「華やかなミュージカルを見ているよう」華麗なるギャツビー DOGLOVER AKIKOさんの映画レビュー(感想・評価)
華やかなミュージカルを見ているよう
原題:「THE GREAT GATSBY]
原作は、F スコット フィツジェラルドによる1925年作品。ベストセラーになったロマンチックドラマ。アメリカ映画、ワーナーブラザーズ社による3Dフイルムで制作され、第66回カンヌ国際映画祭のオープニング作品として上映された。
ストーリーは
1922年。ニック キャラウェイは、第一次世界大戦に従軍した後、エール大学を卒業しウォールストリートの証券会社に就職した。ニューヨークのロングアイランドに家を借りて過ごすうち、となりの瀟洒な屋敷に住む住人に、興味をもつようになる。そのギャツビーという主人は、夜な夜な派手なパーテイーを開き、有名人や政財界の要人を招待して羽振りが良いが、深夜、桟橋で対岸の蒼い灯りを見つめる男の後ろ姿は、孤独そのものだった。
やがてニックのところにも、ギャツビーからパーテイーの招待状が届く。行ってみると贅を凝らした屋敷のパーテイーに、ニューヨーク中の人々が集まって遊び頬けているが、ギャツビーはまだ若い、物静かな青年だった。ニックとギャツビー、二人はすぐに打ち解けて親しくなる。
やがてギャツビーは ニックに、対岸に住むニックの従妹、デイジーをお茶に誘ってほしいと、頼みこむ。ギャツビーの思いつめたような表情に不審に思いながらも、ニックは自分の家に従妹のデイジーを招待する。溢れるほどの花束をもってギャツビーはデイジーを待つ。それは、デイジーとギャツビーの5年ぶりの再会だったのだ。デイジーとギャツビーは、かつて愛し合っていたが、戦争が二人の間を引き裂き、戦争が終わっても、無一文だったギャツビーは、デイジーのもとに帰って来なかった。デイジーは請われるまま大富豪と結婚して、贅沢な暮らしをしてきた。しかし、今、ギャツビーは、億万長者になってデイジーに前に現れたのだった。5年余りの時の流れなど無かったかのように、デイジーとギャツビーとは 再び愛し合う。それを知った夫のトムは、激しく怒る。
ある午後、ニューヨークのトムの別荘で、午後のお茶の時間を過ごしていて、ギャツビーはデイジーに、愛しているのはギャツビーだけだと 夫にに言うように迫る。遂にトムとギャツビーは、激しく争い合い、その場に耐えられなくなったデイジーは、ギャツビーの車で、逃げ出すようにロングアイランドに向かって運転して帰る途中、車に向かって走ってきた女を撥ね殺してしまう。女はトムの愛人、マートルだった。マートルはガソリンスタンドの主人との貧しい生活が嫌いで、そこから抜け出してくれるトムに、救いを求めていた。それでデイジーの運転する車を、トムが運転しているものと思って、車に走り寄ったのだった。デイジーは女をはねた後、車を止めずに家に帰宅する。
デイジーの後を追ったトムは 自分の愛人が、ギャツビーの車に跳ね殺されたことを知る。最愛の妻を失って嘆き悲しむ夫に、妻マートルを殺したのはギャツビーの車であることを言う。
ギャツビーはデイジーが家を出て、これからは二人で生きていけることを信じて疑わない。自分には、デイジーのいない人生などないからだ。ギャツビーはデイジーからの電話を待っている。電話が鳴った時、プールにいたギャツビーは、受話器を取ろうとしたときに、背後からマートルの夫に銃で撃たれる。
毎晩、ギャツビーの主催する贅沢なパーテイーに集まってきていた何百人もの「友達」は、ギャツビーの葬列に一人として参加しなかった。ギャツビーが自分の短い生涯で一人だけ愛した女、デイジーも、夫のトムも、ギャツビーの葬儀に来なかった。何事もなかったかのようにデイジーは旅行に出かけてしまった。
ニックは、たった一人きりで、ギャツビーを見送ったのだった。
というストーリー。
このラブロマンス物語は、1925年のフイッツジェラルドの代表作。現代アメリカ文学の代表作でもある。村上春樹の「アメリカン」な文体は、彼の影響をもろに受けてる。短くて明確な語り方。古典英国文学のように、風景描写や人物の背景など、グダグダ説明しない。にも関わらず、簡潔で的確な描写で、読み手はより具体的に情景を思い描くことができる。フィッツジェラルドとヘミングウェイとの交流も見逃せない。文体は歯切れが良く、描写が写実的で、カメラの目線で、焦点を絞ったり、緩めたりする。オーストラリアの高校では この「ザ グレイト ギャツビー」をアメリカ文学代表作として授業で読むから、オージーはみんなこの本を読んでいる。この作品は、イギリス文学でいうと、エミリー ブロンテの「嵐が丘」のアメリカ版と言えるだろうか。貧しかった青年が 生涯一人の女を愛し、女が死んだ後になっても、幽霊になっても、愛して求め合うラブロマンスだ。ヒースクリッフのキャシーへ激しい愛を アメリカ版で現代風にしたのが、このギャッビーだ。
アメリカ禁酒法下で、財力にものをいわせて自由奔放に飲み、買い、享楽に身を落とす人々に欲望の空しさを訴えて居る。金持ちのエゴイズムと、人を殺しても良心のひとかけらも見せることのない人としての堕落、あまりにもアメリカ的な文化を描いている。そのなかで、一生にたった一人の女を愛して死んでいった孤独な青年の姿が浮き彫りにされる。
バズ ラーマン監督は、「ロメオとジュリエット」、「ムーラン ルージュ」を監督した人だが、どうして3Dのフイルムで撮ったのか、という質問に答えて、絢爛豪華なパーテイーの様子を奥行きのある立体で表したかった、と言っている。確かに2Dでも3Dでもパーテイーの派手な演出はムーラン ルージュを上回る。着飾った人々が飲んだくれて馬鹿騒ぎする様子と、夜一人岬で対岸を見つめている男の孤絶感が、みごとな対比をみせている。
この映画を観ると どうしても1974年の「華麗なるギャツビー」を思い出す。これは、ロバート レッドフォードとミア ファーロウが主演した。デイジー役では、両者を比較すると、ミア ファーロウのほうが役に合っている。ミア ファーロウの、手足の長い、中性的で永遠の少女のようなたたずまいや、堅い笑顔は、演じて得られるものではない。彼女が本来持って生まれてきた不思議な魅力だ。それがとてもデイジーにマッチしていた。
ギャツビーは、今回のレオナルド デカプリオのほうが演技は巧みだ。デ カプリオは、本当に良い役者になってきた。でも、レッドフォードのほうが、原作のキャラクターに近い。孤独で物思いにふける男の雰囲気が良い。若い時はとてもハンサムだった。彼が真っ白の3つ揃いのスーツで現れるシーンなど、ストーリーもセリフも何も要らない。ただ立っていてくれるだけで絵になって、深い深いため息が出たものだ。
そんなレッドフォードも年を取り、若い映画人を育成する機関を作り、サンダース映画賞を設け、活躍している。そこで止まっていれば立派だ。が、、最新作「THE COMPANY YOU KEEP」をレッドフォードが しわくちゃな顔で主演している。1970年代に学生だった爆弾犯が、40年たって、FBIに逮捕されるストーリーで、スーザン サランドンも レッドフォードも ジュデイー クリステイーも逮捕される。レッドフォードが林を走るシーンがある。本人は走っているつもりだろうが、全然足が上がっていない。年をとったジュデイー クリステイーと、レッドフォードが、ベッドインするシーンまである。やめてくれ。76歳と72歳ですよ。君たち、いまさら何をやっているんですか。人は年をとれば醜くなる。老醜をさらすのは、公害よりも悪質だ。
ともかく、この3D、デ カプリオのギャツビー主演作は、ミュージカルを見ているように画面の移動がスムーズで、豪華でゴージャスだ。アメリカ文学の代表作に触れてみる価値はある