「芸術論。そして、哲学?」ベニスに死す とみいじょんさんの映画レビュー(感想・評価)
芸術論。そして、哲学?
台詞なしで、役者の表情、風景、音楽で、これだけ堪能させられるなんて。
なんという映画なのか。
当時の風俗にも目が惹きつけられる。
盛装してディナーに集まる人々。
ロッテンマイヤー夫人のような家庭教師同伴での旅行。
うっとりするような帽子には、レースがついていて顔を覆う。虫除けか?
海水浴の風景。水着で、泳ぎや砂遊びに興じる子ども達。
浜辺なのに、三つ組みのスーツ着用で、海風に当たる紳士たち。
浜辺なのに、ドレスにレース付きの帽子、さらに日傘でテントの下で避暑する婦人たち。
男性の化粧があんな白塗りなのに、女性の白塗りは少ない。女性は化粧はしていなかったのか?
結構、日本人のようにペコペコするんだなとちょっと驚き。
新曲の発表会。
DVDについていた解説によると、これで”中流階級の人々”を描いたのだという。
確かに、『山猫』と比べるとと豪勢さは比ではないが。
イタリアの階級の幅広さに唸ってしまう。
中流階級の人々に奉仕する人たちとの差。
さらに、それよりも困窮している人々もいて…。
役者の表情で魅せると書いたが、表情豊かでいろいろな情緒を見せてくれるのは、主人公の教授だけ。
タジオはあまり表情を動かさない。子ども同士で遊ぶ時、同年代の友達とじゃれる時はその年齢らしい表情を見せるのだが。「ギリシャ彫刻のような面差しのある少年を探した」というので、彫刻らしくあまり表情を動かさす演出にしなかったのであろうか。
心傷ついた教授が、親友たちに勧められ、ベニスに一人で静養に来る。
旅につきものの、ぼったくりにもあいそうな状況にイライラしつつも、華やかでホスピタリティのよい環境にワクワクさも隠せず。
そこで見つけたミューズ。
同性愛と言う人もいるが、性愛と言うより、自分の中に眠る何かを活性化させてくれる存在から目が離せなくなったというように見える。
親友との芸術論。教授の持論より、親友の言葉を裏付けるようなタジオ。頭では親友に反論しつつも、心や感性、そして魂は、その存在を否定できない。今までの延長上の存在であれば、一瞥で済むものの、今まで否定してきたものを頭でも受け入れる。そんな時は目が離せなくなる。心と頭が一致するまで。
砂時計の話。
人生の終わりを見据えた恐怖。まだあると思っていた”時”が、もうないと知る恐怖。焦り。教授は、今の感覚から言えば、まだ老境というには早すぎると思うのだが、音楽家としての才能を否定されるような反応、娘の死、「心臓が」という体の不調などから、”死”の予感に怯えていたのか。
静養に来ていても、一人の時間が有り余るほどあるからゆえにか、ちょっとしたきっかけで思い出してしまう過去。体が弱っているときは、たいてい、良かったことより、傷ついた経験を思い出してしまう。思い通りにいかなかったこと。傷つけた思い出。
そこに現れたタジオ。昇りゆく太陽。沈みゆく太陽からすれば、エネルギーを浴びるように、目が離せなくなる。
と、味わい深い映画なのだが、
『山猫』『家族の肖像』の方が好きだ。
『山猫』では、移りゆく時代の流れの中で、自分の置かれた立場をわきまえ、自ら消えていく公爵。新興勢力であり甥とその恋人との対比が見事。
『家族の肖像』では、それまでの価値観を変え、受け入れがたい価値観を受け入れようとする教授。教授の大切にしていたものを踏みにじる輩が好きではないが、主人公である教授の思いは痛いほど共感する。
それらの主人公に比べて、この映画の主人公である教授の生き様が物足りなく感じてしまう。
『山猫』『家族の肖像』の主人公に比べると、この映画の主人公は若い。まだ老境と言うには早い。心臓疾患で亡くなったように私には見えるが、コレラという疫病によって、寿命ではなく、突然の死だからか。
『山猫』では、家族・親族と領地の人々との関係が描かれ、公爵の決断がこうなるのかと理解でき、
『家族の肖像』では、関係ないはずだった店子に思いっきり振り回された挙句の、教授の変化が描かれていたが、
『ベニスに死す』では、タジオとその家族以外にも、親友・妻子、同宿の人々、ベニスで観光業に携わる人々の描写はありつつ、彼らとの絡みで、主人公の教授が変化していくのではなく、ほとんど教授の心の中の変化が綴られているからか。原作ありきなのでしょうがないのだが。
そして、『山猫』も『家族の肖像』も、戦闘場面等は出てきて死を予感させるが、
『ベニスに死す』ほど、死の影が直接的には表現されていないところも、今一つのれないのであろうか。
ラスト。タジオのアポロンを彷彿させるような美しい映像と、教授の有様の差。
わざと?
だからか、後味が良くない。
(原作未読)