コズモポリス : 映画評論・批評
2013年4月3日更新
2013年4月13日よりヒューマントラストシネマ渋谷、新宿武蔵野館ほかにてロードショー
デリーロの原作をほぼ忠実に映画化したクローネンバーグ流黙示録
ハイテクへの閉塞、冷ややかに激発する銃弾、クローネンバーグはやはりクローネンバーグである。
ジュリエット・ビノシュ、サマンサ・モートン、サラ・ガドンという計算されつくした女優の顔選び、そして、銃を扱う時、彼ならではの官能が計算外に弾け散るのである。それにしても、食事、排泄がここまできちんと画面にあらわれ、主題化された映画も珍しい。ハイテク・リスク世界の抽象性をあざ笑うかのように。
コズモポリスとは、国際都市ニューヨークのこととしても、加えてこの場合は<サイバー空間>ということになる。スクリーン上の情報の国際的瞬時性という魔力空間。そうした利便性と同時に加速する身体的な空虚と閉塞感。このあたりは妙にわかりやすい。投資会社エリートの生活と殺人を克明にデータ化した小説に、ブレット・イーストン・エリスの「アメリカン・サイコ」があるが、時代が進み、さらに抽象に踏み込んだ作品がドン・デリーロの「コズモポリス」であった。デリーロ原作では、投機対象は<円>だった。さすがに今回の映画化にあってクローネンバーグは<元>とせざるをえなかった。原作と映画化に10年近く間が空くと経済情勢は一変するとわかる。この変更以外はほぼ原作通りという、クローネンバーグとしても異例のストレートな映画化作品となった。ということは、いかに自分と同じ体質をデリーロに見いだしたかということである。ハイテクの動く城としての豪華な大型リムジンが前半の主要舞台だが、エリック・パッカー(ロバート・パティンソン)がこの閉塞と安全を打ち破った時、待ち構えていたものは……。
映画を観たものは誰もが前立腺に思いをはせるにちがいない。
(滝本誠)