「遊園地のコーヒーカップのような映画」おとなのけんか よしたださんの映画レビュー(感想・評価)
遊園地のコーヒーカップのような映画
この際この4人の喧嘩の理由や主義主張などどうでもよい。
この4人の共感と敵意の組み合わせがあっという間に入れ替わるところにこそこの映画の魅力がある。まるで遊園地にあるコーヒーカップに乗っているようなスピード感を感じさせる。シナリオはもちろんのこと、ショットと編集の技巧がなせる仕上がりだろう。
狭いアパートの中で繰り広げられる4人のいい歳をした男女の諍い。最初のうちこそ大人としてのわきまえを前面に出して、穏やかに速やかにその場をやり過ごそうとしている。少なくとも3人は。
しかし、1人の言葉の選択と自己愛から、彼らの時間はあとから思えば気の遠くなるほど長く気分の悪いものになるのだ。言うまでもなく、ジョディ・フォスターの「武装」という言葉遣いとお手製の菓子という自己愛の産物がこの長い闘争劇の引き金となっているのだ。
4人にはそれぞれ自己愛の象徴となるものをもっている。
フォスターは手作り菓子の他に画集。子供にも美術の教育を施していると自信たっぷりに語るほどに、自らの芸術愛好に陶酔している。
その夫、ジョン・C・ライリーにはウィスキー、ケイト・ウィンスレットにはバッグである。そして、クリストフ・ヴァルツの携帯電話機。
フォスターの画集とヴァルツの携帯が濡れてしまったとき、ライリーはドライヤーで乾かすという救いの手を差し伸べている。そして幸いというか、これが口論に拍車をかけることにもなるのだが、ライリーのウィスキーは他の3人にも受け入れられる。しかし、ウィンスレットの放り投げられたバッグに関しては他の3人の関心は全く得られなかった。
このことは結局、4人の登場人物のそれぞれの間口の広さを表してはいないだろうか。つまり、ライリーは他の3人の話を聞く耳を持ち、妻と弁護士の矜持には一定の共感を示す。しかし、ウィンスレットは誰の話しも受け入れるつもりが端からないのだ。
このような、自分だけは常に正しいと思い込んでいる、そこそこの美貌とキャリアに恵まれた中産階級の不器用な女をウィンスレットが非常によく表現している。
もちろんフォスターも好演だったが、不器用な女を演じさせるとウィンスレットの右に出る者はいないのではないか。