危険なメソッド : 映画評論・批評
2012年10月16日更新
2012年10月27日よりTOHOシネマズシャンテ、Bunkamuraル・シネマほかにてロードショー
夢やトラウマを映像ではなく、言葉で描く、禁欲的かつ挑戦的な映画
最新作「コスモポリス」のプレス資料にある監督デビッド・クローネンバーグの発言に引き寄せられた。ニューヨーク金融界を背景にしたドン・デリーロの原作に惹かれた理由を「会話」と言い切る監督は自ら脚色する際もまず、原作の会話を書き写すことから始めたという。言語の魅力に向けた意外とも思える監督の執着はフィルム・コメント誌のインタビュー記事でも反復されている。そこでは映画にとって会話は邪魔とする映像優先主義への反発も強い調子で示されていて、クローネンバーグ映画の視覚面ばかりについ注目しがちな観客への警句ともなっている。実をいえば「危険なメソッド」初見時に多分、熱烈なファンほど覚えるはずの肩すかしめいた感覚を超え、真の醍醐味へと至るためのヒントもここにあるだろう。
20世紀初頭、時代の優雅な節度をはみ出さぬまま「危険なメソッド」は、フロイトとユングの出会いと別れ、はたまた後者の患者で愛人となるロシアから来た娘との危険な関係を凝視する。一見、文芸メロドラマ風の破綻のない語り口。だが、往還された手紙の言葉、そこに響く肉声を物語の導き手とする映画は、精神分析の場面でも“談話療法”、言語化の作業にこそ目を注ぐ。夢も回想もトラウマも映像として再現しようとはしない。その禁欲。自身を縛る抑制の頑なさが人と時代の裡にうごめく病みを妖しく照射していく。「治療の過程で自ら病まなくてはいけないのか」と訊くヒロインに「自身が傷ついてこそ治癒の可能性がある」と返すユング。背景と乖離(かいり)した結末のその顔に自らの言葉が改めて響く。凄絶な恐怖と悲しみを刻んだ彼の顔をみつめ、やがて欧州を、世界を覆う血の海を思わせる監督、映像で見せず言葉で描くその静かな映画に冴えわたる痛みの激しさにおののこう。
(川口敦子)