キツツキと雨のレビュー・感想・評価
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雨降って地固まるラストは映画を愛するすべての人への讃歌
タイトルの意は、キツツキを木こりに置き換えて映画を最後まで観れば分かる。
木こりの克彦が気弱な幸一を何かと気に掛けるのは、同じ年頃で仕事に就かず家でごろごろしている息子に比べ、ひとつのことに打ち込もうとする幸一を放って置けなかったのだろう。
人見知りする幸一も、何かと世話を焼いてくれる克彦に心を開いていくが、それを温泉を使って表現する演出が面白い。
映画の中で撮ろうとしている脚本は三流で面白そうもない。おまけに若くて優柔不断な監督に、周りの年上のスタッフはやる気を無くしてしまっている。それどころかバカにした言動が多い。仕事だから仕方なくやっているという空気が蔓延している。
それでも彼らはプロだ。本当はいい仕事がしたいのだ。
克彦が先導して山村の人々が協力し始めたお陰で、少しでも良い画(え)が撮れると分かると、眼の色が変わり和やかな空気があたりを包み込む。
にわかに、撮影中の映画が活気づき、撮影隊や村人それぞれのキャラが立ってくるから、つくづく映画というのはマン・パワーなのだなと思う。
まさに雨降って地固まるラストは、映画を愛するすべての人たちへの讃歌だ。
と同時に、将来に希望を失いつつある若者に対し、ひとつのことに打ち込むことの素晴らしさを唱えた応援歌でもある。
少ない出番で、作品に一本、筋を通した山崎努はさすが。
木こりを演じた役所、伊武雅刀らがそれらしく見えて、けっこう時間を掛けて重機の特訓やリハーサルをしたのであろう。
そして、いきなりゾンビ顔になった役所のアップには大笑い。
沖田監督も小栗監督もみんなこんな感じで苦労したのかとニタリとする作品でした。
タイトルは、きっと撮影の障害となるキツツキ(木こりが木を切る音)と天候を表しているのだろうと思います
。余計な音を立てるキツツキも、止められない雨も、撮影の大敵。それは、主人公の自信を失っていた新人監督にとって、あらゆる障害がプレッシャーとなって押し寄せてくる感覚を言い表したものだと思えました。
若い映画監督と初老の木こりが、年齢も環境も超えて結ばれる絆を、さりげないエピソードの積み重ねで描写した押し付けがましさのない人間ドラマ。その和気藹々とした雰囲気は、前作でも感じられました。人間関係のおかしみに、優しいまなざしを向けたところに、とても好感を感じたものでした。きっと沖田監督が作る現場の空気感が素晴らしく、スタッフや出演者と一体となって作り上げた作品なのでしょう。
本作で登場する若手監督とは真逆に思えるようにも思えます。でも前作でプロデビューを飾ったとき、きっと沖田監督にも、こんなプレッシャーを抱えていたのだろうと思うと、思わずニタッとしたり顔になってしまいました。
じんわり感動させられる人間ドラマとして、よく錬られた作品です。前作よりも一段とユニークな人間描写に磨きがかかったといえるでしょう。映画好きな方には特にお勧めしたいですね。
奥深い山間の村で山林の伐採を生業として暮らす克彦(役所広司)は、今年で60歳。妻に先立たれ、息子の浩一と2人暮らしだが、定職につかないニートの息子に苛立っていました。そんなある日、克彦は映画の撮影隊と出会い、なりゆきから彼らが撮影中のゾンビ映画に出演することになってしまいます。
ゾンビ映画の撮影現場は、いかにも楽しそう。監督の掛け声で、談笑していた俳優がゾンビになりきり、まさに映画の一場面が眼前に繰り広げられます。大勢のエキストラ、俳優の動きを追うカメラマン。山間の村での撮影風景がユーモラスに描かれます。だから最初はいぶかしげだった映画のことなど全く知らない克彦が、いつの間にかスタッフの一員となって、協力しているのも納得できる展開でした。
克彦は、仕事を止められ、周辺の案内役をさせられ、揚げ句にエキストラで出演。迷惑がっていたものの、自分が写った場面を見るとがぜん張り切り出し、先頭に立って撮影現場を仕切り始めたのです。
しかし、楽しそうに見えるのは、あくまではたから見ているからですね。 スタッフはロケ場所やエキストラを探すのに走り回り、俳優はテストを繰り返す。一切の責任を負わされる、弱冠25歳の監督、幸一(小栗旬)の苦労は言わずもがな。台本を手にうーんと悩み、スタッフや俳優に指示を出せず、彼らの注文に困惑するばかり。
そんな若い監督の姿に共感できるのは、誰もが経験しうるはずのものだから。自分の周囲のことにしか関心がなく、他人との共同作業を嫌うような、今風の若者なら、なおさらのことでしょう。映画の撮影現場というと特殊な場所のようだが、夢見た仕事と現実とのギャップに苦しむ若者は、どこにでもいそうですね。
幸一はプレッシャーから現場を逃げ出そうとします。克彦はそんな幸一を励まし、台本確認に付き合うようになります。克彦と幸一の2人の関係は、疑似親子ともいえるでしょう。
そんな2人の距離が縮まっていくのを、セリフでなく絵で見せるのが面白いところ。日帰り温泉の浴場でのふたりの距離が雄弁に物語ってくれます。離れて湯につかっていた2人でした。当初は、撮影のことに触れられてたくない幸一に、湯船の中で体を浮かせながら、ひたひたとと克彦がすり寄っていくのです。ところが、幸一が次第に克彦に頼り出すと、今度は克彦があまり頼られたくないとひたひたと距離を開けようとするのですね。
のりを食べながら、将棋をさす場面は、食堂で向きあってあんみつを食べる場面につながります。監督の演出は、鳴り物入りの事件を起こすことなく、克彦のとる何気ないふれあいで、ふたりの親密度を紡いでいくのでした。そんな場面ごとに、沖田監督ならではのユーモアを漂わせ、楽しませてくれました。
幸一が少し成長するように、幸一に手を差し伸べる克彦も、こころを開き変化していくのでした。定職につかない自分の息子(高良健吾)を見放した克彦は、やりたいことをやろうとしている幸一に共鳴します。その表れは、幸一が実家の旅館をつがずに映画監督になったことで父親を悲しませたと言えば、克彦はその逆だと諭すところに如実に出ていました。克彦の思いは、三回忌の席で息子の浩一を心配する親戚への怒りに表されます。克彦は幸一の悩みを通して浩一の気持ちも分かるように変わっていくのです。
克彦も心を開いていく。上から下への押しつけでなく、双方が変わっていくのが、理想的な親子のように見え、ほほ笑ましい。
やがて村を挙げて撮影に協力し、撮影は佳境を迎えていきます。
特に木こり役の役所広司がいい味を出して盛り上げています。山本五十六を演じた同一人物とは思えない変わりよう。自らも高い木に登って作業する姿は、木こりそのものなんですね。例えば、山林で伐採する克彦が撮影隊に出会うシーンで、音を立てないように要求されると、克彦は「え!」「え!」と何度も間を空けて繰り返すなど、木訥な滑稽味を漂わせていました。
監督経験もある小栗も、当初脚本を読んだとき「いくら何でもできなさすぎじゃないか」と思ったそうです。しかし、実際に、幸一を演じていくうちに、「プレッシャーと責任で、押しっぶされそうな感じ」に共感できるようになったと新聞のインタビューに答えていました。
沖田監督と小栗が考えた幸一像とは、こんな感じで意思統一できたそうです。
『映画を自主制作していて、たまたま短編映画のコンテストに出品したら、グランプリを受賞。』
『突然、プロデューサーに「ちゃんと映画を撮ってみろ」と言われ、監督になったものの、それまでの友達感覚が通じず、知らないスタッフの中で身動きがとれない。』
…「いきなり、プロの現場にきたら、こうなるだろうな」とふたりでうなずきあったそうです。
悩む浩一に小栗の新米監督しての経験もオーバーラップして見てしまいました。2年前に「シュアリー・サムデイ」は本人も言ってるけれど、気張りすぎて、余裕のない作品になってしまいました。全部自分で何とかしないとという焦りが出てしまっていたのですね。まるで幸一のように、『雨が降ればいい』と祈る毎日だったというのです。今となっては人間なんだから、悩んでいいのにと振り返る小栗ですが、幸一を演じて、その思いも強くしたことでしょう。次の小栗監督作品にも期待したいところです。
撮影現場の舞台裏モノは、ハズレが少ないもの。映画のためだけに集まった人々が、予期せぬ障害をどうにか乗り越えていく。しかし完成したら散り散りだ。その熱気とはかなさが、ドラマを生みやすいテーマなのでしょう。ただ本作は、それを超える映画愛に包まれた作品でした。
本作で描かれるように、優秀なスタッフに頼れる部分は頼って、その上で、監督のやりたいことを提示できればいい。そうすれば、もっと映画作りって面白くなるんじゃないか。そんな映画製作に携わる人たちに、ドンマイとエールを送っているところにも好感を持ちました。
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