠慮なくすぐ怒る。誰とも親しくなりたくない。
大げんかの後に体の関係になってすっかり恋人気分のモーリーに対して相手がゴニョっていると、それに対してモーリーがまたしてもブチ切れ。だからだろ、と思う。
共感出来ないのに共感出来る
ガラガラのシネコンで外の暑さと喧騒に遮断されての鑑賞。
初めて観たのに懐かしい。
1990年代は子供だったのに。
モーリーはもちろん、結局みんなわがままで「生への執着」がうるさいし(褒めてる)誰一人共感出来ないのに分かると思ってしまう不思議な体験。
ラストが好きな映画ベスト5に入れたい。
邦題はちょっと違う気がするけど
近代的な台北の街を舞台に繰り広げられる恋愛群像劇、と言われたらそう...
近代的な台北の街を舞台に繰り広げられる恋愛群像劇、と言われたらそうかもしれないけど、空疎な時代と空疎な理想にがんじがらめになりながらも本当に大事なものを探り、追い求める人達の物語だと思いました。
美しくドラマチックで幸福な映画体験。
観たかった度◎鑑賞後の満足度○ 【今から見ると恋愛時代というよりもアジア(中国)の時代を先取りした映画だったように思える】
①製作年度の1994年というと日本ではバブルがはじけ、それまでのアジア一の経済大国から転げ落ち始め、その後30年以上這い上がれずに現在に至っている。
一方、中国(大陸)は改革解放政策により此の頃から経済成長が一気に進み、台湾も堅実に経済成長を続け、更に続いて(より安い労働力を求めて日本のメーカーが生産拠点を移したという恩恵も有るけれども)シンガポール、タイ、ヴェトナム、マレーシア、インドネシアも経済成長が進んでいく。
是等の国々にとって最早日本は「かつての金メダリスト」(昔は凄かったけどね)という認識らしい。
②そういう台湾の経済成長を背景にして、この映画の中心をなす若者達は、中流階級から富裕層までの所謂生活(衣食住)には困っていない者達である。
財閥の娘から一流かどうかは分からないけれども其なりの会社の社員たち、一応成功しているらしい映画監督等々。
生活の心配がないから勢い彼らの問題・悩みは、恋愛問題・男女関係・人生の目的/意味の追求・生き甲斐といったことに向けられる。
豊かになった国の若者(年配者もそうかもしれないが)は大なり小なりこういう問題を抱えることになるけれども(格差の問題はまた別の話)。
③映画の冒頭部分は主要キャラクターの関係がよく飲み込めなく戸惑う。
約30年前の台北の景色
私が学生だった頃の映画 このころは映画を観る余裕もなく…
何処にでもある、裕福層の風景
裕福なだけに自由は制限され(貧困層の僕のイメージだが、公務員も未だに裕福層には低身)良くあるであろう風景
裕福層の話で、私の現実とは…
90年代的ドタバタ群像劇の中にエドワード・ヤン節が差し込まれてくる...
90年代的ドタバタ群像劇の中にエドワード・ヤン節が差し込まれてくる。タイミングや角度もバッチリ。またテーマも軽薄な人物の入れ代わり立ち代わりと見せかけて 孤独 人の関わり 幸福 未来。現代も全く古びることのない生きづらさを全面に叩きつけてくるようだ。素晴らしい。なぜエドワード・ヤンは見始めてすぐエドワード・ヤンとわかるのだろう。相米にも感じるけど。それが巨匠か。
群青劇って難しい
公開日当日のレビュー評価があまりにも高かったので、思いつきで鑑賞。
結果的には、自分にはそこまでマッチしなかったというとこです。
大人の人間劇が描かれていますが、感情輸入できず、ただ単にシーンが移り変わるだけな印象です(2度目、じっくり見れば違う感想になるのかな‥)
でも、最後のエレベーターは(予想できたけど)良かったですね。爽やかなエンディングです。
惜しかった……
もの凄く良かったんだけども、
ただそうとは言い切れないモヤモヤが残り…。
それも大人の群像劇だからって感じですかね。
群像劇ならではのおもしろさがあって、
こことここがああなっちゃうんだ、とか
出てくるだけでコメディ色強くなるキャラがいたりとか
すごく楽しめたのは、楽しめた。
女性の自立を描いた映画になりつつも、
やはりああいうラストに結実してしまったのは
個人的には残念で、ややげっそりした。
前半で大体のセットアップを済ませて
後半、めちゃくちゃ面白くなる映画だった
1990年代の台北の人間模様。 都会的でもあり生活臭もあり、人々が...
1990年代の台北の人間模様。
都会的でもあり生活臭もあり、人々がそれぞれの思惑で擦れ違う、都会の人々はむしろ孤独…。
映像が美しく、示唆に富む言葉が随所に。
いま2020年代に見ても、古さを感じませんね。名作と言われるのも納得です。
鑑賞後、私的には、英語題(A Confucian Confusion = 儒教的混乱) や、台湾語題(獨立時代) のほうが、しっくりきました。
日本題 (恋愛時代) では、恋愛は大きな関心ではありますが、恋愛だけが、これら人々のすべてではないことが、見て分かりました。
揺れる映画、例えばエレベーターは、、、
1994年。エドワード・ヤン監督。経済的に急速に繁栄する台湾社会。そのなかでメディア企業を経営する財閥の一人を中心に、家族や友人たちの恋愛模様が描かれる。それぞれ強力なキャラクターを持つ複数の、しかし閉じた世界の住人たちの姿が徐々に浮き彫りになるだけでなく、それぞれが関係性を変えていくのがすばらしい。「見た目」や「ふり」を気にする人たちと、それに対して「真実」を求めてしまう人たちが、そのキャラに固執するのではなく、揺れ動く。その揺れ具合がすばらしい。ぐいぐいと引き込まれます。物語(とくにセリフ)と映像(光)の吸引力がすごい。多様性に向かって開かれていく喜びがあります。
例えば、エレベーター。もちろん上下に運動して目的のある男や女を目的地まで運ぶ箱なのだが、それだけではなく、箱のなかでは男女の痴話げんかもあれば、入口でのすれ違いもあり、乗りたくないのに乗せられてしまうこともある。または、到着音だけで喧嘩別れした旧友が来てくれたことを察知したりもする。そしてすばらしいラストシーンで再び出会い直す男女。なんてことだ。車があれば、といった人はいたが、エレベーターがあれば、映画はできるのだ。
政治や社会も含めて台湾社会の現在を鋭く切り取っているのに決して古臭く見えないのはカメラワークや科白回し、そして編集全体がしっかりしているからだろう。流行に合わせて「わかるよね」という妥協をせず、映画作品としてしっかり自律している。例えば、中心となっている無垢で真摯な、それだけに悩み深い女性が明らかにヘプバーンを模倣しているなど、映画史への参照。水面を反射した光や電気のない部屋に漏れてくる外のもやっとした明かりなど光への感性。これは「映画であること」へのまぎれもない刻印だ。いかに現代台湾の風俗に言及していても、決して時代に寄りかかってはいない。
こんな映画がまだ未見で残っているのだから、世界に絶望するのは早いと思える、幸福な映画体験。
ラストがとても良かった
これからは良い関係を築けそうなラスト
大切な人と珈琲を飲みたくなる
ヤン監督がウディ・アレンみたいな映画を撮ると言ってたそう
ローマの休日のアン王女のような可愛らしいチチ
ずっと見たいと思っていたので上映してくださりありがとうございました
TIFFにて
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