シン・エヴァンゲリオン劇場版のレビュー・感想・評価
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難しい
エヴァシリーズの最後の物語となる映画。
エヴァシリーズは、新しい映画がでしかしっかりと見た事が無く、それでも内容が分かるかなと思ったけど、
やっぱり難しいかなと感じました。
内容としては、今まで登場してきたキャラクターの総決算のような感じで全体として明るいシーンもあったりして良かったです。
綾波の畑で働く所や子どもを抱く所、些細な事に疑問を持つ所、改めて自分も色々と考えさせられました。
孤独が人を苦しめてしまう。
それを変えたくて何か抗おうしてぶつかり、傷つき、傷つけてしまう。
それでも少し良い人でありたいと思う気持ちがあるから何か分からなくても前に進みたいと思える。
普遍的に伝わるものではないような気がした。
それでも、どこか救わられるようなそんなお話だった思いました!
呪縛からの解放
エヴァと出会ったのは中学生。シンジたちとほぼ
同い年の頃だった。難解な世界観や表現の考察にはまり、
以来、熱量にムラはありつつもアニメや漫画から
離れられないまま30代半ば。
前作、エヴァQで語られた「エヴァの呪縛」とは、
自分のような大人になりきれない人間を表していて、
シンジをはじめとするチルドレンたちはその投影
なのだと考えていた。
しかし、今作を見てその考えを改めた。
「エヴァの呪縛」とは、庵野監督をはじめとする
エヴァ制作陣にかけられた「エヴァという作品から
逃れられず、先へ進めない」という呪いであり、
エヴァに乗る使命を持ったチルドレンは、
彼ら自身の投影なのだ。
庵野監督自身の投影であるシンジは、自分の本当の
望みに蓋をしてエヴァに乗り続けてきたチルドレン
達をエヴァから解放し、自分もまたエヴァのない
新しい世界へマリと共に駆け出していく。
マリは庵野監督の妻である安野モヨコ氏の
投影だったのだろう。
思えば、繰り返されるように見えたエヴァの物語は、
新劇場版で新たに加わったマリの登場から少しずつ
軌道を変え、「シン」の結末へと繋がっていった。
劇中でカヲルの語る「縁が君を導くだろう」という
言葉が思い出される。
おそらく、庵野監督にとってモヨコ氏の存在が
エヴァを終わらせる原動力となり、物語をあるべき
終わりへと導くミューズになったのだろう。
映画パンフのコメントからも、妻への感謝が伺える。
メタ的な側面についてのみ長々と書いてしまったが、
今作の素晴らしいところは、こういったメタ的な
部分を含みながらも物語として全く破綻なく、
美しく仕上がっているところにある。
込み入った考察を抜きにして、スピード感のある
ロボットアクションとして見ても、碇親子を中心と
する人間ドラマとして見ても、個人的には文句の
つけようのない最終作だった。
二十余年にわたり追い続けてきて、本当に良かった。
ありがとう。さようなら。エヴァンゲリオン。
ありがとう、さようなら
終劇...
ありがとう
思いがジンジン来ました。
理解して考察してってのがもう無粋なような気がして、小5の時にTVアニメのミサトさんのシーンに赤面してテレビ切った事や、まだアニメ=オタクだったので友達誘えなくて1人で見に行ってシンジ君のシーンでうぇってなったり途中でまさかの2部構成に気づいたりして
ヤマトの沖ミサ艦長もかっこよすぎて号泣
まさかのおチビさん!サービス良すぎです。
振り返らず、前へ進むために。
庵野監督以下、エヴァを生み出し、完結してくださった皆様、本当にありがとうございました!
ここに生きる彼ら、彼女らにも(TV版、旧劇場版、新劇場版含めてすべてのエヴァ)苦しくて、辛くて、どうにもできなくて足掻くしかなかったり、何もできなかったり、といった様々な「思い」がありました。
彼ら、彼女らは、彼ら、彼女らなりに精一杯そこで生きていたんです。愛着が生まれないわけがありません。
彼ら、彼女らとの別れは、正直、寂しくて切ない気持ちです。
「さよなら」は、すべてを受け入れて、次へと進む言葉だと、何かの歌に聞いたことがあります。
この世界は広くて面白いです。新しい出会いを求めて、ワクワクしながらあの二人のように飛び出して行こうと思います。失敗したり、辛いことや悲しいことがあるかもしれないけれど、甘んじてお受けするつもりで!笑
と、思いながら、正座をして、そっと心の中で言いました。「今までありがとうございました。さよなら」と。
カヲル君の謎や結末について考察と解説
ざっくりネタバレについて書きます。
・カヲルについて
カワルは『生命の書』にシンジの名前があると言っていました。生命の書は死海文書とは異なりますが、どちらにせよカヲルの発言から読み取るに、その書に記されているシンジの名はQの世界にいたカヲルが書き記したものではありません。(死海文書はゲーム設定ではアダムス、生命の書は謎のまま)
カヲルはこの書によってシンジを知り、そして好意を持ち、幸せにしようと動いていたと思われます。
ここでループ説についてですが、序→破→Q→シン・へと時系列は変わっていません。それと旧アニメや旧劇場版からの作品上で直接の繋がりはありません。
ですが、カヲルの存在によって今までの数ある世界には“エヴァンゲリオン”があり、インパクトが繰り返し起こされていたであろう事は認められるので各作品での世界線については変わっていないとは言い切れません。
今作で、カヲルは何度も自分の『役割』を果たそうとしていた事が語られます。
この『役割』とは“エヴァ世界におけるカヲル”に与えられた役目の事であって、メタフィクションな発言が含まれています。(※追加のメタ表現としてカヲルとの別れのシーンで、新劇のシンジが見ていないはずの旧作でのカヲルとの思い出の場所が映し出されます)
様々な世界があったからカヲルは無数ある棺から世界が変わっては目覚めて、変わっては目覚めてを繰り返してシンジを幸せにしようとしていました。
結果、世界線が違うエヴァの世界は存在していたし、ループしていたかもしれないといえばそうとも言える。あくまでそれは主人公であるシンジがエヴァありきでやり直す事を望んだ世界があったならですが…
私的には作品上の世界ではループは起こってなくて、カヲルだけはループしていた世界から登場してきたという結論です。(カヲルが経験したループ世界の中に旧作のような世界もあった可能性はあり)
シン・エヴァでシンジがカヲルの助けもいらない大人になり、エヴァンゲリオンの無い世界を選んだのでカヲルの役目も終わりました。
・ゲンドウはユイに会えたのか?について。
最後にゲンドウはシンジの中にユイがいた事に気づきました。ですが、気づいたと同時に舞台から降ろされてしまいました。
ユイは破で覚醒により初号機とシンジが同化した時に、シンジの中に入ったと思われます。
結論ですが、ゲンドウはユイと会えていたが最後の瞬間まで存在に気づけなかった。
ゲンドウが裏宇宙でユイを探しましたが会えなかったのは、シンジがアダムスの魂を有し、ゲンドウと同じ存在だった為に生命のコモディティ化?に巻き込まれず、シンジの中に留まっていたからです。
向き合い方が分からず最後まで息子と接触する事を恐れていた為にシンジの中のユイに気づく事ができなかったという悲しい結果です。
最後に気づいた事でゲンドウが報われていたのならいいですけどね、最後の背中がちょい寂しかった。
・シンジがマリと手を取った最後
私としてはレイやアスカやカヲルが一緒の学校、一緒のクラスで楽しく過ごす的なありきたりなエンドがベストでした。マリとは繋がったままレイやアスカとの関係が切れてるのを受け入れてしまうのが正直ツラかったです。
エヴァの無い世界を望んだら、本来エヴァがあってこそ関われた者と『他人』になるのは当然の結果なので、受け入れるしかないんでしょうね。
マリは現実という宇宙でシンジを見つけてくれた大切な存在だろうし、ファーストインパクトが無かったら存在しなかったレイやカヲルが、他人ではあるが人間としてどこかで生きていてくれるだけで良かったと思うようにします。
でも俺、レイが好きだったんだよぉおおおおおおおおおおお!
何でカヲルと一緒におんねん!?どういう関係なんや??似てるって言ってたから兄妹か?恋人ちゃうよなぁ?イケメンと美女でお似合い過ぎやわ。せめてシンジとくっついてえな。オオオオイイイイ泣
おっぴろげ!
今までは秘して花の如く、専門用語や曖昧な表現を散りばめ、ネットやムック本の考察に一喜一憂していたが、今回は違う。
専門用語はあるにせよ、それは飾り。
今までの秘密や曖昧なところをばっさばっさとはっきり明確に、そして具体的に回答を出していく。観客が尾ひれ手ひれをつけてあーでもない、こーでもないと議論していたことが恥ずかしくなるぐらいに。
メインの観客も良い年齢になったでしょう。
人生色々あったし他にやることも一杯あるでしょう。エヴァから卒業してもいいのでは?という監督の声が聞こえてきたように感じた。特に前半部の狙いはこれ。
そのぶん花火大会最後の連続花火の如く
がっつり映画は2時間半。(尺は二の次)
戦闘シーンてんこ盛り。これまでのキャラクター総登場。ファンが待ち望んだベストバウトあり。
もう秘して花はなくなり、後で語り合う楽しみはなくなった。
だけど花火のように見ている間は最高だった!
もうファンして心残りはない。
長年に渡る知的好奇心、スリル、ワクワクをありがとうございました。
I will (NOT) say goodbye
14でエヴァに出会い、旧劇で打ちのめされ
破で希望を見出し、28で完結を迎えることが
できたこと。監督と全てのスタッフに感謝。
心に残ったこと(個人的解釈)
神を殺す=人の世界に進む
槍がなければ実現できない神殺し
そして神が与えた感情(希望or絶望)で
進むのではなく、人間自身の意思で
神(守ってくれるもの)がない世界へ進む。
その決意は美しかった。
好きな人とずっといたい。その気持ちを
抱いた瞬間、黒波と綾波の魂は重なったのではなかろうか。
プラグスーツは白くなったし、魂に刻まれたツバメちゃんの
記憶も、エヴァの綾波に引き継がれていた。
イマジナリーではなく、リアリティで立ち直ったシンジくん
旧劇では他人と向き合うことを選んだ(自分を救った)けど
今回はすでに周りから救われていたから、
周りを救いたいという願いになったのだろうか。
まごころはシンジくんだけではなく
みんなにやっと届いた。大人になったね。
旧劇含め、ずっとユイに会うことが最終目的だったゲンドウ
今作ではユイの存在をシンジに見つけて終わりではなく
母親としてシンジを守りたいユイを見届けることを
補完の中心として望んだ。ユイに会って終わるではなく
シンジをユイと一緒に送り出した。
ゲンドウ、やっと親になれた。
母を持たないから、母の愛という呪縛が
なかったアスカ。旧作のオリジナルから
生まれた式波だから救われた。
シンジに裸を見られてもなんともなかったのに
砂浜で両思いと知った後は赤くなってるの
全てのアスカ派の希望だと思う。
ミサトさん。サービスはもう、ないんだね。
母親としてしてあげられるのはこれだけだった。
じゃあないよ。そのたった一つが
全ての子どもたちを救った。帽子ない方がきれいだよ。
シンジくんとも、健全な別れ方だったし
きっとカジとカヲルくんと農作業をやってるんじゃないかな。
カヲルくん。寂しがり屋で自分も幸せになろうと
してた。超然とした何かではなくて、しっかり心を
もった人間だと知れて、うれしかった。
トウジ、ケンスケ。生きててよかった。
きっと新世界とは別に、ニアサーの縁が繋いだ世界は残って
そこで素敵な家庭を築くはず。
彼らと全てのエヴァンゲリオンにさようならを告げ
僕らはシンジくんとマリさんと
汎用決戦兵器がない世界にやってきた。
エヴァがなくても、幸せになれる。
その掛け声が「行こう」だったのかなあ。
終劇という短すぎる時間じゃ
まとめられないけど、今感じたことは
今にしか書けないので残す。
ああ、終わってしまったんだな!(スッキリ)
さようならは、また会うためのおまじない。
だから、I will (NOT) say goodbye.
「解呪」とは言いえて妙
「エヴァンゲリオンはやっぱりエヴァンゲリオンだった」の言葉通り、エヴァンゲリオンでした。
映画の内容を一言でも喋ればネタバレなってしまいますねこれは……
シリーズの大締めの展開ばかりで、TV版・劇場版(序・破・Q)の各作品の予習は必須です。
エヴァファンなら単純に見ても楽しめますが、予習していた方が最高でしょう。
それくらいキレイに締めています。
自分はネタバレを見てしまうのが嫌だったので即見ましたが、予習しておけばよかったと若干後悔しています……それでも最高だったんですけど。
とはいえ、ネタバレ無しで敢えて言うならば、「解呪」という言葉を聞き言いえて妙だと思いました。
どこの誰が言い出したのかは知りませんがw
シリーズがようやく締められるという作品ではありますが、単なるアニメコンテンツの消化に留まらず、心の問題に整理をつけ、自分自身が一歩を歩き出す切っ掛けにもなりえる内容になっていると思います。
「糧になる映画」として考えれば、大人向けである分、「鬼滅」より良く感じました。
【始まりの物語】
「シン・エヴァンゲリオン劇場版:||」では、新劇場版の「序」「破」「Q」で生まれた様々な疑問や、テーゼに解が与えられていると思う。
「新劇場版:序」で感じたコントラストは、肯定されているのだ。
不安を助長するような対比ではない。
多様性や調和を内包しようとしているのだ。
狭い水槽のなかでも悠々と泳ぐ海洋生物たち。
実は、人も狭い世界でしか生きられないのだが、多様性を維持しながら争いを避け、生活していくことは可能ではないのか。
碇ゲンドウが、争いを止めるためには、補完された人類だけで構成された世界が必要だと言う。
ゲンドウの考え方は正しいのか。
選ばれた人と、旧約聖書のノアの箱舟の物語のように集められた多様な種の記録。
人は神の所有物ではないはずだ。
そして、
人は神の創造物でもない。
神は特定の人を選別して生かし、他を見捨てるのか。
そんな神は、もはや神ではありえないし、神は人の創り出したフィクションで、人も神になることなどないのだ。
宗教を背景にした世界中の紛争も思い出す。
ロンギヌスの槍は絶望を、カシウスの槍は希望を意味していた。
渚カヲルは、「やり直す」と言った。
しかし、絶望と希望などという二元論的な思想で、世界をリセットすることは出来ないはずだ。
世界は、そんなに簡単なものではない。
それに、人は生きる為に絶望を必要としているのか。
絶望を必要としているのは元来、人を傅かせようとする神の方ではないのか。
ありもしない絶望(例えば、地獄に落ちるとか)を示し、神に付き従うことを強制されることに、どんな意味があるのか。
クローンにも心は宿るが、オリジナルとも異なる。
もともといる綾波レイと、「新劇場版:Q」で登場した綾波レイは、姿かたちはそっくりで、仮に碇シンジに心を寄せるようにプログラムされていても、心の寄せ方は違っていたではないか。
プロセスで人は異なる存在になるのだ。
異なる個性を持つのだ。
カズオイシグロの「わたしを離さないで」でもテーマになった、クローンも感情を持つということを思い出す。
再び立ち上がるシンジと葛城ミサト。
「新劇場版:破」の終盤で葛城ミサトがシンジに向かって叫ぶ
「自分自身の願いのために行きなさい!」は、
実は、
「自分自身の願いのために生きなさい!」だったのではないかと改めて思う。
二人は戦う。
動機付けは最初、反発心などつたないものだったが、今は、愛するものや自分自身の願いのために戦っているのだ。
更に、希望は、あらかじめ与えられた希望(カシウスの槍)ではなく、自分達の希望の槍だ。
希望も自分自身で創り出すもののはずだ。
戦いのその先には、何か調和が待っている気がする。
それは、秩序とか、そんな窮屈なものではないはずだ。
多様で調和した世界があるはずだ。
そこには、絶望や過度な秩序を振りかざす神などいない。
運命を仕組まれた子供などあっていいはずはない。
運命は自分自身で切り開いていくものだ。
テレビシリーズで使われたテーマソング「残酷な天使のテーゼ」で歌われるフレーズ「少年よ、神話になれ」に対して、少年は大人になった。
僕は、そう思うのだ。
そして、音楽のリピート記号:||は、何度も繰り返すという意味ではない。一旦、同じ旋律を繰り返した、その先には。別の旋律が待っているのだ。
人は絶望を繰り返してはならないのだ。
そんな意味もあるのではないかと、僕は思うのだ。
※ この物語がテレビで始まった時は、まだ、東西対立の残り香があり、先進国と後進国と呼んだり、格差を南北問題と呼んだり、二元論的な考え方が支配的だったような気がする。
しかし、その後、僕達の世界の抱える問題は複雑化し、環境問題や、個人の重要性も重要視されるようになってきた。
この新劇場版の物語は、このような過程で、大きく進化したのではないかと思う。
長いヒストリーに感謝だ。
四半世紀の旅の終わり
公開日レイトショーで観賞
TV版やマンガ版はあんまり観てませんでしたが
リバイバル上映で序破Qと観てきました
それまでの印象としては
確かに難解な部分も多くちょっとネットで
解説動画なんぞを見ながら対応していましたが
観ながら思っていたのは
サードインパクトといった大規模な世界の没落を映しながら
それぞれの人々の様々な世界に焦点があって
それがだんだん繋がっていく感じなのかなと思いました
それぞれが追い求めた理想や願望の先に世界があり
混じり合うことで変化が生まれる
それは人類が何度ものインパクトを経て繰り返してきた
破壊と創造の中から神にコッソリ隠し遺してきた
叡智の発見と進化に似ている気がします
「行きなさいシンジ君、あなた自身の願いために」
「あなたはもう何もしないで」
これらミサトがシンジに言ってた言葉って
エヴァンゲリオンと世界に対してだけじゃなく
シンジがゲンドウと対峙することに対して
でもあったんだなと思います
今作では劇場版のこれまでの謎というか
説明不足に終わっていた部分がほぼ完全に
補完され本当に完結編としてすっきり終わった
いや終わってしまった感じがします
しいては庵野秀明監督の人生観というか
世界が元に戻った時どこに還るのか
といった答えも感じるラストシーンでした
作品的にはキャラの役割の変化やマリの存在
などがTV版の時期の固まりきってなかった部分を
きちんとほぐしているように感じました
オリジナルにこだわって話がひねくれすぎた
感じもオマージュやパロディに寛容になった
庵野さんがこうも無敵だとは
あそこであの曲は反則
どんな環境下に置かれても生きていく知恵と勇気を
持つ人間が神をも倒してしまう
というあたり宮崎駿氏の作品にも似た感じが
すると思いました
普通に155分アクセル全開作画で作られた
アニメーションというだけでも
まだ殺到状態で落ち着きませんが
もう少ししたらIMAX版とかも見に行きたいなと
思います
アニメ史に名を残す史上最高の傑作
※以下ネタバレ注意
印象としてとてもすっきりまとまっていた。そして何より、キャラクターはもちろん庵野監督のリアルでの25年の成長を描いた集大成としてとても見応えありました。
冒頭のパリ編はとても精巧なCGで戦闘シーンとしてつい見入ってしまった。そこからの第三村の40〜50分は、エヴァシリーズのファイナルとても意義がある。なぜなら、今まで庵野監督は市井の住民については全く描かず、あそこまで村人一人一人にフォーカスしたシーンはなかった。しかし、今までなかったそんな映像を上映時間の5分1くらい割いて何度も反復したことはとても良かった。
さらに、その後のレイのラストの流れも今までの旧作との繋がりをきれいに回収されており文句なかったです。一部の人から「レイいなくなるの早すぎ」と酷評してる人がいますが、そんなことはないです。結局、レイは恋人にはなり得ないし第三者だったという監督のメッセージに気づけていないと思います。
書けばキリがないのでこの辺で終わりますが、とにかく最後の(?)作品として完璧すぎるくらいでした。
ありがとう庵野監督。さよなら、全てのエヴァンゲリオン。
ありがとう、お疲れ様でした。
卒業
心からありがとう
映画としてはひどい。エヴァ卒業式会場
高評価が多いですが、エヴァへの思い入れがあるからこその高評価でしょう。私も思い入れはあるものの、映画としての純粋な評価は★1です。
専門用語を並べて早口での説明はあるものの、理解は追いつかない。
シンジやアスカの感情描写ももっと丁寧に描いてほしかった。レイは途中まで良かったけど結構早めにフェードアウトだし。。
そのわりに戦闘シーンやゲンドウの独白がやたら長い。庵野監督のやりたかったことを詰め込ることが優先されたんだろうなぁ。ファン向けのサービスシーンなのか、やたら人前で恥ずかしげもなく裸で歩き回るアスカとかも嫌だった。
庵野監督の思いや戦闘シーンを楽しみたい、自分のエヴァとの思い出に浸りたいファンにはいいのかな。これまでのエヴァはずっと追いかけてきましたが、アニメ中盤までと序や破が好きでQは良さがわからない単純思考の私には、理解不能でした。
感動と喪失感
初日会社を休んで鑑賞。
多くは語りませんが、
ああ、終わったんだな
と、受け止める自分と、
終わってほしくない自分の感情が混ざって
昨日は複雑な気持ちでいっぱいだった。
アスカ推しの私は
式波アスカがそういう存在だったんだ、
ということにショックも受け。
加持との子供と幸せに過ごせずに
やっぱりシンジを大切に想い続け
最期まで務め上げるミサトに哀しみを持ち。
今回の「シン・エヴァンゲリオン劇場版」だけでも
シンジの成長がまざまざと表現されていて
なんだか感慨深い気持ちになり。
いまだに余韻に浸っています。
今回の劇場版4部作での名言は
シン・エヴァンゲリオン劇場版のアスカ
「ここは私が居る場所じゃない。
わたしが守る場所よ。」
これですね。
間違いない。
綾波の
「わたしが守るもの」
ともかかってそうな、
深い、いい言葉。
エヴァンゲリオンは、伝説だった。
けど、
シン・エヴァンゲリオンで、
もうひとつの伝説を作ったように感じた。
ネタバレされる前に劇場で見ましょう
本当にやっと公開されました
絶対にネタバレされたくなかったので、会社を無理矢理早退して劇場へ(笑)
本当にネタバレされずに観れてよかった
エヴァンゲリオン最終回
ずっと待ってました
テレビ版からリアルタイムで視聴していて、その時の衝撃をリアルに味わってきた、かけがえのない作品
本当にエヴァと一緒に育ったようなもの
ずいぶんと長い時間でしたが、終わってみるとあっという間だったし、すごく清々しい気分です
気づいたら自分もいい歳に...
シンジも成長して前進していた、あのラストはありきたりにも感じたし、エヴァらしくないとも感じたけど、とてもスッキリした終わり方だった
まさかエヴァンゲリオンがこんな綺麗に終わるとは思わなかったな
本当に今までありがとう
とにかくこの作品には感謝したい
シリアスなストーリーや、作中の音楽、キャラの精神描写など、自分にとって重なる部分が多く、随分とのめり込んでいたものでした
終わってしまうのはやっぱり残念だけど、この作品は大切な思い出として、心の中に置いておこうと思います
さようならエヴァンゲリオン
ありがとうエヴァンゲリオン
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