おとなのけんか : 映画評論・批評
2012年2月7日更新
2012年2月18日よりTOHOシネマズシャンテほかにてロードショー
4人の大人の本音を覗き見しているようなおかしさ
子供の喧嘩に親が口を出して、案の定「おとなのけんか」になるのだが、その成り行きをリアルタイムで見せきったところにポランスキーの遊び心が出ている。最初と最後に子供たちの遠景が出てくるだけで、ブルックリンにある金物屋夫婦のアパートからキャメラが外に出ない。舞台劇の映画化では、たいていの監督が空間と時間をどれだけ広げるかに苦心するものだが、ポランスキーはそれに逆行。舞台的な制約の中で映画的な映像を切り取ることを楽しんでいるように見える。例えば、バスルームにいる弁護士夫妻の様子を半開きのドアの外から伺い、金物屋夫妻にキッチンで彼らを値踏みさせるなど、登場人物4人以外の視線、つまりキャメラの存在を意識させるように演出している。それが4人の本音を覗き見しているようなおかしさを生み出しているのだ。
リアルタイム進行の効果も大きい。カットとカットの間に時間経過がないから、4人の登場人物は感情の流れを最初から最後まで中抜きなしで画面にさらされている。その結果、彼らがいかに不満と不安を抱えているかが手にとるように分かるのだ。子供のために集まったはずの大人が、子供以上に未熟で、自分の子供を理解も信用もしていない。彼らの不安をむき出しにすることで、それをリアルに見せてしまうのはさすがだ。
ポランスキーの要求に応えて、めまぐるしく変わる感情をひとつの繋がった時間として表現した俳優たちも見事。ただ、ジョディ・フォスターはミス・キャストだったのではという印象が拭えない。スペシャルな存在になりたいのに、個性がなくて正論しか口にできない負け組のみじめさが、彼女には感じられないからだ。
(森山京子)