「朝露」灼熱の魂 たろっぺさんの映画レビュー(感想・評価)
朝露
「灼熱の魂」
原題「Incendies」
製作国 カナダ/フランス
監督/脚本 ドゥニ・ヴィルヌーブ
○原点
原作はワジディ・ムアワッド氏の戯曲「約束の血」の第2部である。
ムアワッド氏は1968年にレバノンの首都ベイルートに生まれ、8歳でレバノン内戦に巻き込まれフランスに亡命した経験があり、具体的に示されてはいないが、本作はレバノン内戦(1975-1990)がモデルになっている。
その後、ムアワッド氏は本作の舞台の一つであり、ヴィルヌーブ監督の出身地でもあるカナダのケベック州に移住した。
移民の国であるカナダでは、母国で凄絶な経験をした者が多く、自分の過去を誰にも話さぬまま墓まで持っていく事が少なくない。
余談ではあるが、ケベック州はフランス語圏でアメリカへの対抗意識が強く、本作の様にハリウッドで扱い難い題材を含む作品が生まれる地盤となっている。
○意匠
・公証人
冒頭、髪を刈り上げられるアブ・タレクがカメラを凝視するシーンは、紛争地域で繰り広げられる悲劇に対し、観客が証人になる事で第三者として関わりうることを示唆し、歪んだ世界を告発している。
・サブタイトル
各章は全て血の赤に塗り潰されているが、物語の転機には荒土の草木や女性の髪が風に揺れるという文学的肯定によりバランスを取っている。
・バス
髪を覆うスカーフと十字架、宗教の違いを皮相で見せる事に冷めた感覚があるが、我が子への想いは勿論、報復も愛によるもの。
燃え盛る炎には幾つもの愛が絡まり合っている。
・プール
魂が焼け焦げる手前で彼女を引き留めていたのは、命を宿すと同時に生まれる水である。
プールでの再会はその証左だ。
・約束
遺書を読むアブ・タレクをバストサイズで捉えていたカメラが右側にPANし、白壁に映る彼の影を捉える。
子守歌の様に、喜びと悲しみと共にあり続ける。
○弁証
18もの宗派が共存し巧妙にバランスをとりながら存続してきたレバノンはしばしばモザイク国家と呼ばれる。
坩堝ではない。
溶け合うのではなく、あくまでもモザイクである。
兄姉弟は、自分達の命が数々の罪無くして存在しないという事実に辿り着く。
もし母が襲われていなければ、収監されていなければ、暗殺を実行していなければ、同じキリスト教徒に襲撃されていなければ、子供が攫われていなければ、難民と恋に落ちていなければ、争いが起きていなければ、彼等は生まれてこなかった。
1+1=1、eiπ+1=0
貴方は誰も恨まない。祟らない。
偶然に翻弄され尽くしたかに見えた悲劇が、約束を巡る必然へと鮮やかに反転し、乾燥した大地で剥き出しにされた少年の眼差しは、湿度を帯びた緑滴る静謐な世界へ変わる。
「結果自然成」神と罪、そして世の無情は、0という愛の円環で繋がれ、そして次なる悲劇の重しは無くなった。
だからこそ、我々の一世一代、灼熱の魂。
○補完あるいは余談
・ダンテ「神曲」
・ゲーテ「ファウスト」
・宮沢賢治「グスコーブドリの伝記」
下地にあるのは言うまでもなくオイディプスとアンティゴネですが、本作に自棄や陶酔は有りませんのでこれを軸に捉えるのは早計です。
また、行動劇としての潔さや歌はハムレットを想起させますが、自然な暢達さは許されておりません。
そもそも、悲劇の中の悲劇が舞台でありながら、僕の意識はある種の高揚感を感じているのです。
ですから本作には人間悲劇と神聖喜劇が混在していると解釈しました。
喜劇を前提としますと、純粋数学の静けさや大胆ながら均整のとれた構成から、先ずダンテの「神曲」が挙げられます。
次に、人の業を公証人視点で捉えてみますと、魔法少女まどか☆マギカが浮かび上がります。
しかし、鏡の国のアリスの要素は本作にはありませんので、結晶体として残るのはゲーテの「ファウスト」です。
そして悲劇ですが、僕にとって本作の悲哀は、内戦や拷問や真実ではなく、一方向の慈愛にあります。
自分は愛されていたのだという実感を生まれて初めて得た時、彼は感謝も謝罪も償いも何も出来ない無力で愚かな己を知るのです。
そういう意味で宮沢賢治の「グスコーブドリの伝記」は外せません。
僕は昔からブドリの妹であるネリが不憫でなりませんでした。
目の前に居る筈のブドリの視点は心象宇宙で結ばれています。
彼女の愛がブドリを捉えた事は無いのです。