ラビット・ホール : 映画評論・批評
2011年11月1日更新
2011年11月5日よりTOHOシネマズシャンテ、ヒューマントラストシネマ渋谷ほかにてロードショー
深刻さの縁にまぎれ込む笑いに生きることの真正さが匂い立つ
幼子を亡くした夫婦の痛みと向き合う舞台劇が原作。だが、悲しさや苦しさを押し売りする熱苦しい台詞や演技はここにない。唐突にうさぎの穴/別世界にはまったような人の姿に目をすえて映画は悲嘆も怒りも混乱もあくまで繊細に掬う。深刻さの縁にまぎれ込む笑いに生きることの真正さが匂い立つ。
とりわけ活写されるのが悲劇を取り巻く娘と母、姉と妹の微妙な心のドラマだ。
悲しみを見せようとしない完璧主義のヒロインは妊娠した妹に遺児の服を贈ると実家を訪れる。母や妹の気遣いを尻目に、子供の服代もバカにならないから、きっと感謝するわよと言葉の端々に優越感が滲む。長屋もどきの母の家。だらしなく散らかったキッチン。問題児の妹の素行。細々とした描写の積み重ねからどこまでも対照的な理想の家庭を勝ち取ろうと闘っていた筈のヒロインの過去、悲しい野心がゆっくりと透けて見えてくる。だからこそ、麻薬で死んだ兄と同一視して「共に息子を失ったのだ」と母がかける慰めの言葉が癪にさわる。自分は違うと尊大な娘がしかし、お手製のパンやケーキを焼く母の姿をあまりに自然に受け継いでいる涙ぐましさ、微笑ましさ。そんな娘と母が光の中で変わらぬ喪失の心を解け合わせるまでに要る時間。
あるいは愛犬を追って飛び出してきた幼児を轢いた一瞬で一生分の罪の意識を背負うはめに陥った加害者/被害者の少年とヒロインが“うさぎの穴”の境地を誰よりも共有する瞬間。それを映画は風の中に美しく解き放ち悲劇の人生の別バージョンの可能性をそっと思わせる。そうして導き出される仮想のハッピーエンド。映画の眼が拾い上げた一つ一つの時空がじわじわと後追い効果を発揮して、人の生きる小さな世界の深みを映している。
(川口敦子)