「濁流に飲み込まれた人たち」サウダーヂ kkmxさんの映画レビュー(感想・評価)
濁流に飲み込まれた人たち
問答無用、世紀の大傑作。ソフト化されていないのでたまに劇場で上映されまして、俺は今回3回目の鑑賞でした。
本作は地方都市の衰退を、当事者である土方やその妻、ラッパーやブラジル人の群像劇です。
時代に流され、自分自身の力ではどうにもならなくなった人たちの郷愁が、バカらしく無情に、そして何よりも切実に哀しく描かれております。
主人公のひとり、土方のセイジは仕事がどんどん減っており、嫁ともうまくいかない。行きつけのタイパブの女の子・ミャオちゃんにすがるように付き合っている。
セイジの嫁もエステシャンとして生計を立てているが、子どももおらず、どこか満たされない。
ラッパーのアマノは両親が破産し、怒りと不満を抱えて生きており、その矛先がライブでトラブったブラジル人たちに向けられていく。
イベンターで介護士として働くマヒルは、一度東京に逃げたが地元に戻り、絵空事のラブ&ピースを唱えてドラッグに逃げている。
彼らの鬱屈の大きな背景には、地方都市経済の崩壊があると思われます。詳しくわからないけど、以前は地方の小さい商店や職人さんたちは割と保護されていて、その街の中で生計を立てて行けたのです。しかし、自由主義経済がやってきて保護がなくなり、自由入札となると、大手だけが肥えふとり、零細企業はどんどん死んでいくのです。
本作はシャッター商店街やどんどん仕事がなくなっていく土方が描かれてましたが、この辺の事情が影響しており、それゆえ登場人物が安心して地元で生きれないのです。
(直接影響があるのはセイジ夫妻くらいかもしれないけど、間接的には登場人物のほとんどが影響を受けている)
土方は食いっぱぐれない、セイジはその言葉を信じて生きてきました。しかし、現実は違う。時代が変わり、食いっぱぐれ始めたのです。『こうすれば大丈夫』というものがなくなり、どうすればいいかは提示されない。セイジは守るものもなく、タイ人のミャオにすがり、逃避せざるを得なかったのだと思います。
アマノもマヒルも現実がキツすぎる。身も蓋もないですが、安定した社会的地位や収入が約束されやすい、または未来に希望を持ちやすい環境ならば、2人とも(特にアマノは能力もあるし)今とは違う、穏やかな人生を送った可能性が高いです。
濁流。濁流なんですよ、彼らを襲っているものは!とてもじゃないけど抗えないのです。
本作では誰もコミュニケーションを取ることができません。自分のことばっかり。本作での『愛している』という言葉は、『私の不安をごまかすために私の望むような存在でいて』という意味でしかありません。
でも、そんなのしょうがないんですよ!濁流に飲み込まれ、息もできない人が他人なんて思いやれる訳がないのです。本作に出てくる自分中心主義はただただ切実です。もはや、何かにすがるしかない。
愛も夢も空回りで、何ひとつ残っていないのです。
本作の白眉は、クライマックスでセイジが見る幻です。
80年代くらいの商店街。ヤンキーが改造車を走らせ街はお祭り騒ぎ。おそらくセイジが少年時代に見た、そこにはかつて確かにあった風景なのです。
この場面は涙せずにいられなかった!なぜならば俺もその風景を見ていたから。この幻影の場面でかかる曲も、まさにそのとき流れていました。
濁流に飲まれた者は、たとえ生き残ってもその怒りや悲しみは消えないのです。
本作はこれからもたびたび鑑賞せざるを得ない、自分の心の奥底が欲し続けるガーエーなのだの改めて実感しました。