幕末太陽傳のレビュー・感想・評価
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江戸古典風の粋で滑稽な娯楽
総合:75点 ( ストーリー:70点|キャスト:75点|演出:75点|ビジュアル:65点|音楽:65点 )
無茶苦茶なことをする男が、その高い能力を使って飄々と危機と問題を解決していく。歴史を揺るがす出来事も、よくある小さな人々の揉め事もまとめてこの男が受け流す。恐らく死を悟っているそんな主人公の生き様が心地よい。粋な男と滑稽な展開が飽きずに観られた。
粋ですね〜佐平次!
遊郭相模屋で繰り広げられる人間模様をテンポ良く描いている。
佐平次演じるフランキー堺が素晴らしくうまい。幕末という情勢が不安定な時代にひょうひょうと生きた男を好演している。
石原裕次郎の高杉晋作、女郎の左幸子南田洋子も新鮮です。
何回見てもいい!
8年前(2011年)に初めて見た時は、楽しかった!で済んでた。そして再度(2019年11/5)。フランキー堺のぞっとするほどの陰惨な絶望的な表情、の一方で、身体能力の素晴らしさに、そして二人の花魁の若々しい喧嘩場面に胸がしめつけられた。
居残りと品川心中以外にも色んな落語が入っていることにも改めて気づいた。(「いだてん」にも沢山落語が入ってる!)
まだ俺は生きるんだい!と、心の中で私は自分にも言ってみた。川島監督、素敵な映画をありがとうございます。
粋。
初見。
落語「居残り佐平次」が下敷きなのを(今更)知って鑑賞しました。
アタマに昭和30年代・品川の映像が挟まれていて、あれ?江戸の話じゃないの?、と思いましたが、枕だったんですね。
佐平次がとにかく'粋'。寄席で聴いていたのがそのまま飛び出してきた感があります。嫌味を感じない、その語りっぷり。よっ!江戸っ子!です。
昭和に作られたフィクションなんだけど、いや、なんか人間って変わんないなぁ、と。
男はスケベで馬鹿で、女はいつの世も一枚上手で。その変わらない様、身につまされると同時に、そんな自分すらも笑っていこうや、と勇気づけられた気がします。
寄席にも行きたくなる一席でした。
落語の世界を借りた川島監督の死生観
川島雄三監督の最高傑作。全編を通して落語の噺がちりばめられており、それが実に巧妙に作品を転がしているだけに、落語好きには溜まらない。
といっても、落語噺をよく知らなくても十分に楽しめる。遊郭に「居残り」をしながら、遊郭の若衆どころか男芸者顔負けに振る舞い小遣い稼ぎをする主人公の活動を中心に、日活「太陽族」を維新の志士としてうまく絡め、その上で監督の死生観までをも盛り込んで成立させている。主人公がラストシーンで言う「地獄も極楽もあるもんか。俺はまだまだ生きるんだ」という台詞は、物語の進行と同時に進んでいると思わせる主人公の病状の深刻さに抗うように、しかしながらどこか楽観しているような心情を現す。そして最後に主人公は、品川の海沿いの道を走り、どこかに逃避していく。
50年を経って、なお十分に見応えのある作品だ。また、デジタル修正版は初見だったが、非常に見やすくなっている。
なお、作中に使われる落語は「居残り佐平次」をベースに、「品川心中」「三枚起請」「お見立て」などのエピソードがちりばめられ、「文七元結」「付き馬」「お初徳兵衛」「夢金」などの設定や一場面も活用されている。
アウトサイダーから見た社会の縮図
冒頭、現代(撮影当時)の品川の街が紹介される。八ツ山の陸橋や、旧品川宿の商店街。今の職場のすぐ近くなので、とても興味深く見ていたが、あっという間に幕末、文久年間の品川宿に観客はタイムスリップしてしまった。
女郎宿の代金を踏み倒して、そこへ居残って働くことになった居残り佐平治。ケチで金に細かい彼は、当初周囲からは警戒されたり、馬鹿にされたりする。しかし、持ち前の度胸と、機転の速さで、いろいろな問題を解決していき、女郎宿の人々からは慕われ、頼りにされることになる。フランキー堺が演じている佐平治の、その軽かやでエネルギッシュな動きは、カメラワークによっても表現されている。宿の1階廊下から階段を抜け、2階の廊下へと駆け上がるノーカットのシーンは、カメラが吹き抜けを上昇して、その後なおも2階の廊下を水平に移動するという複雑な動きをしていることを示している。
佐平治はアウトサイダーである。共同体の外部からやって来て、共同体に波乱を起こし、自らその終息を図る。このような性格の登場人物と物語の構造は、他の川島作品にも見られる。「とんかつ大将」の主人公も、金持ちの実家を出てきた医者で、下町の人々に慕われ、問題を起こし、彼らに自分たちの内部を見つめなおす契機を残して、去っていく。また、「東京マダムと大阪夫人」に出てくる、大阪夫人の弟八郎も、大阪からふらりとやって来て、社宅の奥様方の間に波紋を起こし、その自己顕示欲の強さに気付かせる。そして、最後にはアメリカへと去っていくのだ。この佐平治も、女郎宿の一人息子と、女郎に売られた大工の娘の駆け落ちを手伝うことになり、これが潮時と、品川宿を去っていく。人は、狭い共同体の中で、つまらない自己顕示欲や、目先の利益に振り回される。アウトサイダーの目を借りなければ、そのことに気付くことができる者は少ないことをこの映画は訴えかけている。
これらのキャラクターに共通の資質は、他にも、弱い者やまっすぐな人間には優しくて親切だということである。佐平治は、女郎に売り飛ばされた大工の娘と当てのない礼金の約束を交わすだけで、駆け落ちの手助けをする。また、女郎が居留守を使って会わなかった客に、女郎が死んだと方便を使い、そのあげく嘘の墓場まで案内するのである。駆け落ちの手伝いを潮に、女郎宿を去ることを決めた佐平治は、わざわざ墓場までその客に同行せず、逃げることができたはずである。しかし、女郎の死を本心で悲しんでいるその客を、放っておくことが出来ないのだ。
ラスト、佐平治は、町外れの墓地に空いた壁の穴から逃げていく。墓地に置き去りにされる客からは肺病の心配をされるが、まだまだ生きていくんだという強い言葉を放ちながら、品川の宿場町を去っていく。
石原裕次郎、二谷英明が若い。女郎役の南田洋子の美しさ、左幸子の逞しさが印象的。
粋と洒落
南田洋子がなんともチャーミング。
落語をベースにしているだけに、軽妙洒落た江戸弁の台詞まわしをフランキー堺が見事に操る。
また、フランキーの身のこなしの軽さに敬服。
これを観ると、日本の映画界には喜劇俳優と呼べるジャンルの役者はいなくなったんだな、と思う。…あ、中井貴一がいた!
「主と朝寝がしてみたい」by石原裕次郎
映画「幕末太陽傳」(川島雄三監督)から。
落語好きには、もう溜まらない作品である。
というよりも、この作品の脚本を書いた人たちが、
根っからの「(古典)落語」大好き人間に違いない。
フランキー堺さん扮する「居残り佐平次」をはじめ、
「品川心中」「三枚起請」「文七元結」「お見立て」・・
落語初心者の私でもわかる「名作」がずらりと挿入されている。
他にも「あれっ、これはあの作品かな?」と思うようなシーン満載、
大満足で観終えた。
気になる一言は「三枚起請」という落語で出てくる「都々逸」、
「三千世界の烏を殺し、主と朝寝がしてみたい」の一部。
(これを説明すると長くなるので、書かないが・・(笑))
この作者は、幕末に活躍した「高杉晋作」と言われている。
その「高杉晋作」を演じていたのが、若かりし「石原裕次郎」さん。
やはり、若い頃からオーラを放っていたのがわかる。
作品の中でも「それは俺が作ったもんだ、目の前でやられちゃ、
さすがに照れる」っていうお風呂のシーンが印象的だ。
だから「『主と朝寝がしてみたい』by石原裕次郎」
もうきっと忘れることがない都々逸となった。
今回ばかりは「落語の名作」を聴いてから、観ることをお薦めしたい。
サヨナラだけが、人生じゃない!
川島雄三という映画監督は、時代を超えて評価が高まる監督だ。
「洲崎パラダイス・赤信号」という映画が、黒澤明の「生きる」に相当する映画である。「幕末太陽傳」は、「七人の侍」に相当する映画だと言い切ってよい。
「おそめ/金造の品川心中」を映像化し、ここでチャップリンでも出来ない「落語の映像化」をやってのける。心中志願者は、実は心中を望んでおらず、現実から”逃げているだけ”という揶揄を表現して見せた。
心中する、自殺することを、とことん批判した川島雄三。
彼は、女の度厚釜しい生理を批判し、男は”草食系”の頼りない生き物だと、この時代から見抜いていた。
居残り左平次は、川島雄三のブンシンである。女の度厚釜しいのを”笑い”にし、高杉晋作の偽善性を批判する。
「(お侍さん;旦那方は)(百姓町人からしぼり上げたおかみの金で、やれ尊王の攘夷のと騒ぎ回っていりゃ済むだろうが、こちとらと町人はそうはいかねえ」「手前一人の才覚で世渡りするからにゃ、へへ首が飛んでも、動いて見せまさア」…助監督今村昌平曰く、「(このバネの効いた町人左平次は、川島雄三そのもののイメージだ」。
黒澤でも、七人の侍でも、こんなセリフはない。
”進行性筋萎縮症”をひたすら隠して、それを言い訳にしないで、映画をダイナミックに製作し続けた監督だ。普通の人間、いや権威を媚びてこの病気を罹病したら、必ず良いわけ材料にするが、絶対死ぬまで、他人に良いわけしなかった。
今村昌平が、川島の死後、これに気がついて「サヨナラだけが人生だ。映画監督川島雄三の生涯(ノーベル書房)」を編集した。また川島雄三の生きざま「生き急ぎの記」を表わした藤本義一は、これ1本で、直木賞候補になった。
マンガでも「栄光なき天才たち:川島雄三 No 10」など、彼を文学にすえると、これまでの日本文学者作品が面白くなくなってしまう、それだけ魅力的な映画監督だ。
川島雄三の生き様で、人生が変わってしまった今村昌平、藤本義一、彼を師匠と崇拝する山田洋次、岡本喜八、ヱバンゲリオンの庵野監督など、川島のフリークに憑依された人間は後をたたない。
だから、川島雄三が早く死んでしまったのは、とても残念、いや、死んで欲しくなかった。
「サヨナラだけが人生じゃない」なんで早く死んでしまったのか。「人間、死ぬときまで、生きなきゃならないんですからね」(洲崎パラダイス・赤信号)。地震がなんだ、不況がなんだ。ボロボロになっても、人間生きなきゃならない。川島雄三の、とてつもない生命力に、気づいた人間は、おそらく川島カルトになってしまう。それだけの破壊力ある人間の代表作品だ。
サヨナラだけが人生ならば、笑うだけの人生も有って良いハズだ
先日、落語会で感動した立川志らく師匠がキネマ旬報のコラムで絶賛している伝説の一本なので、早速、劇場に馳せ参じた次第だが、いやはや面白いねぇ。
昭和32年にあの畳みかけるテンポは凄い。
新撰組の志士演ずるデビュー直後の初々しい石原裕次郎や小林旭はおろか、ダンプガイこと二谷英明、口うるさい店主の金子信雄&山岡久乃コンビetc.次々と店を仕切る強敵どもを涼しい顔で、交わしては、稼ぎに精を出すフランキー堺の図々しさは、威勢が良くてニクメない。
『居残り佐平次』をベースに『品川心中』『三枚起請』『文七元結』『お見立て』『付き馬』etc.数々の廓噺を盛り込んでは、幕末で慌ただしい渡世の浮き沈みを滑稽に浮き彫りにし、描き捨てる。
売れっ子遊女の南田洋子と左幸子が揉みくちゃに取っ組み合うキャットファイトに象徴されるように、人情臭さを廃除したドライな眼は、唯一無二の世界観を生み出し、時代を超え、観る者を今も引き込む。
貸本屋の小沢昭一が左幸子にそそのかされ、海に飛び込もうとする場面なんざぁ、『品川心中』がそのまま飛び出したような面白さで溢れていた。
落語と映画の醍醐味が銀幕一枚に並び立った最初で最後の作品では無かろうか。
主人公の佐平次は結核で余命幾ばくもなく、義理人情なんぞクソ食らえってなぁ薄情な了見の持ち主。
そんな掴み所の無いキャラは、病弱だった川島雄三自身が抱える死生観を物語っている気がして、ドタバタした笑いの中にどこか影がつきまとい、淡い味わいを加えている。
生前の川島が愛した言葉の一つに
「サヨナラだけが人生だ」がある。
30凸凹ノウノウと生きてると、なるほど世知辛い世ん中なんざぁ、所詮そうかもしれない。
でも、そうだと言い切れない自分もいやがる。
川島はラストは当初、駆けていく佐平次が品川を越え、江戸を越え、遂には日活スタジオを飛び出し、とうとう現代の東京の雑踏に紛れて、サゲたかったらしい。
やはり天才の考える演出は万人の思考を遥かに凌駕している。
フランキー佐平次が駆け抜けようとした先に、サヨナラの意味が待っていてくれていたのかもしれない。
では、最後に短歌を一首
『品川の 宵に居座る 咳ひとつ 御脚も啖呵も 斬り捨て後免』
by全竜
俺はまだまだ生きるんでい
あれっ?思わず声をあげてしまった。
おぼろげな記憶の中のラストシーンでは、佐平次(フランキー堺)は墓場から逃げ出し、
海沿いの道を走り、セットを飛び出して昭和32年の品川へ駆け抜けた筈!?
オールナイト5本立ての1本として半分寝ぼけながら見てしまい、
先輩達が夜明けの喫茶店で熱く語っていた幻のラストシーンを
頭に刷り込んでしまっていたらしい。
(オールナイトで見た映画は、見た内には入らないと反省・・)
遊郭に次々捲き起こる難題を居残り佐平次が鮮やかに解決していくのだが、
爽快感と共に、風が吹き抜けるような寂しさを感じてしまった。
決して弱みを見せない佐平次が、一人の時に見せるぞっとする程の絶望的表情に
進行性筋萎縮症で体の自由を奪われていた川島監督の痛みを重ねてしまったのかもしれない。
落語の「居残り佐平次」には、病気の母親へと仲間にお金を託すくだりがあるが、
この映画からは、ほろりとするような人情話の部分がほとんど切り捨てられている。
井伏鱒二が訳した漢詩の一節「サヨナラだけが人生だ」が川島監督の口癖だったそうだ。
同郷の寺山修司の詩には「さよならだけが人生」という言葉が繰り返される。
「幕末太陽傳」の影響を受けているという映画「田園に死す」は、
川島監督へのオマージュでもありメッセージだったのだろう。
菖蒲か牡丹のように艶やかな南田洋子と左幸子、リンドウのように可憐な芦川いづみ、
女達は美しく、したたかだ。
主役級の石原裕次郎・小林旭・二谷英明。
芸達者な小沢昭一・西村晃・金子信雄など超豪華キャストを見るだけでも面白い。
39歳で「幕末太陽傳」を撮り、45歳で亡くなるまで、
「貸間あり」「青べか物語」「しとやかな獣」等々の傑作(残念ながら未見)を
残した川島監督だが、撮影予定作が何本もあったと聞く。
映画のラスト「俺はまだまだ生きるんでい!」と佐平次が叫んだように、
まだまだ生きて作品を残して欲しかった。
目まぐるしく、笑いっぱなし!!
恥ずかしながら、自分、この映画は初見です。
1957年の発表からおよそ50年以上経た今でもカルト的人気を誇ってる、て情報もさっきウィキペディアで仕入れたぐらいに、最近まで知りませんでした。
映画館でチラシを見掛けてから、本能的に「あっ観たい」という気持ちだけで観に行ったというw
いや~、本能に従って良かったです。もう本当面白かった!!
面白くってずっと笑ってましたよ!
自分も観客も同時に満場で笑うもんだから劇場が一体感を持って、常にほんわか暖かいというか!
観客層も若年よりお年を召した方が多かったし、この映画に対する思いも一入だったのかなーとか想像してみたり。
何でしょうかね、モノクロで古めかしいのに何故か新しく感じるというか斬新というか、このテンポとフランキー堺の巧みな話術で以って中弛みとリズムの破綻を一切発生させない物語運びは見事としか云えないですよね。
群像劇の体裁を取ってるからアッチコッチ話は飛ぶんですけど、そのどの事象にもフランキー堺扮するイノさんが関わり、イノさん流の機転で鮮やかに解決してくってのを終始繰り返してくだけなのに、目の前の『どうするのこれ?』って展開を全部見事に解決するもんだから劇中の誰もがイノさんを好きになるしオレも好きになるし劇場全体で惚れてるし、つかオレもイノさんみたいに格好よくなりたい!と憧憬に近い感情すら抱きながら観てました。
あっという間の110分間。
この景気のイイ笑いは、日頃の鬱々とした気分を吹っ飛ばしたい方には最適でしょうね。
3.11を安易に引き合いに出したりしての月並みな物言いはなるべく避けたいのですが、この映画の陽気さで、少しでも暗澹たる気持ちを払拭できたらそれは素敵なことだなー、と思ったりした次第です。はい。
それでも「生きるんでぃ!」ですよね。
古典落語さながらの粋な映画。リズミカルでスピーディな展開は現代作品に引けを取りません。
タイトルからすると幕末の維新ものと早合点するひとも多いと思います。確かに高杉晋作ら攘夷派の志士たちは登場するもの、あくまで脇役。主人公は無一文ながら大尽遊びを繰り広げて居座る、幇間みたいな男なんです。その男がお代の代わりに居残り奉公に努める顛末を描いたのが本作。あらすじにあるとおり、遊女屋に居残った佐平次の巧みな交渉術で、あれよあれよと客も、店の番頭たちや遊女を丸め込んでしまうところが圧巻です。 その立て板に水を流したようにまくし立てる江戸弁が、粋なんですねぇ。
元々は古典落語の名作から採った話なんですが、大看板の師匠にも負けない流暢さで丸め込んでしまう佐平次を、軽快に演じたフランキー堺の演技が何と言っても素晴らしかったです。
現代の作品と比べて、大掛かりなアクションなど皆無ですが、遊郭を丸ごと作り込んだセットはなかなか規模がでかく、佐平次の動きを生き生きと捉えていました。そしてリズミカルでスピーディな展開は決して現代作品に引けを取っていないと思います。
それと石原裕次郎、南田洋子、左幸子、芦川いずみら、日本映画黄金期の日活オールスター・キャストがずらりと出演していると、邦画全盛期のもつ独特のパワー感も見せつけられました。それぞれのキャストの存在感がとにかく凄いのです。台詞がないシーンでも。
小地蔵がストーリーで注目したのは、佐平次の心意気。恐らく結核と診断されて、老い先短い命と診断された佐平次は、それを悲観しないばかりか、どうせなら短くぱぁ~と散らしてやるかと、遊郭でお大尽になってしまうなんて、なんてポジティブな発想なんでしょう。
死ぬと分かっているから、佐平次にとって恐いものなしだったのです。その割り切り方が、腹の据わった交渉術を生み出したようです。
最後に軽快にトンズラする佐平次の姿を見ていると、なんだか細かいことで人生を悩むなんて、馬鹿馬鹿しく思えてきました。ほんと、ケセラセラですよ。
デジタル復刻版では、プリントと音声は、まるでニュープリントのように美しく復刻されていました。映像技術の進歩を感じさせる復刻版です。
全34件中、21~34件目を表示