シン・エヴァンゲリオン劇場版のレビュー・感想・評価
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ハッピーエンド。終劇。
多くの方はエヴァンゲリオンをどのように観ていたのかな?いつもそう思います。
元々テレビシリーズが始まった時、シンジ君と同じ年で人とのコミュニケーションに苦しんでいた孤独な僕は、シンジ君に強く共感していました。その先にある『僕はここにいて良いんだ』と言う結論に凄く納得出来て、僕のエヴァは終わりました。逆に『air/まごころを、君に』を観たとき、何故良い終わりをしたテレビシリーズの続編としてこのような締めくくりをしたのか?僕は、よくわかりませんでした。
それからシン劇場版を観劇し、やはり『Q』で、エヴァの世界に存在する日常、守りたい日常が失われた世界を目の当たりにして『やはり庵野さんはこの大切な美しい日常を壊してしまうのか』と絶望しました。しかし、今回の『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』では、その日常が戻ってきました。人と人との繋がりがもつ美しさ。そして、それを恐れ、拒絶する父、ゲンドウ。ゲンドウは唯一ユイとだけ繋がれていた。いや、甘えられる存在がユイ一人だけだった。そのユイが失われ、自分を受け入れてくれるのはユイだけだと決めつけ逆に他者との繋がりをまた拒絶する。シンジはそれに気付いたとき、人との繋がりの中に存在する愛に気付き成長してきた。さて、長々と話しましたが、僕らは見終わった後、劇中と同様に現実に戻っていきます。いつまでもエヴァの世界にある日常に捕らわれず現実の世界で繋がり会うことの大切さ。それを教えてくれたと思います。その点では、テレビシリーズ以上に、より良いスケールの大きなエンディングになったと思います🎵
もう、悔いはない。
映画館で見ておかなと後悔するよ!
人ってこんなことできるんだ
なんか、、、啞然としました。
人って、こんなの、作ること、可能なんですか。なんですね。もう、びっくりした。まだ頭が啞然とし過ぎてて、うまく映画の内容とか、反芻できません。想像を超え過ぎてて、思い出としてまだ直視できない感じ、、、
エヴァは、中学の頃にアニメシリーズの再放送で少しはまったけど、その後ずっと遠のいてて、劇場版も観たことなくて、でもラジオで完結したのが今映画館でやってるって耳にして、ふと思い立って、Amazonプライムで序破Qって観たら、Qが何かもう凄すぎて、ええ何これって思って、翌々日、有給とって観に行って来た。
私はずっと小説が好きで、特にSFが好きで、ここ数年のSF、『天冥の標』シリーズとか、『三体』シリーズとか、アイディアも構成もストーリーも突き抜け過ぎてて、そういうので頭が痺れてるから、もうそんじょそこらのSF設定じゃ満足できない体になってるんだろうなってどっかで思ってて、今日も、期待はしてたけど、Qのあのカオス、どんな感じで決着されても、へー、エヴァはこっち系で落としたんだなーとか思っちゃいそうって、頭のどこかで思ってたけど、なんかもう、全然そういうんじゃなかった。私、まだまだ全然、衝撃で震えられるんだってビビりました。アニメーションってモノの持つ可能性?そういうのに、芯まで震えました。
SF小説とはまた全然別の、アニメーションのSFって、こんな、最高なんですか。ああもうびっくり。最高じゃないですか。撮影してるとかでさえなくて、ゼロからあれを作ってるんですよ?ですか?ちょっと、もう信じられなくて、そのこと考えただけでも、こみ上げる。
とにかく、冒頭のシーンから、最後のシーンまでずっと、ずーっと、喉の奥が熱かった。私の知らないうちに、アニメーションってこんな域に達してるのかって、衝撃でした。
人類が関わっている全領域で、いま一番高水準なのって、アニメーションではとか思いました。とにかく、凄かった。
ウテナだった
厨二病に陥り、エヴァの考察に振り回された時期もあるオタクですが、こういう結末を迎えてくれて本当に良かったという感想です。
安野モヨコさんもですが宮崎駿さんと幾原邦彦さん両名からの激励が庵野さんを導いたと強く感じました。
鬱になった庵野さんを「風立ちぬ」で救った宮崎駿さんの面影を農作業シーンで感じました
そしてうまくいえないんですがマリはモヨコさんという人が多いですが少女革命ウテナが1番好きな私としてはマリは完全にウテナでした。
シンエヴァを観ているのにウテナを観ている気分になり少し不思議でした。そして庵野監督はテレビ版のウテナを救ってくれた感じがしました。そこにオマージュを超えた感動があり、本当に自分でも不思議でした。
因みに幾原邦彦さんはカヲルのモデルといわれています。セーラームーンの監督で、エヴァに演劇の演出が多いのも幾原さんからの影響です。
もちろん他にも様々なオマージュシーンがあり、後半ちょっと笑っちゃうほどでしたが日本のアニメの歴史、総力戦という感じがしてカタルシスがありました。
とはいえ深く考えず演出と会話と戦闘シーンを見ているだけでも面白いのがエヴァ。
今回の、アニメとリアルの対比、オマージュと爽快感てんこ盛りの戦闘シーンは海外ウケもよさそうな気がします。
続き物ですがなにか海外で受賞しそうだなと思います。
とにかく、庵野監督卒業おめでとう、ウテナを連れて行ってくれてありがとう。
それが1番の感想です。
私の青春にさよならを
真希波マキとは何者か?
この映画を見終わって一番に思ったのがこの疑問だった。
なぜ「ポッと出」のマキが最後のヒロインになったのだろうか?最後のシーンは何だったのか?
確かに活躍はした。でもどうも作品の中から浮いていて、重み(生きている感)が無い。
何でも知っていて重要キャラ感は出しているが、深く絡んだりストーリーを引っ張ったりはしない。傍観者....
でありながら、ラストではシンジを呪いから解放(コンテ世界から救出、チョーカーを解除)し、そのシンジに手を引かれて街へ飛び出していく。
唐突過ぎる。なぜだろう?何だろうこれは?
そこでふと思い至った事がある。
マリは「原作付きゲームにおける自分の操作キャラ」では?
主人公を操作するのではなく、その世界にゲストとして呼ばれた存在.....
主人公を、世界を愛し(恋愛感情ではなく)、その世界の全てを知っていて、時に活躍もするがストーリーには絡まず、エンディングまで連れていく存在。
そう考えてみると辻褄が合うと思った。
・マリは原作(TVアニメ)では登場しないキャラクターである。
・いきなり主人公と絡ませるよくあるパターン(パンを咥えて曲がり角で...的な)で登場。
・他から浮いたキャラ。キャラ設定にアンマッチな行動。(鼻歌。バトルは超絶上手い。自傷も軽く受け止める。etc.)
・裏まで設定を知っている、理解できる。(プレイヤーとしてメタ視点で世界を理解しているから)
・各キャラをそれぞれ特別な呼称で呼ぶ(ワンコくん、姫、ゲンドウくん、etc.)
・あれだけの知識、実力がありながらストーリーに驚くほど絡まない。
どれもこれも、ゲームのプレイキャラだとすれば腑に落ちる。
なぜ登場人物の殆どが知らないビーストモードを使える?プレイヤーなら隠しコマンドを知っていてもおかしくない(いざとなればチートも使える)。
戦闘シーンで鼻歌、軽口。ピンチになっても「死」の切迫感が無かったりする。
これらはプレイヤーなら納得できる。
つまり、マリはエヴァ世界を回す為に、外部から導入された装置なのだ。
立ち位置としてはゲンドウ/冬月ともシンジ達とも絡む事ができて、エヴァ世界の中核には絡まず、それでいての全てを知る事ができる存在が必要だった。
だからマキが選ばれた、というかその為に用意された。
(漫画で出てきたマリと映画の中のマリ、同一人物にしてはキャラが違い過ぎる。それはキャラ設定だけ借りた別人(プレイヤー)だから。)
ただ、プレイヤーも神(製作者)の縛りを逃れられない存在。
死にイベントでは絶対勝てない。ストーリーを変える自由は持たされていないから。
死ぬ事もできない("神"にも殺すことが出来ない。世界はプレイヤーの為に作られているから、観客のいない世界は存在できない)。
これでは結局今までと何も変わらない。結果(エヴァの負の無限ループ)を変える事は出来ない。
しかし神(製作者)はマリにもう一つの役割を与えた。それはこの世界を「外から」破壊する事。
作品とメタの狭間にいるキャラを導入する事で、この閉じた世界を抉じ開け、結果をハッピーエンドに書き換える。
作品世界からはみ出した存在であれば、作品世界の呪いから影響を受けない。エヴァの呪縛や作品内の時間経過に影響されない(リアル世界の時間軸にいるから)。
そして著作物に介入もできる!(キャラとしてではなく、メタな存在として)
特撮セットを俯瞰してみる事も。原画に介入する事も。それがリアルな人間ならば。
ラストシーンで作中キャラは電車に乗って行ってしまう。作品は残り続け、走り続ける。
でもゲームは終了し、マリは電車を降りる。
ゲームは終わってしまったけれど、マリの心の中にはその作品が残っている。愛した作品(象徴としてのシンジ)が。
そして、作品はその人の一部(リアル)になって、共に成長しながら、時に手を引いてくれたり背中を押してくれる存在になる。
それがあのラストシーンなのではないだろうか?
そう考えるとラストでシンジと手を繋ぐのは、確かにマキ(=視聴者。作品を見続けてきた我々)以外にあり得ない。
監督はみんなの為のエヴァ、みんなの中にあるそれぞれのエヴァを受け止める事ができる様になった。
そのみんなのエヴァに、みんなの為に落とし前を付けた。
だから分かり易いハッピーエンドなのだろう。(「監督の作品」ならきっとこうはならない)
にわかなので、今までの作品や細かい設定は分からない。間違いは多分にあると思う。
でもこの映画で自分が感じた事は、庵野監督から今までの全ての視聴者への感謝とエール、そして自分自身の成長とエヴァからの卒業の報告なのだと思う。
こんな考察も数多ある「全てのエヴァンゲリオン」の中のたった一つ、自分にとってのエヴァンゲリオン解釈でしか無い。
でもこの映画を見て、初めてレビューを書きたいと思った。
この作品の一部になれた事に、そして同じ様に作られたこの世界の様々なものに感謝を!
ありがとう。再見。
一回目は低評価、しかし二回目鑑賞で・・・・感動です。
鑑賞前にみんな泣いたと言ってたので初見は期待したがハテナ?も多かった。採点は3.5点だった。でも、鑑賞した人たちの感想とか考察を見て自分に気づかなかったところが沢山あったことがわかった。。それでもう一度見に行くことに決めた。そして自分でも予想外だった涙が自然とあふれてた。
こんなこと初めてだった、最初はアスカとかシンジの気持ちが消化不良だったが二回目はとてもシンジの気持ちが素直に入ってきた。アスカもレイ、ミサトさんの気持ちが痛いほど伝わった。
もしこの作品を見て納得できない人もいるかもしれないがもう一度見直してください。
自分も二回目見に行くのは躊躇したけど、これは絶対にわかるまで見ることです。
一回目でわからなかったことに凄い意味があったことに気づくと全てが融解した。
自分みたいにみんなの考察をネットで調べていくこともおすすめです。
タイトルなし
すべて計算されていたのか?
みなさんいろいろ考察されているが、どれもなるほどと思う。TVシリーズをリアルタイムで見ていた者として当時の記憶がよみがえる。あの当時も考察が流行ったな。EVAの面白いのは公式がすべての解説をしないこと、それでいて微妙なバランスで物語が破綻しない。TVシリーズの時はおそらくシンEVAの構想はなかったハズ。改めてすごい作品だと思う。
自分も考察してみる
旧劇場版の最後がずっと謎だった。最後アスカの首を絞めるシーン。旧劇でシンジの魂は救われており、新劇はシンジ以外の魂を救う物語ではないでしょうか?旧劇の最後は新劇「破」の前、やり直し直前ではないか?アスカはEVAの呪縛によりシンジ同様にLCLの中でも自我があり、やり直しの邪魔になったのでは?アスカの存在を首を絞めて殺そうとしたが、できなかった。そのため魂がやり直し世界のLCLの中に取り残された。そこで新劇ではクローンとして登場したのでは?
どうでしょうか
歴史が詰まった作品でした
ありがとう、庵野監督
ありがとう。
エヴァTV放送が映らなかった当時、
友人から借りたVHSをテレビデオに
かじりついて観ていた僕も、子どもから、
”Q”わけわからん、カヲルってなにものなん?
と問われる立場になりました。
一人で”シン”を観に行って、
勝手に納得していたので、ニヤニヤしていると、
気持ち悪いと最大の拒絶の言葉を頂き、
落ち込んでいます。
すみません。僕にもわかりません。
わかりませんが、好きって気持ちがあれば、
理解と納得は可能だと信じています。
以下、25年を振り返って、
自分で勝手に解釈して、
ありがとうと納得した”新世紀エヴァンゲリオン”です。
庵野監督、スタッフの皆さん。
楽しい時間を有難うございました。
”シン”によって運命は定められている。
そして”この宇宙”に存在する限り、繰り返される。
”それは定まっている理(ことわり)=円環”。
理=使徒(アダム:力:物質:生命の実)側が
制するのか(せいめいのみ)、
ヒト(リリス:知恵:魂:知恵の実)
側が制するのか(ちえのみ)。
1つの宇宙では
”どちらか一方しか選ばれることはない”=定理。
理の外に出る方法=イマジナリーインパクト
=”シン”による新しい新世界(宇宙)の創造(想像)。
シンジくん
(=わんこくん=DOGこくん=GOD子くん
=神子くん=神児くん=申し子)が、
アイ(アイデンティティ:愛:相:哀:会:I:
eye:逢い:遇い:藍)をシる(オトナになる)ことで、
”シン”になる。
”シン”はその”モロ手”ですべてを掬う
(アイのカタチ=ハート)。
ヒトを滅ぼしたくない矛盾を抱えた使徒:
定理をシり、このムジョウな円環から
エヴァに関わる全ての存在を掬いたい、
赤色の瞳を持つシ者”渚司令”によって
導かれるイマジナリーインパクト。
どこにいても”必ず”迎えに行くからね。
わんこ君。
シンジ君を”必ず”掬う存在として、
姓名の書(脚本)にその名前が刻まれた
ユイと同じアイを持つ真希波マリ。
真理はあなたを自由にする。
0=在るのに無い 観えるのにない
不思議な数字
レイによってシンジ君は愛をシる。
”左目”を失い、”ノロイ”を受けたアスカ。
ノロイを解くのは名前にeyeをもつ男
相田ケンスケ、相田ケンスケです。
2人の子供:リョウジの母であり、
希望を捨てない
優しく明るい笑顔の女性ミサトさん。
彼女が消えることでシンジ君は哀をシる。
最後のシ者存在:赤色の瞳を持つゲンドウ
(父:擬似シン)との会話(会)を経る(得る)ことで、
”オトナになる”ということ:アイを自覚し(自シンを持ち)、
”両シン”からの自立を果たし、
赤の瞳に藍を以て紫にいたり、
その名の通り、”申し子”になったシンジ君は、
”エヴァの世界”を創造した”シン”と
会話が可能となる。=キセキ。
”シン”は全てのエヴァスタッフ、
エヴァが好きなヒト(ファン)の
”エヴァを好きな気持ち=まごころ”で
ある。
シンジ君はエヴァの全キャラクターの
望みを聴く。
エヴァスタッフ、エヴァファンの望みは、
エヴァキャラクターが幸せになってくれることであった為、
エヴァスタッフは、エヴァキャラクターの望みを汲む形で、
新世界創造のシナリオをその両手で描ききり、
全てのエヴァキャラクターを
掬い(ノロイからの解放)、
”最後”にシンジ君をも掬い、
物語を”完結”させた。
また、物語が”完結する”ことで、
エヴァファンも掬われた。
”すべて”を掬っての、
さらば、エヴァンゲリオン。
アシカケ25年。ずっと"好き”でいられる、スゴイ作品でした。
出会えてありがとう。エヴァンゲリオン。
9年待たせた超大作
さようならエヴァンゲリオン
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