クレイジーホース・パリ 夜の宝石たちのレビュー・感想・評価
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60余名で緻密に造り上げられる究極のエロス
映画が始まり、しばらくして驚いた。「え? ワイズマン監督なのに音楽?」監督といえば、ナレーションなし、字幕なし、音楽なし。素っ気ないほど淡々としたつくりでありながら、映像は饒舌にテーマを語り出す…というのが持ち味のはず。80歳を越えて心境の変化が?と戸惑ううちに、あっさりと謎は解けた。今回の題材は、パリの歴史あるナイトクラブ、クレイジー・ホース。映像に似合いすぎるその音楽は、舞台上の音楽だったのだ。やはり、ワイズマン節は健在。にやりとさせられた。
洗練されたヌードダンスを夜な夜な披露しているクレイジー・ホース。このような機会がなければ、この種のショーに触れることはまずなかっただろう。ワイズマン監督は、相変わらず冷静に、一流のエロスを創造する人々を追う。ダンサーたちを選ぶ規準は、踊りの資質ではなくボディライン。映画の初めから終わりまで、踊る彼女たちの裸体が繰り返し映し出される。他人のお尻や胸を、こんなにアップで様々な角度からまじまじと見たことはないかも…と思うくらいに。けれども、そこにいやらしさは全くない。あくまで、エロスを造り出す要素のひとつ。そんな彼女たちの身体は美しく、しなやかで力強かった。
いつもながら、様々な人や場所へ丹念にカメラが向けられる。ミーティングでの舞台監督と衣装係のバトルなど、定番とはいえスリリングで息を飲む。舞台監督が産みの苦しみやひらめきの大切さを説いても、「創造はあなたの仕事。私の仕事をしっかりやらせて。」と臆せず言い切る衣装係。思わずゾクリとした。「芸術だから」でなんでも許され、可能になるわけではない。ショーには、ビジネスとしての側面もあるのだ。彼らは、お客だけでなく、株主さえも納得させる必要がある。そして、彼ら自身に対しても。異なる立場からショーにかかわる以上、激しいぶつかり合うことは時に必至だろう。しかし、目指すところは共通。そこにプロの厳しさ、爽快さを感じた。
加えて印象的だったのは、ダンサーたちがロシアの有名バレエ団のビデオをわいわいと眺めるシーンだ。小さなミスを見つけては笑い転げる彼女たち。しかし、ふとあるダンサーがつぶやく。「床が滑りやすいのね…踊りにくそう。」そんな悪環境は、クレイジー・ホースではまず考えられないことだろう。彼女たちには、常に最高の舞台が用意されている。選び抜かれ、研ぎ澄まされた音楽、照明、衣装…。ダンサーが気に入っている衣装さえ、照明が当たると身体のラインが映えないからと作り直される。そして、昼夜問わず街頭に立つドアマンや、黙々と舞台道具を設置し、舞台を掃除するスタッフ。そんな一人ひとりの存在を、ワイズマン監督は余さず際立たせる。
最高の舞台をめざし、地道な継続と改善を積み重ねていく人々。舞台がいかに複雑で緻密か、痛感させられた。瞬く間の134分、久しぶりに充実感ある映画を観た。
(ちなみに…以前、地方で同国の某有名バレエ団の公演を観たことがある。公演前に、ホール近くのファミレスで団員らしき女性たちが食事をしていて驚いた。さらには、音楽は運動会のBGM並みの大雑把さ…。そんなことを、ふと思い出した。)
100年後の人のために
ワイズマンのダンス三部作(勝手に名付けてすいません)、『アメリカン・バレエ・シアターの世界』『パリ・オペラ座のすべて』『クレイジーホース・パリ 夜の宝石たち』は、ほんと観てて飽きない。好きなシーンを何度も繰り返し観てしまう。
『アメリカン〜』だったらライモンダのシーン、『クレイジー〜』だったらロープダンスとトウシューズのシーンかなあ。
これらのダンスシーンは一朝一夕に出来上がるわけでもなく、鍛錬と伝統に支えられている。
連綿と続くダンスの長い歴史の貴重なワンカットを観ているような気がしてくる。
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ワイズマンのダンス三部作、実は100年後200年後の人のために作られたんじゃないかなあと思う。
私は、『クレイジー〜』のダンスの大本となった、例えば200年前のマリー・タリオーニのダンスが観てみたい。現代にも引き継がれる芸術がどのように産み出されたのか、当時どんなだったのか、もの凄く観てみたいのだが、叶わぬ夢だ。文献でしか知る事ができない。楽譜は残っていても、その当時の情熱を観ることはできない。
パリ・オペラ座やクレイジーホースは、形を変え、どんどん未来へ引き継がれていくと思う。(もしかしたら無くなってしまうかもしれないけれど、クレイジーホースというものがあったという記録は残るだろう。)
100年後200年後の人も、私がタリオーニを観たいと思ったように、フェリを、ルグリを、そしてクレイジーホースを観てみたいと思うのではないか?
ワイズマンはその人たちのために、このドキュメンタリーを撮ったのではないかなあと思う。
圧倒的な身体の存在感を、舞台という一瞬ではなく、映画という永遠にしたかったのではないかと思う。
ありのままを写し撮った映画
カメラマンと監督の好みがよくわかります^^
初めのほうのダンスシーンが、ずーとおしりのアップばかり映されて、
全然ディティールとか全体の雰囲気がわからない!!
ダンスが見たいのに~、ともどかしい気持ちになりました。
後に行くほど、『局部のアップのみ』や『胸のアップのみ』という事はなくなり、きちんと舞台全体が見れます。
もしかして、最初にアップを流すことでアブノーマルな感じを印象付けたかったのかも知れませんね。
全裸に近い状態の女の人がいて、そんな人が踊っていたら、どこに目をやるか?
そりゃ当然胸かおしりで、そのことを映像で疑似的に表現したかったのかも知れません。
表舞台と対をなす、夜の舞台クレイジーホース。
ダンサーが憧れるもう一つの場所です。
エロスを表現することだって、立派な芸術。
気になる公演形態ですが、すべての席は舞台に向いていて、飲み物は元からテーブルに用意されている。各席に番号があり、きちんと予約番号の席に観客は着く。
映画館とか劇場に近いかんじですね。
食べ物はたぶん出ないのではないでしょうか?
きちんとした身なりでないとちょっと気圧されるような雰囲気。文化人が見に来る『夜の芸術』って感じがします。
そんなクレイジーホースの舞台裏が取材されています。
・舞台制作会議
・衣装合わせ
・ダンサーの楽屋裏
・ダンサーオーディション
・ダンス練習風景
・照明練習
という感じです。あとはチラッとパリの街並。
ダンサーたちが歌うへたっぴな「クレイジーホースはパリにある」という曲と、それに合わせて舞台で踊るシーンがあり、
ダンスは良いかもしれないけど、その歌じゃエロスの雰囲気が台無しじゃない?とある意味楽しめたりします。
「I am a good girl」が踊られていて、『バーレスク』ファンの私は興奮しました。
キラキラしてて、いい舞台ですねえ。一回くらい見に行ってみたい。
エロスの秋は芸術の秋をいとも簡単に凌駕する
フランスの名門劇場『クレイジーホース』で繰り広げられる魅惑のヌードショーの美しき舞台とその裏を追ったドキュメンタリー
ラインダンスやポールダンスといった王道のセクシーダンスだけでなく、宇宙空間をモチーフにしたSFものやシルエットetc.前衛的な出し物までバラエティに富んだ構成でエロスを超越し、肉体の芸術祭にまで昇華している
ストリップショーの一種と云えるが、浅草界隈の生々しさや、プレイメイトに代表されるアメリカの押し付けがましさは一切無い
ファッショナブルで女性客でも虜にさせる華麗なるエンターテイメントとして確立化している圧倒的美の原動力は、ジャズ・バレエ・タップ・チアリング・影絵、はたまたSMまでありとあらゆるジャンルの舞踏を取り込み、練り上げられた探究心に尽きるだろう
また、踊り娘のボディラインを更に開花するべく、緻密に計算された照明技術にも目を見張る
まあ、個人的には楽屋でくつろいでいる時の無防備な姿が最も素晴らしかったけど
そして、完璧なショー創りを突き詰める演出家VSビジネスとの両立を掲げる支配人&スタッフとが衝突する舞台裏の慌ただしさも興味深く、傑作『バーレスク』を彷彿とさせる映画の面白さを兼ね備えている
では最後に短歌を一首
『蝶は舞う 尖らす羽根を くねらせて 絡み合う影 夢を照らして』
by全竜
【ぽろりデータ分析】《全編》
134分
《お楽しみ時間/下着・レオタード・シルエットetc.も含む》
約58分
《お楽しみ時間所有率》
43.3%
《プロポーション》
★★★★☆
《芸術度》
★★★★★
《物語性》
★★★☆☆
《エンターテイメント性》
★★★★★
《興奮度》
★★★★★
《オススメ度》
★★★★★
総合★27
おおっと、いけねえ。
「パリ・オペラ座のすべて」などの良質なドキュメンタリー作品で知られるフレデリック・ワイズマン監督が、フランスはパリの老舗ナイトクラブ「クレイジー・ホース」の裏側を赤裸々に描き出すドキュメンタリー。
映画作品に限らず、作り手の取ってはつけて、右に行っては左への人間味あふれる暴走が滲み出る芸術は、好感が持てるというものだ。高尚な宗教の思想がモチーフとされる絵画も、ちらりと端っこをみてみれば「ぐりぐり」とサインがいじくり回されていたり。
どこか「おおっと、いけねえ」と独り言をつぶやいて絵筆をかき回す作り手のゴマカシが尻尾を「ぴょん」と出しているのを見ると、何やら作品が身近になったようで、ちょっと嬉しい。
そんな些細な楽しさ、嬉しさが作品全体からじわり、溢れ出す一本が本作である。日常の喧騒に、少し疲れた男や女。彼らはパリの片隅、静かにネオンが輝く地下の宝石箱に快楽と興奮、そして幸福を求めてやってくる。そんな大人のエロチック社交場「クレイジー・ホース」の姿を追いかけた作品。
前半から、作り手の露骨にピンクな視点が暴発している。「そう、絡んで、顔を近づけて・・・そう、ウィ」なんて演出家の熱っぽい指示が空間に緊張を呼ぶ場面でも、作り手は「尻」にしか興味がいかない。徹底して「尻」に固執してカメラで嘗め回す。老舗ヌードショーの誇り、情熱、創意工夫を描くという前置きを、見事にそっちのけにしてエロに爆走!よ、あっぱれ!である。
で、作り手ははたと気づく。「おおっと、いけねえ!これじゃあ、ただのエロおじいちゃんの道楽といわれちまうぜ」さあ、作り手の暴走が始まる。後半から、突如として減少する「尻」舐めカメラ。クラブ関係者を唐突に俯瞰する視点。演出家の熱き思いを、これまた熱く拾うマイク。学術的な価値を「えいや」とねじ込もうとする意図が見え見えである。急にどうした!?
で、作り手はまた気づく。「いけねえ!これじゃあ、ただのおじいちゃんの
文科省推薦映画になっちまう。面白くないぜ」と、いう事で最後のオーディションカットである。それまでの声高なヌードショー論とは趣の異なる作り手の遊び心に委ねた人間臭い一幕。
もう、どうしたら良いのか分からない暴走が世界に満ちる、不可思議なつぎはぎ感が2時間を支配する奇作そのものである。いやいや、楽しい。いやいや、面白い。芸術は、こうでなくてはワクワクできないというものである。
学術的に高い価値がある作品では、無い。ただ、ここまで作り手の欲望と理性をかき回す混沌とした娯楽の殿堂・・・「クレイジー・ホース」への興味がじわじわ満ちていく、幸せな一本である事は確かだ。
退屈な映画
何の変化もない、退屈な映画。
舞台の裏側を描くのはいい。それが「売り」なんだろうが、ずっと淡々としてるだけ。踊り子とスタッフとのたとえばトラブルなどがあって変化があればいいのに、あくまで裏でこんなことやってますよ、というだけ。
踊り子のシーンはたくさん出てきて、女性の美しさを堪能はできるが、これも淡々と描いているだけ。ふーんという感じか。
上映館とスケジュールが限られいるせいか、平日にも関わらず、場内は満席で完売という盛況だったが2時間強は退屈で、何度も時計をみたぐらい。私の前に座っていた人も、あくびする人、寝ている?みたいで全く動かない人、やっとエンディングになると、次々席を立つ(結構最後まで見る人が多いと思うが)など、私と同じ思いの人も結構いたのだと。
やはり日本になじみのないものだと、変化がないとこういうことになるのか、ストーリー性のない作りの映画は見慣れていないのもあるかもしれない。日本やアメリカ映画だったら、踊り子どうしの確執、恋愛、劇場とスポンサーとのいざこざ、という変化球があり、ストレート一本では受けないのかも。
構成が物足りない
ライティングのアイデアが面白く、大人の夜を彩るショーは魅惑的だ。
だが、ナイトクラブ「クレイジーホース」の魅力を余すことなく伝える構成だったとは思えない。ドキュメンタリーとはいえストーリー性がなく、ただラッシュを見せられた気分だ。
ここで不満点を挙げる。
誕生してから50年以上になる老舗の歴史にまったく触れられていない。
リハーサルはいいが、本番での臨場感がない。音響も良くない。運営側からの一方的な目線で、ゲスト側から見たショーの興奮が伝わってこない。
ダンサーたちのプライベートタイムに密着取材していない。
言ってみれば、2時間あまり、ただお尻ばかりで飽きる。
唯一、見応えがあったのは、スタイリストのフィフィ・シャシュニル女史が、著名な振付師で演出家でもあるフィリップ・ドゥクフレの不手際に猛然と抗議した場面だ。ここは妥協のないプロフェッショナルの横顔が垣間見えて面白い。
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