ゴモラ : 映画評論・批評
2011年10月4日更新
2011年10月29日よりシアター・イメージフォーラムほかにてロードショー
巨大団地は世界中のどこにでもあり、ギャングの若者たちは私たち自身なのだ
それが現実であろうとフィクションであろうと、もはやどちらでもいい。事実ではなく真実がそこにあるのだと言ってしまえば確かにそうなのだけど、それでおしまいにしてしまうにはあまりに現実的で身体的な肌触りが、映画を覆う。
イタリア南部の荒廃した巨大団地。対立する組織が抗争を繰り広げるそこでは、当然のように人々の欲望や野心や思惑が入り乱れ、それ自体が団地の風景を作り出しているかのようだ。監督もそれを見ているのか映画がそれを作り出しているのか、とにかくそこに映るひとつひとつのものや部屋やシャツやズボンやタトゥーや瞳や髪の毛それぞれに、その団地を作る欲望の渦が貼り付いているように見えるのだ。渦が作り出すあまりに現実的で身体的な空間、と言ったらいいだろうか。
たとえば私たちの身体の根本にある、激しく運動する素粒子の渦は普段は全く意識されない。しかし私たちは常にその激しい運動の結果として生きている。ひとつの個体として安定している私たちの身体の細部におけるその激しさが、つまり生きて行くということの根源的な運動が、この映画では荒廃した団地という空間とともに捉えられているようなのだ。だからその痛みこそ、現実だと言っていいだろう。巨大団地は世界中のどこにでもあり、ギャングの若者たちは私たち自身なのだ。そこから目を背けることはできない。
(樋口泰人)