エッセンシャル・キリング : 映画評論・批評
2011年7月26日更新
2011年7月30日よりシアター・イメージフォーラムにてロードショー
すべてを脱ぎ捨て、存在の神髄までむき出しにして見せるサバイバルアクション
監督イエジー・スコリモフスキは「アンナと過ごした4日間」に続く新作もまた、ポーランドにある自宅周辺の森で撮ろうと考えていたという。そんな折、運転を誤り転覆事故を起こした。CIAの秘密収容施設が云々される場所のすぐそばだった。そういうものがあるのなら中東から移送されたテロリストがここで必死の逃亡を繰り広げることもあるだろう――と、“ありそう感”から構想された一作は、政治色も現実感も潔く脱ぎ捨てて、どこでもないどこかへと踏み込んでいく。
ヘリの俯瞰する白く乾いた大地。それが雪原の白に変わりテロリストらしい男(ビンセント・ギャロ!)のサバイバルがみつめられる。敵兵でも追っ手でもなく飢えと寒さの先にある死こそが男の敵になる。生きるために彼は釣り人の獲物を奪う。まだぴくぴくしている魚を食らう。赤ん坊を抱いた女の乳を横取りする。そうして生きるために彼は殺す。
鮮血が男の白い服を染める。血しぶきが男の頬にぽつりと赤いシミをつける。もう獣、と見える彼の眼差しが陽に輝く赤い木の実の美を掬(すく)う。主観映像の中でその赤は生存本能だけではない人の徴(しるし)、欠片(かけら)の人性のようなものが男にまだあることを思わせる。人と獣。現実と頭の中の景色。生と死。いくつもの境界を従えつつ呻(うめ)き以外、ひと言も発しない男はやがて宗教画の領域へと迷い込むかにも見える。聖母を思わせる青い衣。それを被ったイスラムの女。聖夜。血の購(あがな)い。真新しい雪が世界を清め、青ざめた馬(=死)がぽつりとそこにいる。光。詩。世界。存在の神髄にまでひん剥く監督の静かな力技に見惚れたい。
(川口敦子)