危険なメソッドのレビュー・感想・評価
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どうして危険なメソッドかということが少しだけわかるような気がする
ユンギャンの授業を受けて紹介された映画であった。ユンギャンの自由さ、第6感的な感覚とフロイトとの対比から、ユンギャンのすばらしさ・魅力を思っていたが、この映画を見ると、フロイトが言うように、ユングが下品な男と思っても仕方ないのかなという印象を持った。当時の世界情勢、人種差別、宗教的な影響もありいろんな背景を加味して、心理としての在り方を語るのは難しいと思った。ただ、どうしても性欲に対して、心理的理解をすることで正当化しているんじゃないかという自分の気持ちはないがしろにできないでいるが、よく理解しきれていないからこその、感情・思考なのか。いろんな立場の人がこの映画を見たときの感想、解釈を聞いてみたい。
それなりに楽しめた
ユングとザビーナ(ユングの愛人)が関係性を中心に物語は進む。二人の関係性の変遷がリアルに描かれ、感情移入をそそる。終始冷ややかに見えるほど理知的なユングが物語後半で愛人ザビーナに見せた感情の吐露にカタルシスを感じた。ユングとフロイトの手紙のやり取りが理性を保ちながらも熱を帯びていく様子も良い。精神医学の発展は医者と患者の双方の協力によって成り立ったことを思わせる。今作品を見ることにより、自分はユング派かフロイト派かどちらかを考えてみるとユング派となった(もちろんそれぞれの学問を全く知らないので感覚として)。具体的理由は、フロイトが精神的病状の原因をすべて性的な事に結びつけるのは自分も違うだろと思っていたことと、ユングが心霊や超心理学にも興味を持っていること(フロイトは非科学と断じている)。この作品を通じて、ユングの研究した内容を調べてみたいと思った。
さらに、この作品を見て意外に感じたのは、彼らが自分の夢の内容を分析していたこと。そのどこを意外に感じたかというと、夢占いという言葉があるように夢に意味を見出す向きは科学のない時代から占いという形であり、スピリチュアル的に夢の解釈をし自分の人生に活かすという事があるため、科学者としての彼らが夢を議論している様子は科学にこじつけて占うスピリチュアリストのように感じたからだ(私的な立場で夢を占う事を私は批判していない)。
物語中で印象的に語られるキーワード、モチーフ、シンボル的な事柄として、「ジークフリート伝説では純粋なものも近親相姦のような罪から生まれる」というような事象がある。これは作品を見終わった後もその具体例は思いつかずとも心の中で浮遊し、そうなんだろうなと思った。
最後に、ラスト、元愛人となったザビーナにユングが告白した言葉はとても印象的。「妻は家の土台で、彼女は漂う香りだ 君への愛は大切だった 自分自身を理解できたから」。この言葉を聞いて、不倫をする理由と意味を理解した気がした。
自分がこういうふうに感想を書き終わって気づいたのは、この作品を見れば、不倫を肯定的に捉えるようになる人間もいるだろうなという発見で、それは進められないなとは思いつつ、そういうふうにこの作品の影響には批判的な意識を持ちつつも結構楽しんだんだなということに気づかされた。
クローネンバーグの作品としては地味でクセが無い
1904年、チューリッヒのブルクヘルツ病院 8月17日
一人の若い女性が激しく抗いながら、精神病院に担ぎ込まれるところから始まります。
クローネンバーグの映画だと気付かず観てしまいました。
クローネンバーグにしては、独特なクセもなく。ちょっと地味で実話に忠実で普通という感じがしました。
自分は心理学などに少し興味があり、放送大学で何個か心理学関係の講義を受講したことがありますので、そこそこ、興味深く観ることができましたが、フロイトやユングなどに全く興味のない人にとっては、退屈な映画かもしれません。
キーラ・ナイトレイの神経症患者(おそらく、いわゆるヒステリー患者)の演技はなかなかのものでした。顔をゆがめて、アゴを突き出し苦しそうにする姿が印象的。お尻をむち打たれることに快感を覚えるとは、マゾヒズムなのか。このザビーナ・シュピールラインという女性の存在は知りませんでした。後で調べたら実在して、ユングと恋愛関係になったことも事実のようでした。
フロイトとユングが仲違いをした話は有名ですが、フロイトという人は、自分と違う意見を持つ人や自分の考えに共鳴しない人などをとことん責めて、その人の精神が病んでしまうほどの鋭い影響力を持った人のようでした。ユングもフロイトと決別した後は、やはり精神を病みますが、この映画では、フロイトはマイルドに描かれているように思います。本当のフロイトはもっと、もっと面倒くさいおっさんやったと思います。
ユングがフロイトから離れていったのは、フロイトが何もかも、「性的」解釈することに疑問を抱いていたからですが、映画ではそのあたりのことをリビドーの話もまじえて、一般人が理解できるようにうまく描かれていたと思います。
全体的に淡々と物語は進んでいきますが、出番は少ないけれどグロスというやんちゃな医師の存在でハッとしました。ユングが「フロイトによる神経症は性衝動に起因する」といったら、
グロスが「彼は自分がヤれないから性に執着するのさ」
などとひどいことを・・・笑 でも、エンディングの説明でグロスはベルリンで餓死とあって、淋しい最期だなと思いました。
実話に基づいた精神臨床(ヒステリー患者を治療する)を描いている作品に『博士と私の危険な関係』(2012)というフランス映画があります。これは、フロイトの師である精神科医シャルコーとその患者の恋愛(転移)が軸になっています。タイトルは俗物的ですが、内容は古典的な精神療法の話。こちらも、女優さんは熱演でした。
面白かった
クローネンバーグの新作で、そんなに評判もよくなかったので期待しないで見たら、ユングやフロイドの映画で、けっこう面白かった。女の患者が深刻に病んでいて、その原因が性欲を持て余していたことだったため、大変な事になっていた。女優が発作でアゴをぐいぐいしゃくらせていたのが凄かった。おっぱいが出たり、乳輪がはみ出したりして気になっていたら、WOWOWの解説の安西水丸さんも同じ指摘をしていた。
フロイドとユングがお互いを否定し合って言い合いしているところはヒリヒリとする感じで面白かった。お互い張り合っているものの、ユングは一等船室で、奥さんがすごくできた人で、かなりな長寿だったことも人間トータルな意味で決定的な感じがした。そんなみみっちさがあったからこそ、精神医学が発達したのかもしれない。
作品作りは己を見つめる事だとは言うけど、このような精神的な病理を直接描くのはリハビリになるかもしれないけど、相当にきつそうで真似できない。大変なお仕事ご苦労様!と思った。
暗い部屋と白い壁
あら何この映画、すんごく面白い!!!!!
いやー何より映像がイイ!!(この監督の画がカッコイイのは当たり前っちゃ当たり前なんだが)。
ユングとフロイトの対比がとてもイイ。
フロイトの部屋は暗く混沌としている。
対してユングを描くときのバックは白基調の無機質な感じ。病院が舞台ということもあるけど白い壁がとても印象的だった。
暗い部屋と白い壁。
何だろうこの映像の対比。単なる学問上の対立だけでは無いような。
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フロイトは当時(20世紀初頭)のヨーロッパ医学会・心理学会ではかなり批判も多く鬼っ子的存在(現在でも狭義の心理学にはフロイトは含まずというスタンスは根強い)。
なおかつフロイトはユダヤ系(後にナチスの迫害を受けアメリカに亡命せざるを得なくなる)。
もうひとつオマケに子沢山で貧乏。
(さらに言えば、映画では描かれていないがユング以外の有力な弟子アドラーなども次々と離反し、かなり孤独な時期もあった。)
なんつうか苦難とコンプレックスの役満である。
それを映画では薄暗い部屋で表現していたのか?(そう単純でもないような気もするが…)
そんな苦難の中でも、自分の説を学問として確立しようと尽力したフロイト。
偉くもあり、その妄執が怖くもある。
アラゴルン・モーテンセンが偉人フロイトの妄執を淡々と演じていて、とても良かった!!
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対するユングは、ドイツ系でお金持ち&スイス住まい。当時のヨーロッパ事情の中では、フロイトに比べかなり恵まれている。
それでいて保身のためなら愛人を平気で捨てる酷薄さも併せ持つ。
酷薄さを表現するための白い壁だったのか?清廉さを装う彼を皮肉る白い壁?
それともユングの学問への思い崇高さを表現するための無機質な壁だったのか?
無機質な白い壁の前で繰り広げられる、患者との不倫(まるで昼メロみたい)。このギャップがとてもイイ!!
無機質と肉欲という真逆なものが一つになった感じがグっとくる。
無機質と肉欲、聖と俗、正気と狂気の間を行ったり来たりするユングの描写がとても面白かった。
正気と狂気は陸続き、差なんてないんだなーと思ったりもした。
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そしてもう一人、超面白い男オットー・グロスも出てくる。
父親はドイツ犯罪学の権威ハンス・グロス。強い父親に反抗して、かなーり破天荒な無政府主義者になってしまった人。エディプスコンプレックスを地でいく男。秀才でフロイトを支持する論文も残している。
彼の生涯は一本の映画になるくらい面白いのだが、この映画ではサラっとしか説明されていない。
それでもオットー演じるバンサン・カッセルが好演。
オットーの破滅的な魅力、虚ろな眼の奥に潜むコンプレックスを説得力ある演技で見せてくれたと思う。
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最後に、ユングの患者であもり愛人だったサビーナ・シュピールライン。
彼女自身優れた学者でもあり、フロイトのタナトス概念に影響を与えた。
まさに精神分析界のファム・ファタル。
ザビーナ演じるキーラ・ナイトレイが個人的にはとても良かった!!
シャクレ、痩せ過ぎ、貧乳という彼女のマイナスポイントが、この映画では逆にプラスに。神経質な才女という役にピッタリ合っていたと思う(かなりベタな発想で本当に申し訳ないんだが爆乳に神経質は似合わない)。
乳むき出しで尻を打たれて喘ぐキーラ・ナイトレイ。絶妙なリアリティにグっとくる。巨乳だったらエロが勝ち過ぎて方向性が変わっていたかも。貧乳もこんな活かし方があったのね…と目から鱗が落ちた(乳のことばかり書いて本当に申し訳ない)。
最後の場面は、乳に関係なく美しくとても上手い女優さんだなあと思った。
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映像、俳優ともに個人的にはとてもツボだった本作。
台詞のひとつひとつも、どこを切り取っても詩になるようなカッコよさ。
欲を言えば、もしこれが英語ではなくドイツ語だったら、もっと硬いゴツゴツした言葉の響きで印象も変わっていたのかなー、ドイツ語版があれば聴いてみたいなーと思った。(監督がカナダ人だし英語なのも至極当然なのだが…)
あともう一つちょっとした謎が。
フロイトは葉巻、ユングはパイプ、オットーは紙巻き煙草を吸っていたんだが、これは何かの暗喩なのだろうか?物知りの人がいたら教えてほしいと思った。
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追記:こんな感想長々書いといて何だが、
この映画、別にユングとフロイトの伝記がしたかった訳ではなく、
心という目に見えないものを目に見える形にしようとした悲しさの話なんでないの?とも思う。
危険な香りがぷんぷん(∩´∀`)∩オォ♪
心理学の基礎を築いたフロイトとユング
そしてその2人の理論をさらに発展させる切っ掛けとなったザビーナ女史
この3人の何とも危険な関係が映画からにじみ出てる(゚∀゚ ;)タラー
元々フロイトは何でもかんでも性衝動が根本の原因だという理論だが、それはどうだろうとユングは疑問に思ってた。
フロイトとユングが最初に面会した頃から、後に袂を分かつことは分かってた。
その切っ掛けが、ユングの所に担ぎ込まれた統合失調症の患者だったザビーナ。
まるで悪魔に憑りつかれたと思わんばかりの凄まじいヒステリー発作∑(゚ω゚ノ)ノ
ザビーナはユングの対話療法を受けていくに連れて、どんどん幼少時の体験を吐露する。
父親にぶたれ続けてて、それが大変興奮したとオォォー!!w(゚ロ゚)w
つまり性衝動を抑制し過ぎて発作を起こすようになったということね。
しかしこのキーラ・ナイトレイのヒステリー演技は素晴らしい!!!(=´∀`ノノ゙☆パチパチパチ
顏芸もさることながら、ぶたれて喘ぐあたりも((;゚д゚))ス、スゲェ
フロイトとユングは意気投合して、精神分析の分野で協力していくが、結局両者の出自や経済力の差、そして性格が災いして決別。
そしてヴァンサン・カッセル演じるオットー・グロースの「思うがままに快楽に身を委ねろ」という言葉を切っ掛けに愛人の関係にヘ(゚∀゚ヘ)アヒャ
しかしヴァンサン・カッセルは『ブラックスワン』でもそうだったけど、とにかくこういう「もうお前やっちまえよ~( ´_ゝ`)σ)Д`)ツンツン」っていう役柄多いな~(゚∀゚)アヒャ
そのうちどんどん深みにはまって行って、ザビーナはユングの子供を産みたいと言う。
ところがユングはもうこの関係はやめようと言うと「じゃあ私はフロイト先生の所に行きます!!」と言うヾ(゚Д゚ )ォィォィ
ユングの嫉妬心を煽ったり、具合が悪いふりをして誘惑したり・・・女ってこういうもんなんですよね~゚+。゚(・∀・)゚。+゚イイ!!
フロイトとユングが渡米する時に、ユングは奥さんが予約した一等船室にそそくさと行ったりするという無神経さΣ(゚д゚lll)ガーン
もうこれが決定打ですな(・∀・)ウン!!
とにかく精神分析という研究分野の危うさが、そこかしこからにじみ出てる印象ですな(;・∀・)
フロイトとユングの対話シーンで、2人の微妙な齟齬があってほんとに協力できるのか分からんという危うさ、ザビーナとユングの関係性の危うさ、そしてフロイトのリビドー理論の危うさ、さらにユングは決別した後に集団的無意識という独自の理論を打ち立ててオカルト世界にまで足を踏み入れていくという危うさ・・・
三者三様の「危険なメソッド」なわけですな。
フロイトも怒り狂ってぶっ倒れちまった後、ザビーナの統合失調症に関する論文を読んで、ワーグナーのワルキューレ、ジークフリートを持ち出してリビドーは実は自我を破壊しようとしているのだというザビーナの考えを示す。
これがフロイトのタナトス理論に影響を与えたとかスンゲェ──―Σ(゚∀゚ノ)ノ─―─ッ!
ユングは「境界を越えるべきでない」というフロイトの忠告を無視してオカルトにまで足を踏み入れるけど、これも結局ザビーナの関係から導き出された一種の結論ですな。
このザビーナ、実はとんでもないミューズであったことが良く分かるイイネ♪d('∀'o)
ラストでザビーナとユングが湖畔で語り合うシーンは実に泣かせる。・゚・(ノД`)・゚・。
この時ザビーナは別の男と結婚して子供を身ごもってる訳だけど、その子供が自分の子供だった可能性も無きにしも非ず・・・
色々と想像しながら涙する( ´Д⊂エーン
マイケル・ファスベンダーのユングとヴィゴ・モーテンセンのフロイトはほんとに生き写しみたいな感じでそっくりΣ(゚Д゚ノ)ノオオォッ
さらに風景やら部屋の調度品や置物、そして服装なんかもほんとに当時のドイツにタイムスリップしたかのような素晴らしさ(・∀・)イイ!!
知的で難しい映画だけど、その中にエロさとコミカルさ、そして下品さも含む秀逸な傑作です(゚∀゚)アヒャ
危険な関係
精神医学の礎を築いた二人の出会いと決別を描いた作品。クローネンバーグの作品にしてはとても内省的で落ち着いた映画だが、蓋を開ければ「危険なメソッド」は間違いなく彼の作品だと確信した。
ユングとフロイトの出会いのシーンは非常に面白い。マイケル・ファスベンダー演じるユングは冷静沈着でいかにも「精神科医」だが、内にはあふれ出んばかりの情熱が潜んでいる。自分の中に潜む矛盾した二つの感情を必死で抑えつけようとしているのが目に見える。そしてフロイトに扮するヴィゴ・モーテンセン。とても博識で雄弁な人物だが、実は傲慢で自分がトップでないと気が済まない。それは裏を返せば、ユングに対する劣等感の表れでもある。様々なシーンで彼が時折見せる表情は、彼が持つ”脆さ”である。二人とも役に完璧になりきっているから、丁寧な言葉でやり取りされる手紙の議論でさえも、手に汗握るものとなる。
しかし、実際のところこの映画が主軸に置いているのは「ユングとフロイトの師弟対決」ではない。「ユングとその患者ザビーナの逢瀬」である。いや、これはこれで面白いのだがどうも物足りない。
その理由の一つはザビーナ役のキーラ・ナイトレイの演技力が追いついていないことだ。初めの彼女が見せる演技は大げさ以外の何でもない。手を振るわせ、目を見張り、歯をむき出してとにかく暴れる。冷静なユングとのギャップのせいで、彼女の演技はパロディにしか見えない。だがその後がもっと良くない。”大げさな演技”は影を潜めるが、今度は繊細すぎて、ただでさえスローペースな映画の展開をさらに遅くする。映画の中で数年は経っているのだが、彼らの間柄はいつまで経っても微妙なまま。関係を持ってからは、むき出しのマゾヒズムに初めは驚くがそれさえもマンネリ化する。ユングとフロイトの方はあっさり終わるのに、だ。
上手く描けているのは明らかにユングとフロイトの方だ。思い出すシーンもほとんどが彼らが対話する場面ばかり。精神科医が分析を進めるうちに、自分自身が分析され、新たな自己を見いだす。このコンセプトは悪くないのだが、いつまで経っても学生にしか見えないザビーナは味付け程度にしておくべきだった。もし”このザビーナ”ももう少しカリスマ性があれば「精神学者の三つ巴の戦い」が成立したかもしれない。
(2012年11月18日鑑賞)
「壁」からの連想に「花」と答える人。
現代心理学の祖、フロイトとユングの友情と決別を1人の女性を核として描く、実話に基づいた人間ドラマ。暴力とエロスを前面に押し出すことなく(それらは深層心理の中にある)、上品な会話劇として仕上げたクローネンバーグ監督の新境地。
本作の主な登場人物はフロイトとユング、そしてユングの元に患者としてやってきて、後に愛人となる、女性心理学者の先駆者であるザビーナ。この奇妙な三角関係(肉体ではなく精神面での)が物語の主軸だが、私は敢えて脇役であるユング夫人エンマにスポットを当てたい。冒頭に登場する彼女は、滑らかなシルクのマタニティ・ドレス姿だ。ベッドでまどろむ姿は、愛する人の子供を宿した幸福感に包まれている。しかし次に、「自由連想」という夫の実験での被験者として登場する彼女は、心の奥底に不安を抱えていることが判ってくる。男であるユングには解らなかったが、「妊娠したため夫を失うことを恐れている」と、同性であるザビーナは見抜く。産まれた子供が女の子であったために夫に「男の子を産んであげられなくてごめんなさい。」と謝る彼女の心のしこりが、何とも切ない。
ザビーナとエンマは全く対照的だ。幼い頃父から受けた折檻によって、ぶたれることに快感を覚えてしまったザビーナは、ユングによる「対話療法」によって、自分の性癖を暴露することで、彼に心を開いていく。女性が性について口にすることなど考えられなかった時代、彼女は持ち前の知性と行動力により、新しい女性像を築いていく。それに比べエンマは控えめで保守的だ。夫に愛人がいようと黙って耐える(それでも匿名の手紙を出して夫と愛人の仲を裂こうとする策士な部分もある)。裕福な彼女は、夫の欲しがっていた赤い帆のヨットをプレゼントして気をひこうとする。しかしそのヨットで夫は愛人と逢瀬を重ねる。余談だが、フロイトとユングの不協和音の1つに、エンマが裕福だということがあると思う。子沢山のフロイトが、家計に苦労しているのを察せず、ユングは悪びれることもなく「妻が裕福なので」と口走る。その瞬間フロイトにわずかな妬みが生まれたのは間違いあるまい。
ザビーナもおよそ裕福とは言えない暮らし向きだ。エンマは高級なレースのドレスを身にまとって登場するが、ザビーナは何年も同じバッグや帽子を使っている。それでもザビーナはフロイトのように自分の貧しさを卑しく思わない。そんなザビーナの不屈のパワーに、ユングは惹かれたに違いないのだけれど・・・。ザビーナと交わすライトSMチックなセックスも含めてユングにとって彼女は刺激的な存在だ。だがその刺激はとうてい長く接していられない。フロイトと決別するとほぼ同時にザビーナとも別れたユングは、半分魂の抜けたような状態に陥る。エンマはそんな夫のために、誰あろうザビーナに夫の力になってくれるように頼むのである。フロイトを失うのと、ザビーナを失うのと、エンマを失うのと、ユングにとっていったいどれが一番の痛手だろう?エンマがユングを支え続け、この後彼がフロイトを凌ぐ心理学者として成長したことを思うと、おのずと答えは1つだろう。
妻と元愛人の対峙シーンが印象的だ。高価なボーンチャイナの茶器でお茶を淹れるエンマ。受けるザビーナはロシア人医師と結婚しており妊娠中だ。精神病患者として登場したザビーナは、今や児童心理学者として自立しており、さらに妊娠によって穏やかで満ち足りているようだ。エンマの妊娠から始まって、ザビーナの妊娠で終わるこの物語は、ユングとフロイトという偉大な心理学者の出会いと別れを描きつつ、エンマとザビーナという正反対の女性の、それぞれの“自立”(アプローチは違うけれど)を描いた物語でもある。
情熱的なザビーナは魅力的だが、「自由連想」で「壁」という言葉に対して「花」と返したエンマの細やかな優しさを、私は女性として尊敬する。
スパンキング…
のっけから、あごを突き出して顔をゆがめる美人に怖くなりつつ観ていたけれど、眠ってしまい、意識が戻ったら、ユングが美人をスパンキング…フロイトともうひとり、呟いていた彼は誰だったんだろうと思ったら、餓死とエンディングで紹介されていた。裕福な妻を持ったユングと6人の子持ちのフロイトが対立、手紙の往信で亀裂を深めていったことと、最後まで生きて権威を確立したのはユングだったというところか。好きな役者が揃っていたのに、テンポが合わなかったのか、楽しめなかった。
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