「巨匠が見た日本〜アッバス・キアロスタミ編〜」ライク・サムワン・イン・ラブ 因果さんの映画レビュー(感想・評価)
巨匠が見た日本〜アッバス・キアロスタミ編〜
祖母からの留守電を東京のギラついた夜景とオーバーラップさせるというやけに地に足のついたエモーショナル描写から始まったかと思えば、最後は夢とも現実ともつかない唐突な暴力で幕を閉じる、といういかにもアッバス・キアロスタミらしい意地の悪い映画だった。『桜桃の味』や『柳と風』を見終わったときと同様の「やられた」感。
思えば東京の繁華街を出発したタクシーが静岡の家康像前に辿り着くというのも地理的におかしい。彼自身、それをわかってやっている。こうしたフィクションのフィクション性に対する過剰なまでの自覚意識も彼らしい。
老人宅に飾られた矢崎千代二『教鵡』は、タカシの亡き妻と明子を超時代的に接続するためのハブとしての役割を果たしていた一方、キアロスタミ本人の思想というかアティテュードを表象してもいたように思う。
矢崎千代二は油絵という舶来的技法を内面化したうえで日本画を描いた。これは小津安二郎を呼吸しながらイラン映画を撮り続けたキアロスタミに通ずるところがある。『教鵡』には「私は日本で映画を撮ったけれども、それは邦画を撮ったということではない」というあまりに謙虚な彼のエクスキューズが織り込まれていたのかもしれない。
思えば本作はいつにも増して小津映画っぽい。撮影技法は言わずもがな。明子に留守電を入れまくる祖母や聞かれてもいない昔話をダラダラと語り続けるタカシの隣人なんかも小津映画に出てくるお節介なご近所さんそのものだ。しかし特にタカシの隣人がそうだったように、彼らの語りにはどこか違和感がある。より正確に言えば現代日本の空気感とミスマッチを起こしている。今時こんなベラベラ喋る奴いないだろ、という。
しかし上述の通り、小津映画にもこういう奴はいっぱい出てくる。ごまんと出てくる。にもかかわらずそちらに違和感はない。したがって両者のこの差異は、日本社会の日常を支える基盤のようなものがドラスティックに変化してしまったことを示しているといえる。小津的なコミュニケーションのあり方の消失。明子はそんなポスト小津的な人間の在り方の代弁者だ。他者を完全に拒絶するわけではないが、心のどこかに一線を引いて、その内側で身構えている感じ。
巨匠ヴィム・ヴェンダースが『東京画』で自分が探し求めていた「日本」が80年代の日本のどこにも存在していないことに気がついたように、キアロスタミ監督も実際の日本に触れることで彼と同様の感を得たのではないか。その気づきが明子という登場人物の人物像に流し込まれているのだ。小津的なものと非・小津的なものの奇妙な邂逅、そしてすれ違い。そういったものが異邦人という外部的視点からニュートラルに記述されている。これはもう「批評」と呼んで差し支えない。それでいて物語的な面白さはきちんと内蔵しているのだからすごい。