「「007は時代遅れ」...課題の克服に失敗」007 スカイフォール f(unction)さんの映画レビュー(感想・評価)
「007は時代遅れ」...課題の克服に失敗
最新作『ノータイム・トゥー・ダイ』公開を前に、クレイグ主演作を全作品、再鑑賞した。
【総評】「007は時代遅れである」という課題を設定した本作。「いかに新しい007を提案するか」が期待されたが、現代的なジェームズ・ボンド像を構築するのではなく、古風なもののよさを提示するにとどまった。中盤の悪役の登場、物語の展開、アクションギミックにおいては『ダークナイト』に多くを依存したが、テンポの良さや興奮に欠ける。「これまで確立されたボンドの魅力を継承しつつ、現代的諜報戦に落とし込む」ことに成功していない。終盤は過去の反復であり、むしろ後退している。
【あらすじ】NATO諜報部員の氏名が掲載されたリストが奪われた。
リスト奪回のため、ボンドは男を追跡し、格闘するが、味方による誤射で落下。行方不明となる。
狙撃を命じたのは、上官の「M」だった。
一命を取り留めたボンドだが、Mに対し、複雑な感情を抱く。
同じ頃、Mは引退を勧告される。
スパイという諜報のあり方は時代遅れだと、MI6は組織再編を迫られていた。
肉体的・精神的に疲弊したボンドと、時代遅れだと扱われるMを、過去の亡霊が襲う。
Mによって使い捨てにされたと恨む、元MI6部員「シルバ」が、MのPCをハッキング。
MI6のシステム内に侵入し、本部を爆破する。
諜報部員リストを盗ませたのもこの男だった。
最新のハッキング技術を有する、自らの分身と対峙しつつ、ボンドは「ダブルオー」の価値を証明する戦いに臨む。
【ポイント】OLD VS NEW/新VS旧
【解説】「007は時代遅れである」。これは単に、劇中において時代遅れ扱いされているだけではない。映画としての007の危機を表明しているのではないか。
なぜなら、007ほどリアリティに欠けるスパイはいないからだ。
公衆の面前で騒ぎを起こす人物が、隠密・機密重視の諜報活動をできるわけがない。
ジェームズ・ボンドの生態は実際のスパイ活動からかけ離れているが、大画面のアクション・女性とのロマンス・ブランド物の衣類・ワクワクするような車やガジェットによって作り上げられた、「魅力的な男性像」が、これまで観客を満足させてきた。
「007」とは、「強く、モテる、金持ちの男」という理想の男性像を提示する映画だ。
「スパイ」とは、2時間以内の起承転結に都合のよい設定に過ぎなかった。
「本物のスパイを描く必要はない。非日常によって観客を満足させる」。
これが旧来の007のスタンスだった。
伝統的007はむしろ、『インディ・ジョーンズ』のような冒険活劇に近い。
だが21世紀に突入し、スパイ映画の潮流が変わってくる。その象徴が『ボーン・アイデンティティ』(2002) だ。
「ボーン」は、格闘・アクションといった画面映えに比重を割きつつも、より現代的な工作員の姿を提示した。
特に、3作目『ボーン・アルティメイタム』(2008)の前半部、駅での戦闘は、「オペレーション」としての諜報・工作活動をよりリアルに、生き生きと伝えていた。
群衆に溶け込み、現場と作戦室とがリアルタイムに情報伝達しつつ、明確な目的のもとチーム行動する。
非常にカットの多い構成。作戦関係者は膨大な数にのぼり、主人公はその中の一個人に過ぎない。
伝統的007が体現するのは国家を代表するヒーローだが、「ボーン」が描くのは、「いち個人が、現代社会、我々の日常生活の中で、どこいるのか」ということだった。
「アルティメイタム」の舞台は現代NYをはじめとする先進国の都市部。
「非日常」を追い求め、発展途上国や高級ホテルでアクションを繰り広げる「007」とは異なる。
ボーンは、ボンドのように観光をするのではない。都市で生活をする我々の近くに溶け込んでいる。
このような「リアル」なスパイ映画の浸透によって、観客は、スパイ映画をリアリティの観点から評価するようになった。
国家安全保障上、主人公の活動はどこに位置づけられるのか?活動目的は?作戦実行手段は?チームメンバーは?一般人になりすまし、目立たずに作戦遂行できているか?
ネットニュースの話題になるスパイは、「非現実的」だと相手にされない。
これからスパイ映画を作成しようとする人は、ボンドのような派手なスパイを描かない。
スパイ映画に対して問われる「リアリティ」には、また別の種類がある。
『ミュンヘン』(2005) 『裏切りのサーカス』(2010) 『誰よりも狙われた男』(2014)。
これらの作品が、ハッピーエンドでは終わらないスパイ像を提案してきた。
工作員の支払う犠牲を描く作品が、続々と好評を得るようになってきたのだ。
悪役を倒す映画だけではない。主役がモテる映画だけではない。
生活を犠牲にし、危険におかすにもかかわらず報われない人物を描く映画が評価されている。
ヒーローであるはずのバットマンすら、『ダークナイト』(2008)において、スパイ風の「リアリティ」ある自警活動を披露した。その終わり方にも若干の苦味がある。
以上のような「実際の諜報活動を目指し、決してハッピーエンドでは終わらないスパイ像」という要請は、007に対しても向けられる。
シーン1つ1つにつき、「現実的か?」「ありえない、荒唐無稽なものではないか?」という観点から作品が吟味される。
「こんなシーンはありえない」という指摘が、一般人の観客から飛んでくる。
視聴者に夢を見させればいいのではない。憧れの男性像を提示するのでもない。そういった007が要請される。
『スカイフォール』序盤に「007は時代遅れだ」という問いを自ら投げかけ、こういった要請に応えようとしたのではないのか。
「旧VS新」という構造を設け、そういった問いに対して回答するのではないのか。
「現代的ボンド像」の方向性が示されるのではないか。
『スカイフォール』を見ながら自分が期待したのはそういったことだった。
完璧なスパイである必要はない。本物のスパイを描くならば007である必要はない。
だが、これまで蓄積されてきた「007」の魅力を持ちながらも現代的活動を行うボンドが見られるのではないか、と期待したのだ。
序盤でボンドに負傷させ、失踪させ、彼の没落を印象付ける。
MI6の組織改編により、スパイの不要性を主張する。
ボンドにはMへの不信感を抱かせ、内部崩壊を促す。
Qというハイテクエンジニアが、フィジカル頼りのボンドに取って変わろうとする。
悪役の登場が、さらなる追い討ちをかける。
彼の得意とするハッキングが、フィジカル頼みのボンドを否定する。
Qによって使い捨てられたことを恨む彼が、ボンドと同じ立場で、Qへの忠誠心を揺るがす。
スパイ不要論と感情的揺さぶりを以って、007を消そうとする。
このまま007が消えてしまえば、ボンドの人生は終わる。
007の物語は終わり、続編を作ることはなくなる。
だがそれでいいのか。ボンドは戦い、勝ち残るべきではないか。
しかし007はなぜ戦うのか。何のために戦うのか。
観客は、彼の人生がまだ続いて欲しいと願うだろうか。彼の魅力とは何であろうか。
ストーリーテラーが答えを出すべき問いは、以上のようなものだった。
【オチ】ハイテクを駆使する敵に対抗し、ストーリーテラーが用意したのは「アナログなロケーション」だった。
スコットランドの一軒家。
丘陵地帯、孤立する石造りの建造物。
周囲一面が低草と岩に覆われ、ほかに人工物は見当たらない。
この「スカイフォール」がボンドの生家だ。
電気や水道が引かれているのかも定かではない。
もちろんインターネット回線など通じているはずがない。
この家には、ハッキングの対象となるドアやパイプがない。
シルバが得意とするハック能力は、この場所の攻略する役には立たない。
したがって、ここに彼をおびき寄せることができれば、フィジカルな勝負に持ち込むことができる。
この「アナログ」が、ボンドの価値を証明する場所だ。
しかしどうだろう。
「ハイテクに対抗する手段はフィジカル」なのだろうか。
「ハイテクのない場所で、フィジカル勝負に持ち込んだ」に過ぎない。
現代諜報活動の基本に通信があることを踏まえると、通信のない場所で勝ったからといってボンドの価値が証明されるとは思えない。
「生まれた場所に帰る」ことで、原点回帰を意味したのかもしれない。
あるいはボンドにスーツを着せず、一人の男としてその場に立たせることで「今までのボンドのイメージを一旦無に帰す」ことを企図したのかもしれない。
それにより、「ボンドのイメージの再構築がはじまる」ことを意味するのかもしれない。
Mという母親代わりの存在を殺し、新たな人物をMI6の長官に据えることは、「親離れ」「独り立ち」を暗示するものだったのかもしれない。
だが、「これまで構築されてきたボンドのイメージを一旦ゼロに戻す」だとか「ボンドは通信技術に長ける相手に勝利した」と宣言したところで、ボンドは現代的な諜報戦から逃れることはできない。
たまたま通信技術のない未開地で戦闘が行われただけで、今や世界中に通信網が張り巡らされている。
敵地を遠隔操作することも可能であり、何も肉体的に危害を加えるだけが敵を無力化する手段ではない。
個人、ボンドに直接攻撃を加えなくともよいし、組織のレピュテーションを下げればよい。
ボンド側の対抗手段も、そのような、遠隔的で非・物理的な攻撃に対するものだ。
あえて悪役に「ハイテク」を象徴させ、現代的なボンドに仕立て上げるのであれば、対抗手段もまた、「ボーン」風の、通信技術を用いたチーム戦であって欲しかった。
格闘シーンももちろんあっていい。ボンドが担う役割はフィジカルなものでもいい。
何も彼に「Q」のようなiTエンジニアの役割を背負わせろというのでもない。
むしろ役割分担に基づき、多くのチームメンバーが緊密に連絡を取り合い、明確な指揮系統のもとで作戦を実行する姿が見たかった。
今回のボンドは真逆だ。
ボンドとMと老人の3人だけが、役割分担もなく、情報共有もなく、指揮系統もないまま、行き当たりばったりの戦闘を行った。
一切の電子機器を廃した、素朴な抵抗が行われた。
それは爆発を伴うものではあったものの、必ずしも大画面の迫力を活かしたものではなかった。
従来のボンドと異なる。傭兵部隊との攻防でありながら、ミニマルな戦闘だった。
愛車のアストンマーチン「DB5」を最後には破壊し尽くしたのも、「ボンドは変わる」という意思表示であったのかもしれない。
だが結局、続編の、『スカイフォール』に続くサム・メンデス監督作品である『スペクター』は従来的な大迫力のアクションエンターテイメントであったし、『スカイフォール』本編自体も「ゼロに戻そう」という提案をしたのみで、新しいボンド像を展開したわけではない。
MI6の破壊も、新しい基地の設立も、芝居がかった悪役の登場も、一度捕まって脱出する展開も、彼が警官の姿をして逃げる姿も、ボンドの背後から地下鉄の車両が迫り出してくるギミックも、『ダークナイト』をあまりに参考にし過ぎており、しかし失敗している。スリリングなテンポ感、興奮において。
前半部分で「ボンドは時代遅れだ」という設定をしたはいいものの、アジアでのシーンを経て、中盤のロンドンのシーンは『ダークナイト』を参考にした独自性のないものであり、終盤部分は「古風」「素朴さ」「原始性」に回帰するのみであった。
自ら設定した課題を克服することができなかったと言える。
新しいボンド像の提案はなかった。