「シンジ=ゲンドウ=監督の救済の物語?」シン・エヴァンゲリオン劇場版 SP_Hitoshiさんの映画レビュー(感想・評価)
シンジ=ゲンドウ=監督の救済の物語?
エヴァという作品はそうとうに特殊だと思う。映画単体で評価することができない。★3つというのは、映画単体でいえばこのくらいかな、というところでつけた。
この映画のストーリーを読み解くには、アニメ版、旧劇場版を含め、監督とファンの関係など、メタ的な解釈が必要に思う。
ひとつ言えるのは、監督は常にファンのために映画を作ってきたんではないか、ということだ。監督とファンとの関係は、まるでゲンドウとシンジの関係のようだ。お互いに愛しい存在であるが、嫌ったり憎んでもいる。
ゲンドウはシンジに「大人になれ」とくり返す。旧劇場版から一貫して、監督はファンに「お前らエヴァから卒業しろ。これはアニメで虚構だ。現実を生きろ」と訴え続けている。
新劇場版の「序」「破」までは素直なストーリーで、「もしかして監督は今度こそエヴァを作品としてちゃんと完成させようとしてるのかな?」と思った。
しかし「Q」で、結局「お前らエヴァから卒業しろ」に戻ったのか…、と思った。
そして今回の「シンエヴァ」が目指したものは、「エヴァの無い世界」と「すべてのエヴァキャラの救済」だろう。
これは、従来までの「エヴァから卒業しろ」という突き放しとちょっとニュアンスが違うように思う。
エヴァがなぜこんなにも長期間ファンがつくことになったのか…。
それは、旧劇ではこの物語が終わっていなかったからなのではないか。
逆の言い方をすると、監督は旧劇でエヴァをちゃんと終わらせることができなかった。
それは、監督がシンジくんの問題を最後まで解決できなかったからだ。
監督は、ファンがエヴァから卒業できないのは、ファンが大人になれないからだ、と考えてきたのではないか。
しかし、実はそうではなく、監督自身の問題だ、と気づいた。
シンジくんの物語は、父親との確執が解決されなければ絶対に終われるはずがないのに、旧劇ではその決着がついていなかった。
「シンエヴァ」ではついに、ゲンドウ自身が自分が子供であることを認めた。
ゲンドウはシンジを認め、シンジはゲンドウを認め、監督=シンジ=ゲンドウは救われた。
「お前らエヴァから卒業しろ」ではなく、「私はエヴァから卒業する」が今回の映画だったんではないか。
映画の最後、大人になったシンジくんは実写の宇部新川駅の階段をかけあがるところで終わる。これは、シンジ=監督が大人になり、エヴァから卒業した、ということをあらわしているのだろう。
終盤のマイナス宇宙にいくあたりの超展開は、なぜか仏典を思わせるなあ、と思った。
たとえば法華経では、はじめ現実世界からはじまって、途中から虚空に舞台をうつすという超展開がおこるのだけど、それを思わせる。
最後に、順番にエヴァを消滅させていくところとか、キャラを救済していくところは、仏典の最後に仏が登場人物たちに成仏の記別を順番に与えるところを思わせる。
成仏(解脱)というのは、輪廻から解放されて、もう二度と生まれてこない、ということなので、エヴァやキャラが作品という輪廻から解放された、と考えるとしっくりくる。