グスコーブドリの伝記のレビュー・感想・評価
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そう言う者に私はなりたい
宮沢賢治先生は 1896年8月27日
1933年9月21日の生涯
20世紀以降、東北では飢饉が最低でも三回起きている。一回目の1905年の冷害による飢饉を賢治は記憶に残していると思う。この作品(短編)は1932年の発表だから、この小説に限った事ではなく『雨ニモマケズ』も『永劫の朝(あめゆきとてきてけんじゃ)』も、そして『銀河鉄道の夜』もそう言った冷害による飢饉を意識していると思う。そもそも、彼は科学者で、このアニメは彼の思想そのものと言える。
さて、火山の研究に入る前に赤ひげ(ヒデヨシ)の所で農作物の品種改良等に取り組むが、希望的に描かれている。しかし、実は賢治没後一年目の1934年に二回目の冷害による飢饉が東北を襲っている。この時の被害も大変なことなのだが、全滅ではなく、4割減で収まっている。寧ろ、品種改良等で最小限に留められたのかもしれない。しかし、残念ながら、1930年と言う事は昭和の恐慌が重なって、収まった言える訳が無いのかもしれないが。そして、更にその後、戦争に突入するわけだから、東北の民の暗い現実は三十年間以上続く。また、満蒙開拓団と言う実態も東北の冷害を発端としている。
さて、
アニメは間違いなく東日本大震災に対する復興を意識している。製作年が2012年なので必然だ。
そして、
三回目で、20世紀最後の冷害が1993年に起きている。勿論、品種改良や食生活の変化等で、飢饉には至らなかったが、経済に与える悪影響は日本全国に及んだ。1971年からの減反政策に追い打ちをかけ、食料の自給率は大きく下げた。
さて、
その原因は、なんと、ピナツボ火山の噴火である。このアニメの結論は、火山の噴火による二酸化炭素の温暖化と言う事だった。グスコーブドリが命をかけた事、それが間違っていたのである。
さて、
では、このアニメは何を言いたいのか?
アニメを見て暗い気持ちになった方は、原作を読む事をおすすめする。前向きな気持ちになると思う。やはり、賢治の童話はアンデルセンに通じるものがあると思う。そして、最後にいつも思う事は、
雨ニモマケズの最後の言葉。
『・・・そう言う者に私はなりたい』つまり、今の自分はそう言う人間ではないと言っている。
お父さんとお母さんは
少ない食料を家族に残すために森に出ていったんだと思うんですが、他の人の感想を読むと親が子を捨てて!と怒ってる方が多いですね。
たしか、一番食べるお父さん、子供たちより食べるお母さんの順に死の可能性の高い厳しい冬の森に、僅かな食料を見つける望みを持って出ていって亡くなったと思うんですが。
原作を読んだのは子供の頃で大昔なので記憶が曖昧でしたが、原作通りの台詞を聞くとああそうだったと記憶が掘り返されました。
映像は幻想的で良かったです。
子供時代を幻想的にしたのは、辛い現実からの逃避の心理を読み取れて良かったのですが、
テグス工場が夢ではないことが原作を読んでない人はわかりにくかったようです。
今後、ブドリが人に支えられたことに気づくときにどうなるかな、と思ったのですが、そんなシーンが無かったので一緒に観た家族は夢の中だと思ったままでした。
ただ、ネリは賢治の妹をイメージしてあったので死んだことにしてはいけないんでは…。
原作では人さらいから開放されて大人になったネリと再会しますが、そのシーンと、
最後のブドリと火山局の人たちとのやりとりは観たかったな(特にこのシーン)。
私にとって、この作品は自己犠牲よりも、一人の人間の成長と実はたくさんの人たちに支えられていたこと、厳しかったの思い出に優しさがあったことへの気付きが醍醐味だったので、
そのシーンがカットされていたのが残念でした。
でも、震災があったのでラストの表現は仕方ないことだったみたいですね。
子どもと一緒に見るには難解すぎる作品
私は宮沢賢治の「雨ニモマケズ」がすっごく好きなのですが
どの下りが一番好きかって言ったら
「褒められもせず、苦にもされず」
「みんなにでくの坊と呼ばれ」
「いつも静かに笑ってる」下り。
「雨ニモ…」は偽善的な詞に取られがちですが
自己顕示欲を殺し、我を消して
「ヘラヘラと笑ってる」のが理想って、
よほどの解脱した懐深さが必要かと考えられます。
元々は発表する気がなく、あくまで「作家メモ」だったらしい
この詩の中において、「自分のパーソナリティを殺すこと」について
言及する賢治の追求心は真摯で切実だったように思います。
ケンジ、あたしには出来ないよ、無理!って
この詩を読み返すたび、学生時代から良く考えてた位で(笑)
年寄り手伝うとか、粗食に耐えるとかの
レベルじゃない、聖書に似た考え。
宮沢賢治は仏教思想が色濃いというけど
「善意は人に見えない所で」的な発想は
「自己犠牲」という思想以上にキリスト教っぽい様に思います。
…ということで、到底出来はしないけど
己の浅さを向き合わせる鏡として
心の傍においておきたい作品なのですね。
ってまぁ長ったらしい前置きのもと、
「グスコーブドリの伝記」は
そんな賢治ワールド全開なお話なのですが、
正直、小学生以下を連れていく作品じゃないと思いました。
話が難解で哲学的すぎる内容です。
でも、いつものごとくダメ母な私は、
「子供には難解すぎる!」と文句タレつつ、
我が子よりも先に落ちかけてしまい、
案の定、娘につつかれて起きるのですが(苦笑)
この映画の不思議ワールドの不思議たるや
上映終了後、話が分からないと不満を語る
小学1年生位の息子に彼の父親が
「確かにお父さんも分からなかった!」って
言わしめていたほどで
で、結局?的な割りきれない不可解さで
エンドロールを迎えます。
感想を言えば
絵は手塚プロ肝煎りだけあって無条件にきれいで、
映像の素晴らしさを観るだけでも一見の価値があります。
スタジオジブリに優るとも劣らない明媚さ。
佐々木蔵之介さんはいつも通りなセリフ回し。
草刈民代さんの毅然とした母親像も
そのりりしい顔が浮かびます。
何故父は「遊びに」行くのか。
何故母は、子を置き去りに家を出るのか。
その答えはブドリの思想に受け継がれ
彼の生き方、ひいては映画のテーマに反映されています。
反映されてはいますが、作品は賢治を追うあまり
この映画を観る子供を置き去りにしている気がしました。
この映画のターゲットは誰かと言えば
宮沢賢治ファンと手塚プロファン、
小栗旬ファンが主体かも?
もっと大衆向けに分かりやすく描くことも…
例えば妹に関しての後半の扱いで明るさを出すことも
出来たと思えますが。(原作部分割愛)
この映画は良くも悪くも賢治ワールドの「行間を紡ぐこと」
のみに必死になってる気がしました。
宮沢賢治の色は強く出ていると思いますが。
些末な箇所に関しても
個人的な解釈をのべたいとも思いますが
自分が考える通りの見解は
我が娘に押し付ける事も憚られた位なので、
のりしろ部分はご自分の解釈で。
ブドリのふとした表情が小栗さん的でした。
最後になるけど
ブスコージドリ?
グスコージブリ?
ジスコーグブリ?
いまだに言えないその名前は、
やっぱりエスペラント語から来るのかしら。
岩手をイーハトーブとした様に
グスコー何とかも意味があるのかと
エスペラント語辞典とか探して色々あてはめましたが
答えは出ませんでした。
タイトルにある不可解で暗号みたいな文字は
作品中、いろいろな場面で出てきますが
ローマ字を賢治ワールド的に装飾したもので
深い意味はなさそうです。
でも、この映画で一番話題になりそうなのは
この独特なアルファベットの様な字形だと思います。
そこをもっと展開して欲しかったかな。
これでオリジナルキーホルダーとか出来たら良かったのに。
いつだって子供が好きなのは暗号文。
友だち同士で楽しめる様な面白い話題になったのに
とても残念です。
救いはないが絶望もしない
原作があまり好きではなかったのですが、銀河鉄道の夜が良かった記憶があるのでとても楽しみにして劇場へ行きました。
原作より、映画版のほうがずっと素敵でした!深みのある美しい映像、幸せなときも、不幸なときも、生々しすぎない可愛い猫のアニメ、楽しいような悲しいような音楽、どれも良かったです。
なんと言っても、主役は大自然です。
ただの背景ではありません。絵に描くことにより、写真よりも質感と量感を備えた存在感を持っています。過酷な運命にさらされているときでさえ、目を奪われるほど美しい。背景美術のすばらしさを劇場で堪能しないなんてもったいないです。
あちこち改変があったけど、そこがまたよかった。
原作では妹のネリと再会しますが、今作では夢の中ですら直接会うことはできません。原作でブドリが肥料を降らせるエピソードもありますが、ごっそり削られています。てぐす工場でのシーンは餓死しかけたブドリの見た夢の中のエピソードになっていて、無数の蛾が空へ飛び立つシーンは飢饉で死んでゆく無数の人々を表しているようです。それをなすすべもなく見つめる子どものブドリ・・・。
ストーリーはブドリに厳しくなりましたが、ブドリは絶望することなくまっすぐに育ち、たくさんの出会いに感謝しながら自分に出来ることを模索します。
何があっても生きようとする力、生命の持つ底力のようなものをブドリの生き方から感じました。見てよかったです。
映画代金返して…
※私は原作はまだ読んでおりません。
この映画は一体何を伝え、そして何をしたかったのでしょうか。
メッセージはほとんど込められておらず、ただただ作品に対する真摯さが欠けた映画だと感じました。なんとなくですけど。でも映像は綺麗でしたね。
最初はブドリとその明るい家族が描かれ、その後寒波に襲われ飢饉が起き作物は枯れ果て、家族も離散し…その後ブドリは1人になり、寒波や飢饉を防ぐ方法を勉強しに都会へ向かい、一生懸命勉強し、最後はブドリの故郷を暖かくするために命を捧げ火山を噴火させる。結果火山は噴火し気候は良くなりみんなは救われる、めでたしめでたし。こんな感じだったと思います。
なんだかもやもやとしたシーンだけ書き連ねて行きます。
寒波や飢饉で家族が離散してゆくときのブドリの父の言葉。「俺は森へ遊びに行くぞ!」何を言ってらっしゃるのでしょうかこのクソオヤジは。そして母親、お前も子供を見捨てて蒸発するんじゃない。その後ネリは謎の男に誘拐されましたが、多分これはネリの餓死を暗喩してるのでしょう。そして謎の男の笑い方が変。BGMもなんだか微妙にミスマッチ。
その後、ブドリが網をかけるシーンがあるのですがあのくだりは一体何だったのでしょうか。正直ポカーンとしてしまい、なんやかんやでうやむやに。映像は綺麗でした。
ブドリが赤ひげのもとで働くシーンはいいでしょう。でも妹はどうしたブドリよ。
途中魑魅魍魎に囲まれ電車に乗っているシーンもありましたが、あれはあの世へ行く電車だったのか?わかりませんが。どうでもいいですが、ここらへんから一緒に観に行った友人がスヤスヤと寝息をたてて、眠りの世界へ旅立ちました。
そしてブドリが大学→火山局で働くところ。ブドリは楽しそうに、そしてまじめに働くのですが、妹はどうした妹は。追いかけなくていいのかブドリ。と思ったのですが、もう妹が死んでることを理解していたのかもしれませんね。
でもその後、あの世での裁判で境界を乗り越えた罰だとかで裁かれる。境界乗り越えとったんかい。妹連れもどさんかい。そして裁かれた結果の罰が何だったのかわからずじまい。そもそも本当に裁かれたのかすら不明。
そして火山局にてブドリの故郷が寒波に襲われることを知り、気候を温めるため火山を噴火させる方法を考えるブドリ。現れる謎の男。ブドリを火山へ連れてゆくといい、おそらくブドリは火山へ身を投げたのでしょう。その結果火山は噴火し、気候は良くなり、みんなが助かり、そこで物語は終わります。ブドリが火山へ身を投げたシーンは明確には描かれておらず、なんだか綺麗な光がぱーっと飛び散って終わりました。そもそも人が身を投げただけで火山が噴火するとはどうも考えられませんが、そこはアニメですから野暮というものでしょうかね。美しい自己犠牲…と言えば聞こえはいいでしょうが、もしかして自己犠牲精神をこの映画を通して伝えたかったのでしょうか。それにしては身を投げるシーンをごまかしてるし、なんだかよくわかりませんね。映像は綺麗でしたよ。
小田和正の歌が流れエンディングへ。音楽の切り方、配置の仕方もなんだか変。欲を言えば、BGMは銀河鉄道の夜で担当してらした細野晴臣さんを起用して欲しかったです。
正直映像は綺麗でしたが、映画料金を払ってまで見るような作品では無いと思いました。
私はこの映画をおすすめしません。映像は綺麗でしたが。
映像と内容のギャップ。
宮沢賢治作品にまったく明るくない私は^^;この原作も未読。
チラシを見て、可愛い猫だなぁくらいにしか思わなかったので
冒頭のファンタジーな童話世界から、急に冷害の話にトーンを
変えた時には、ちょっと面喰ってしまった。
あ…こういう話だったのかぁ。う~ん、好き好き分かれるかも。
確かに彼の黙々と働く姿(自己犠牲の精神)は賞賛に値するが、
この話をなぜ今?というのは、やはり震災の被害と重ねて観る
向きが多いからなのだろう…と感じた。
自然災害の猛威に為す術もなく家族を失ってしまった子供達。
悲嘆に暮れながら過ごす兄妹に、死神?が妹をさらってしまう。
なんといえばいいのか…。
よくいえばリアル、悪くいえば救いのない展開に心が重くなる。
学ぶべき脅威がそこにあり、それが人災被害ではないという、
恨むべき場所も泣き言を言える人もいない、非常に辛い現実。
主人公・ブドリは、そんな中でもただ黙々と仕事を求める。
あんなに暗かった森を抜けると、明るい農村が広がっており、
これで少しは救われたか~とこちらも胸を撫で下ろすのだが、
この物語は簡単に幸福へと結び付いていかない。
当たり前といえば当たり前なのだが、一生平穏無事な気候が
続くということはなく、幾度かの転職の後火山局に勤めた彼に
またもや大冷害の危機が迫る。そこで彼の選んだ対策とは…
映像は確かにキレイだ。
一見表情の見えないブドリの、淡々と話す口調(小栗くん巧い)も
彼の性格を詳細に顕わしており、聞いていて心地良い。
ただ時折ブツッと切れる場面の切り替え、ラストの小田和正の
有名歌のあとの不自然な途切れ方など、いちいち気になった。
もっとなめらかにできなかったのだろうか。
雨にもマケズ、風にもマケズ、…まさにその通りの話である。
(しかしもの悲しい。あの親にしてこの子あり、とは思うんだけど)
なんだかなぁ~。
前回高評価だった「銀河鉄道の夜」はファンタジーとしてとても素晴らしかったです。
ただ、今回の「ブドリ」の原作は「銀河~」と違ってもっと生々しい内容の物語です。 それを無視して二匹目のドジョウ狙いのファンタジー路線に走ったばっかりに、ストーリーが全体的にボヤけてしまった感があります。
この物語に映画化の話が出たのは、3.11の前だそうですが、架空の国とはいえ、イーハトーブが被災地である東北地方岩手県をモデルにしているのは、今ではあまりにも有名な事実です。
だからでしょうか、物語の肝であるはずの天災によって幸せだった家族が家族が、ドン底まで落ち込み、本来なら悲壮感溢れる家族との別離が中途半端に描かれているので、その後のブドリの人生に共感しづらくなってしまっています。
これは、あの未曾有の大災害の記憶が新しい事や、被災地に対する配慮ではないかと推測ができますが、結果的に物語の本質がブレて中途半端なファンタジーで着地してしまったのが、あらゆる意味で残念でなりません。
製作者はきちんと原作を読んでいるのか?
映像、音楽、声優(ブドリの声が若干大人びていたか、こどもの頃のブドリはもっと高音でないと、違和感があった)とても良かった。しかしストーリーがどうしてしまったのか?
ブドリはもっと苦労をしている。そういう中での妹ネリとの再会がきわだってくる。長年生きてきた私にとって、人生は本当に何が起こるかわからない。しかしまったく偶然とでもいうべき良い事もある。そういう兄妹の感動の再会の部分をさらりとカットしてしまったのは何ゆえか。そしてラストの内容。ブドリが他者のために、自分の命を犠牲にする過程のシーンは、あまりにもあっさりしすぎていた。自分の命のこと、妹のネリのこと,死の恐怖....たくさんのことが頭を巡る。そういう中で、最終的に自分をささげたのだ。かつて自分の父、母とネリのような不幸な目に合う人が新たに起こらないようにとの深い願いがブドリの中にあったのだ。その部分が描かれていない。ブドリの死とひきかえに冷害をふせぐ事が出来たのだ。1985年公開の『銀河鉄道の夜』があまりにも良かっただけに残念。
原作の良さを出しきれず…
映画「銀河鉄道の夜」を観て宮沢賢治が大好きになり、現在普通に読むことができる賢治の作品はほとんど読みました。
また同じスタッフでこの作品が作られるのを知り、ものすごく期待をしていました。
銀河鉄道の夜では、原作からアレンジされた部分が良い結果となり、映画に深さを出していたと思ったのですが、本作では原作から変えてしまったところがあまりにも悪く、物語の一番重要な部分を削ってしまっているように感じます。
結果、内容が非常にわかりにくくなってしまっています。
所々削るべきでないところを削ってしまっており、不必要な夢が長々とプラスされています。
特に最後のシーンは、ブドリが自ら火山に向かうからこそ、美しく終わるのに、本作ではコトリに半強制的に連れ去られてしまっているようで、ブドリの犠牲により飢饉を防いだということがわかりづらくなっています。
銀河鉄道の夜のように心に残る作品ではありませんでした。期待が大きかっただけあり、非常に残念で仕方ありません。
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