わが母の記のレビュー・感想・評価
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見事な演技で魅せる
総合70点 ( ストーリー:65点|キャスト:85点|演出:80点|ビジュアル:70点|音楽:70点 )
井上靖の自伝的小説の映画化だそうで、彼の家庭人としての人柄に加えて、複雑な家庭環境の少年期の出来事とそこからくる彼の屈折した感情が垣間見れて興味深かった。
特別大きな物語ではない。昔のことならこのような親子関係なんてどこにでもあっただろうし、井上靖が小説家だったからこそこのくらいの話でも物語として成立したのだろう。だがこの作品の見所は登場人物の演技だった。樹木希林・役所広司・宮崎あおいの親子三代の、単純に家族愛の溢れているとは言えない一筋縄でいかない関係と感情を見事に演じていた。子供を手放したという悔い・家族に捨てられたという思いと互いに頑固な父娘が地道にぶつかりあう。小説家として大成した後でも、少年時代の心の傷が消えずにいる。時の経過とともに母への想いが変化していく過程が、一つ間違えば退屈なだけの話も役者の力によって上手に表現されている。派手さを避け物語を淡々と進行させ音楽の使用も最小限に抑えた演出も、地味だけどこの作品には合っていると思う。
和解
命が消える前に握った手は、暖かかったのか。
東京へ戻る際、寝たきりの父親が枕元で挨拶する井上に手を伸ばしてきて、その手を握った井上。大作家になった井上を褒める為に手を伸ばしたのか、それとも何か違う言いたいことがあったのか。その東京に帰った日に父は死に、もう判明することのない謎です。
父の死の知らせを聞いて、何となくの喪失感と共に吹き消した明かり。明かりを覆い息を吹く。かざした手に感じた仄かな暖かさは、人肌を思い浮かべることができるほど似通っていた。非常に文学的です。良いシーンだと思います。
『自分が捨てられた』と根強く持っていた母とのわだかまりも、母が過去を忘れていくことで何となく解消される。年月の経過で、母への態度も軟化していきます。それだけではなく、過去を忘れて耄碌していく母は自分の記憶のガードを緩めていき、はっきりした意識では決して言わなかっただろう事を口に出す。長年のわだかまりや不満も一気に氷解し、涙する。理想的な和解。こんなことが現実にあるなら……苦労しません!!ですが、現実にあったことなんでしょうね……
惚けが良い方に向かった例です。悪い方へ向かった例が沢山ある中で燦然とかがやく一例。
かつての家長を支える家族という像が劇中ずっと続きます。玄関まで妻が帰りを迎える、着替えを手伝う、などのシーンは今にないことです。時代が進むにつれて、そんなシーンも無くなっていくのが時代の変遷を感じさせます。最後のシーンでは一人で着物を着ていましたし。そういうところが映画として上手い。
井上は結構気難しい男のようです。しかし、子供のことも気にかけて「大きな声出してないだろ!」→「大きな声出してすまなかった」と謝るシーンは理不尽ではない父親像を描き出していていいですね。
次女がハワイに洋行、というシーン。いやあ、さすがに金あるなあ、と下衆い感想を抱きました。そりゃあ、ベストセラー作家ですもんね。あの時代にハワイに留学する娘(!)の為、一家でついて行き(!)、船の出港時刻に遅れそうな者には飛行機で来ればいい(!)なんて、セレブです。
シーン上ちょっと粗いと思ったのは三女琴子が運転手に告白するシーン。小説にこのシーンがあるのなら、やっぱりそのことをしった井上が後ほど想像で書いたシーンだからか少し唐突。映画だけのシーンなら、それまでのエピソードが小説準拠だったため、粗が目立つのか。
不器用な親子愛
井上靖の後期の自伝的作品の映画化である。だから井上靖の作品を読んでいなかったり、’60年代の日本の雰囲気を知らなかったりすると厳しいかもしれない。だが私にはこの映画は素晴らしいと思えた。
小説「しろばんば」などでも描かれているとおり、洪作は両親に対して複雑な感情を描いており、初老となったころでもそれを引きずっていることが序盤から判明する。雨がしとしとと降る中雨宿りをする母親と子供時代の洪作。反対側にいる母親が洪作の元に来てあるものを渡す。子供の頃の話自体は描かれないが、このシーンはとても重要だ。屈折した親子の愛情がここに込められている。
しかしその後のシーンからは一転して、初老の伊上洪作とその家族の生活が繰り広げられる。これらの場面を支えているのは間違いなく主演である役所広司と母親役の樹木希林であろう。認知症の老人を演じさせたら樹木希林の右に出るものはいない。確信犯なのか本当にぼけているのか、相手をいらつかせる寸前の笑いだ。このスレスレのユーモアが作品の全体を担っていると言っても過言ではない。そしてなんといっても役所広司。微妙に家父長制の残る家で厳しくもありながら、家族を思う優しさは誰よりも強い父親に成り切っている。特に娘達や女兄弟、母親といった家族との掛け合いは見物だ。言葉の端々にあるささくれだった感情で時には互いを傷つけるが、それでも親子の愛情は消えない。
問題点がないわけではない。井上靖という文豪が書いたものを原作としているためか、一つの台詞に色々と詰め込みすぎている。それが顕著に表れるのはラストシーンだ。もっとも泣けるシーンのはずなのに、洪作が自らの内面を語ってしまうことで感動が逆に薄れてしまった。映画はあくまで映画であることを意識するべきだった。
しかし感動できないかというと、そんなことは全くない。一つは洪作が昔書いた詩を、記憶を失いつつある母親が読む場面。目の焦点も定まらず無心に読んでいる母親に対して、当の洪作は思わず涙を流す。母親が息子を愛していたことの何よりの証拠だからだ。そして洪作が母を背負う海辺のシーン。親子が完全に和解し、洪作が心の底から母親を愛することが出来た。これほどまでに感動的な親子愛のシーンはなかなか無い。久々に映画で泣いてしまった。
素晴らしい映像、セット、役者、そして脚本に恵まれたことでまれに見る名作が完成した。記憶を失っても愛情は消えないのだ。
(2012年5月12日鑑賞)
押しが強くないからウルってしてしまう。
おばあちゃんは、息子さんを郷里に置き去りにしたんですよね
「映画「わが母の記」(原田眞人監督)から。
映画ファンとしては贅沢なことに、ロケ地があまりに身近すぎて、
「えっ? ここ、湯ヶ島じゃない、中伊豆のあそこかな」とか
「あっ、この場所、行ったことある」「この伊豆弁、変だろう?」・・
いつもと違った映画鑑賞の視点に、やや違和感を感じながら観終わった。
帰宅して、暗闇の中でメモした手帳を整理していたら、
主人公のほんの小さな心の変化(これも違和感)に気付いた。
役所広司さん演じる、主人公・伊上洪作が、
樹木希林さん演じる、母・八重に語りかける呼び方である。
冒頭「おふくろ」(「お母さん」)と呼んでいたのに、
作品のある場面から「おばあちゃん」に呼びかけるようになる。
私が、普段、何気なく母親に声を掛ける時、(特にふたりの時は・・)
「おふくろ」とか「お母さん」と口にしても「おばあちゃん」とは言わない。
それこそ、違和感があるから。(息子にしかわからない感覚かも)
だから「祖母」という意味の「おばあちゃん」ではなく、悲しいけれど
単なる「高齢者の女性」という意味の「おばあちゃん」として使い、
それでも一所懸命に話しかけている姿に、心が震え、涙腺が緩んだ。
自分の母親が記憶をなくしていき、息子のことも忘れてしまう現実、
それをどう受け止めて、周りの家族に悟られないように、
母への想いを持ち続けていくか、大きなテーマであった気がする。
孫が祖母を「おばあちゃん」と呼ぶ感覚とはちょっと違う、
息子が母を「おばあちゃん」と呼ぶ感覚は、心が痛む。
いつまでも「おふくろ」(「お母さん」)と声を掛けたいものである。
無農薬野菜のような映画やねぇ
翌日が母の日だったのと、私が介護福祉士だという理由が無ければ観賞欲求が湧いてこない映画である。
案の定、可もなく不可も無いホームドラマだった。
痴呆が進みどんどん判断力が混乱していく老婆の心中を表現した樹木希林の描写力に圧倒されたが、全体的には、それ以上でも、それ以下でもない。
無農薬野菜みたいな映画やと評しても良いだろう。
それは、井上自身が既に大ベストセラー作家となり、経済的にも人間的にも裕福な環境やからやと思う。
いざ老婆を引き取る際、療養先としてリゾート別荘に招く時点で、一般人とかけ離れている。
老いた両親の奇行に振り回される別荘の無い我々は、どこに招けば良いのだ?と一気に冷めた。
介護に一生懸命なのは、息子の役所広司より、孫娘の宮崎あおい達やったし。
幼少期に母に捨てられたと思い込んでいるとはいえ、他人ごとのような感覚を感じ、殆ど感動できなかった。
まあ、母へ感謝せなぁあかんなと実感させてくれただけでも収穫なんかな。
帰りにプレゼントは何にしようか迷いながら、最後に短歌を一首
『崩れゆく 絆の在処 背負う道 捨てられてこそ したためる愛』
by全竜
余裕と悪態。
個人的に自分には兄がいて、さらには息子がいるせいか、
母親から息子への愛。は自分自身でよ~く分かっている^^;
(もう少し言うと、息子が母親命!になるのも)
なので冒頭の、母親と主人公の雨の別れ。のエピソードが
(これが彼には相当のトラウマだったのだろうけど)
まさか、母親が息子を捨てたりするワケないだろーが!と
そこに何らかの理由(これもほぼ予想通り)があると思った。
でもねぇ、子供にそんなこと分かるはずがないのだ。
小さい頃の、その鮮明な記憶だけが、彼をずっと苦しめた。
では母親の方は、どうだったのだろうか。
主人公が聞きたくて仕方なかったその真相は、
意外な所で、さらに意外な人物によって、明かされる…。
本作のテーマは、そこなんだと思っていた。
母親が認知症を患いながら、その真実を語り、主人公が号泣
するシーンを期待していた私は(号泣はしてたが)、その場面の
意外な淡白さに驚いた(もちろん感動はしたけれど…)
井上靖の自伝的小説の映画化、さすがに文学作品とあって
監督が原田眞人だというのに(爆)インテリ度がバリバリで^^;
知的で崇高な会話が飛び交う、飛び交う。かといって嫌味な
シーンが多いわけではなく、凄いな~この家。とか、わぁ~
別荘だ。とか、何しろ井上靖だから^^;当たり前のように豪華。
これだけ裕福だから介護もできたんだろう(それは、あるぞ)と
やっかみのひとつも出てきそうになるが、でもそれは本当だ。
介護の大変さ(程度にも因ろうが)は、経済的にも精神的にも
ある程度のゆとりがなければ、看ている方が先に参ってしまう。
今作でも兄妹の多さ、使用人を始め手助けする人達の多さが
格段に現在とは違う。たった一人の子供がたったひとりの親と
向き合って介護をするのは、立場を変えると子育て中に起こる
育児ノイローゼと同じである。立場を分かち合う人がいたから
なんとかその苦境を乗り越えられた、という経験は多いものだ。
赤ちゃんにしても老親にしても、憎むべき存在ではないのに
(むしろその逆なのに)悲しいかな、精神的疲労は愛情を裏返し
してしまうものだから辛い。今作では優しい孫(宮崎あおい)が
祖母の世話をかって出るが、やがて彼女に精神的疲労が溜まり
爆発するところがとてもリアルだった(立ち直りが早すぎるけど)
まぁこれが、家族なんだな…と思うのだが。
自分を捨てたはずの母親をどうしても切り捨てられない。
愛されたくて、抱きしめてもらいたくて、仕方なかったのだろう。
憎む気持ちと愛を乞う気持ちが入り混じる息子の苦悩を、彼は
小説の中で昇華させていた。その小説を書かせる意欲を与えた
トラウマの謎が、実は母親以外の人物からも明かされなかった、
という二段構えのオチがすごい。才能は、その人物を取り巻く
人々が開花させるものだということをあからさまに描いている。
冒頭で妹たちが口々に云う、お兄さんは幸せだったわよ~!は
本当だと思った。幸せですよ、伊上洪作さん。貴方は本当に…。
個人的に重なった部分は、まだあった。
私の父親は小さい頃奉仕に出されたり、兄弟は養子に貰われたり
していったそうだ。貧乏と裕福の違いがあっても離されたわけだ。
しかし子供時分の想い出というのはどうしてこう鮮明なのだろう。
その頃に親の愛情いっぱいに受けて育った子供たちが、成人して
多くの人に愛情を与えられることが本来は望ましいのだろうな。。
今作に登場する家族に悪人はおらず(当たり前か^^;)そこへ飄々と
悪態をつく祖母の姿がやけにおかしい。心に余裕があるというのは
こういうことなのだ。苦笑いも幸福のひとつの象徴かもしれない。
(樹木希林は、まんまの演技^^;絶妙な素を持っているのが羨ましい)
む~ん、
皆さん、こんにちは(いま5月7日pm2:15頃です)
自分でチケットを買って見に行こうとは思わなかった。
ある人にもらったからみたんだけど・・・
見に行く前日、日経の映画評を見たら満点だった。
小津安二郎の世界にも似て、すばらしいって。
よくは知らないけど、小津作品はストーリーは淡々としているけど、
その画面づくり、絵づくり、構図には聖なるものが宿っていると
いったひとがいる(ヴェン・ヴェンダーズ監督だったと思う)
①ストーリー
②配役、演技
③映像、音楽
これが映画の3大要素だと思っているんだけど、
僕は初めて「構図」というものに着目してみようと思ったのだ。
でも、初めのうちは「画面の構図」を見ていたのだが、
(確かにおもしろい画面構成があったのも確か)
だんだん、その意識も薄れていってしまった。
やっぱり、物語に目がいっちゃうんだよね。
この映画、ストーリーに大きな変化はないんだけど、
ごくありふれた日常的な世界が淡々と描かれている。
みんないい人。だけど、機嫌の悪いときは誰にもある。
機嫌が悪い同士が接触すれば、ちょっとした火は起きるみたいな。
まして、その日常性を失って、非論理的な世界へ行ってしまいそうな
母を相手にすればなおさらだ。
役所さんも、希林さんもうまいと思ったけど、ほんとに存在感がある
と思ったのは宮崎あおいでしたね。
それも、うちに帰って自動車のCMを見たときそう感じたのだった。
それでなにがいいたいのか?
結論を出そう。
①ストーリー 8
②配役・演技 9
③映像・構図 9
小津監督のように特出すべきものはなかったように思うが、
すべて平均点以上といったところのような気がする。
泣けたけど
映像はキレイで、シナリオも演出も創りも悪くなかったけど……。
役所さんの「昭和っぽい」父親像、樹木希林さんの「そのまんま」のボケ老人像が、僕はウソ臭くてダメでした。
昭和の父親はもっともっと家族を顧みないことを「正当化」していたはず。妙に優しいところが作品を矮小化していた。「昭和の厳格な父」を演じているはずが「よくあるただの中年俳優」に見えてしまった。
仕事中心の考えは当たり前だと「家族を顧みない父」でいなければ、この話はドラマが小さくなってしまう。確かにエピソードでは描写されている、つまりそのシーンはあるのだが「佇まい自体」が全然厳格でなかった。
役所さんはいまは空回りする「ダイワマン」のキャラが一番合っている。
樹木希林さんは、リアルにやればやるほどフジフィルムの「綾小路さん」に見えてしまう。ボケる前までは楽しく見れたのだが、ボケてからはただのギャグ。40年近く前の「寺内貫太郎一家」から一貫して演じているキャラをやっているだけ。
この役、草笛光子さんとかがされたら、どんなに素敵な作品になったろうかと思う。樹木希林さんにはもう「ボケ老人」はやってほしくない。本人がそうであるように「スーパーおばあちゃん」を演じて欲しい。
一時の中井貴一さんもどんなシリアスな映画に出ても「ミキプルーンの人」、または「JCBのたぬきとカッパの友達」に見えて作品をぶちこわしていたように、役者がCMで「固定キャラ」を演じるのは、特にコミカルな場合、自殺行為だと思う。
ハリウッド俳優は本国では絶対にやらないからね。その分、日本とかでCMでて稼いでいるけど。
他の役者さんと、「昭和の世界」の作り込みはすごく良かった。
日本でこういう作品を成立させるには、やはりキャスティングに凝らないとダメでしょうね。でも「人気優先」でないとやはり客入らないだろうけど。
長塚京三さんとか斉藤洋介さんとかと、草笛さんか吉行和子さんで観てみたかったな。
親の心子知らず 子の心親知らず
親の心、子知らず
昭和真っ只中の夫であり父親として洪作は、当時としては普通にワンマンだ。作家志望の若者をさっさと運転手として雇い、妻に「それでは車を買わなければ」と言われれば、「もう買った」と事も無げに言う。万事がそんな具合だ。
洪作には3人の娘がいて、一番下の琴子だけは横暴な父親に反発する。まず、この二人が巻き起こす波風が親子とは?という疑問にひとつの筋道を形成していく。ことごとく反目し合いながら、実はこの二人、頑固で自分の考えを貫く似た者同士なのだ。
一見、横暴にも見える洪作にも、親と子の関係で拭い切れない苦い思い出がある。幼いとき、母は二人の妹だけを連れて、自分だけ知らない女のところに置いていかれたのだ。母に捨てられたという想いが、ずっとしこりとなっている。
それでいて、母から別れ際に渡されたお守りは今も大事に身に着けたままだ。本人は自覚していないだろうが、母親に対するコンプレックスは相当に強いものがある。
母・八重は何かにつけ「あの女に預けたのは一生の不覚だった」と言い出す。洪作を預けた相手を嫌悪した言い方だが、“あの女”が憎いのではない。裏を返せば、息子を手放してしまった自分を嫌悪しているのだ。自分が知らない息子の8年を知る女への嫉妬がある。
洪作と母は、いわばコンプレックスとコンプレックスがぶつかり合ったまま人生を歩んできたことになる。
ついに洪作は「息子さんを郷里に置き去りにしたんですよね」と問いつめるのだが、このあと八重の口から出る言葉に、洪作は数十年もの時の流れを一気に遡る。堰を切ったように溢れる涙が、長く遠かった母との距離を詰める水路のようだ。
親と子とは、ちょっとしたことが深い溝になるが、その溝を埋める手立てはなかなか探り当てられないものだと、つくづく思う。探り当てられた洪作は幸せだ。
役所広司も巧いが、樹木希林の演技を超越した表情、仕草、語り、この人の右に出る役者はいないだろう。
硬派な作品が多い原田眞人監督だが、今作では女性的な視点で語られるシーンが多く、感性に豊かな幅の広さを感じる。
芦澤明子の撮影による映像は、デジタルによる上映にもかかわらず、落ち着いた色調に抑えられ、奥行きもあり、どのカットも美しい。
呆けても母は母
絶品でございます。
記憶を失っているようで、すべてを見透かしているような八重を、すごみとユーモアをもって体現した樹木の演技が圧巻です。
試写は早く半年前に見ました。
当時は「キツツキと木こり」の公開直前で役所広司主演の試写が続いた格好となったのです。だから役所広司の木こりのオヤジから大作家への変貌ぶりが驚きでした。
本作は古き良き昭和の家族の物語。井上靖の自伝的小説の映画化で、ロケ地にも井上靖の生前の書斎が使われているなど、リアルティにこだわって撮られていました。
これが松竹映画となると名匠小津安二郎の映画を連想せずにはいられません。実際に原田真人監督は随所に小津安二郎映画へオマージュがささげたシーンを盛り込んだそうです。
本作のポイントは、幼い頃に曽祖父の愛人に預けられた主人公の洪作は、母親八重に捨てられたという意識を持ち続けているところ。それを問い詰めたくとも、八重は認知症が進み、答えてくれません。その捨てられた思いは、洪作の家族を顧みない身勝手な行動に繋がり、妻や娘たちから総スカンを喰らって、孤独な日々を過ごしていたのでした。
洪作と八重の周囲に、洪作の妻と2人の妹、3人の娘という大家族。そんな大勢の家族との思いを交錯させる中に、家族の確執と真情も浮き上がります。ただその根っこにあるのは洪作が母親から捨てられた思いと同根ではなかろうか窺えました。そんな家族ものらしからぬえぐい台詞の応酬を見せる、濃い中身を原田監督は巧みに、重くならずにつないでいきます。特に妻や娘たちの女としてのしたたかさやたくましさがさりげなく描かれているところが特筆できます。そんな中で根底に見え隠れしてくるのは、深い愛情。
前半は登場人物の説明のような台詞や家族の何気ない会話の応酬が続き、いささか退屈しました。でも洪作と八重の過去が明かされていく後半は、親子の絆の深さを見せ付けられて、涙を禁じ得ない感動に包まれていったのです。
物語は、夫を亡くした八重が、息子の洪作や娘、孫たちと暮らすことになるところから始まります。高齢のため、認知症の症状が進み、とっくに送った誕生祝いを「まだ送っていない」と言い張ったり、娘をお手伝いさん呼ばわりしたり。徘徊も目立つようになり、一家は八重の言動に振り回されるようになります。でも洪作の
一家は年寄りを決してのけ者扱いすることなく、むしろ温かく見守っていこうとしているところにとても好感を持てました。
。
記憶を失っているようで、すべてを見透かしているような八重を、すごみとユーモアをもって体現した樹木の演技が圧巻です。
樹木の演技は抑制されているとはいえ、表情豊かで動作も活発。本当にボケているのかなぁ~、ボケているふりをしているだけなのかな~とどっちともとれる絶妙な演技で笑いにして誤魔化されてしまうのですね。まるでやんちゃな子どもが素知らぬふりをしているかのような表情は絶品です。小津映画の人物とは異なるキャラでもはや樹木の作り出した空気感にどっぷり作品がはまり込んでしまったといっていいくらいなんです。
終盤、記憶を失っていく八重の中にも、大事なものが残されていたことが分かります。次第に物語の核心である洪作は幼い時になぜ捨てられたのかその真相に近づいていきます。でも前途したように八重はそのことさえ、忘れてしまったようなのです。
あるきっかけで八重が行方不明になったとき、洪作はとっさの判断で、八重の母親としての思いの宿る場所へ向かいます。そしてそこに佇んでいた八重に長年聞き出そうとしたことを尋ねるのです。
このとき八重がとつとつと口にする言葉は、予期せぬ言葉でした。その一言に洪作は驚きを隠せなかったようですが、見ている方もはっとしました。
惚けてはいても、八重のこころの消すことができない母の情の表出が宿っていたのです。親とはこういうものなのだ、と感じ入るしかないシーンでした。
このシーンによって、洪作の記憶は八重の声によって蘇っていきます。それに応えるかのように、背負われた洪作の背中の感触によって、八重の母親としての感情が蘇って、一筋の涙として描かれます。
まことに親子の絆としての記憶は、長年の風雪を超えて、一度は忘却してしまったとしても、僅かなきっかけさえあれば鮮明に蘇り、深い感銘をもたらすことを思い起こさせてくれた作品でした。
また特に確執の深かった琴子と洪作が親子の絆を取り戻していくところも良かったです。琴子役は宮崎あおい。やっぱり彼女が出演していると華が出ますね。
老いるということ
母と息子の絆を通して
母親の老後をいろいろな意味で見つめていく映画
そんな母親はボケて奇行を繰り返す訳だが、、、
人は誰でも老いていく
さらに、本作品に描かれたように認知症を誘発する場合も多々ある
でも本作のそこには、老人看護によくある憂鬱感や絶望感は一切なく
家族の生活の中でみんなで看取るという姿がただただ描かれていて。。。
もちろんその家族それぞれにおかれる環境や状況は多々あるが
親の老後の面倒をみるということは「こういうことだ」と強く感じた
なにも憂うことはない、なにも心配することはない
ただただこの世に生みおとしてくれた両親に感謝しながら
最期まで看取ってあげればいいだけなのだ
この世に存在できたことで享受できた喜びや悲しみや慈しみに比べれば
と思いながら。。。
そんな辛い看護ではやはり家族の支えや助けが重要であり
核家族化が進んで著しい現代だからこそ
今一度家族の在り方を問われているような気がした
人は一人では生きていけない
だからこそ、自分が本当に困ったときに
誰かが手を差し伸べてくれるように
品性を大事にして慈しみを忘れずに生きていかなければいけないのではないだろうか
母親の臨終を伝えた妹の電話
そんな妹に主人公がかけた言葉
心からの労いと感謝の念が溢れていた
ぐっときます。
演技も映像も素晴らしい
日本映画の良心
名画と呼ぶに相応しい。
今年始まってまだ半分も経ってないが、間違いなく現時点での日本映画のベスト。
これからも多くの期待作が公開されるが(夢売るふたり、終の信託、おおかみこどもの雨と雪…等々)、年末になってもその地位は揺るぎそうにない。
他の方のレビューを見ても、大方同様の感想を述べており、僕も全くの同意見なのだが、やっぱり言わずにいられない。
まず、原田眞人監督の演出。
これまで社会派映画が多かったが、一連の作品で培ってきた細やかでリアルな演出が、初挑戦となるホームドラマでも違和感なく発揮されている。
絶妙な間や会話のテンポ等、よくあるホームドラマとは違うリアリティを出していた。
俳優たちの見事なアンサンブル。
役所広司はいつもながらさすがの名演。
宮崎あおいも少女から大人の女性への成長を、美しくナチュラルに演じていた。
豪華共演陣も、家族や親戚にこういう人いるいる、と思わせる適材適所。
そして何と言っても、樹木希林!
名演技と言うのが言葉足らずなほどの名演技。
いや、演技というものを超えている。
かと言って、素な訳がない。
どうやったらここまで成りきる事が出来るのか、言葉さえ見つからない。
老いて記憶が薄れても、盲目的に息子を探し続ける母。
母に捨てられた記憶から、何処か母に抵抗を感じる息子。
そして自分もまた、奉仕は愛情と言って、娘たちに壁を作っている。
ただ支え合って寄り添い合うだけではなく、時には衝突したり苛々したりしながら歩み寄って行く姿は、誰もが覚えがある筈。
映画は役所広司演じる息子と樹木希林演じる母がメインだが、役所広司演じる父と宮崎あおい演じる娘であったりと、各世代に通じる“家族”の話である。
そんな家族の話が、美しい日本の風景を背景に語られ、これ以上ない名画になっている。
日本と、日本映画と、日本の家族の姿に、改めて素晴らしいと賞賛したい。
重くて重くて仕方無いのに、下ろしたくない背中の荷。
(どちらかと言えば)社会派として知られる原田眞人監督が描く、昭和を舞台にした人間ドラマ。
アドリブのようにリアルで矢継ぎ早な会話。編集テンポの速さ。
そして、多くの情報量を伝えながら、物語の細かな
伏線を観客に理解させられる卓越した説明能力。
やっぱこの監督さんは凄い。
加えて見事なのは、日本独特の風景・風習を納めた画の美しさ。
とりわけ季節毎に変わる木々の表情、木洩れ日の美しさ、終盤の海の雄大さは忘れ難い。
そして演技。
出演者みな素晴らしいが、まずはやはり、役所広司と宮崎あおい。
長い年月をかけて親子間の情が移り変わってゆく様子が実に自然だ。
役所広司は、
厳格な性格が、雪解けのように少しずつ和らいでゆく様が見事。
(私事だが、近頃めっきり優しくなった自分の親父を連想した)
船での「お前を見捨てる訳じゃないぞ」という台詞は、
主人公の生い立ちの複雑さと娘への深い愛情を同時に表した、良い台詞だと思う。
宮崎あおいも◎。
女学生役に全く違和感が無い点も驚きだが(笑)、
父や祖母に向ける疎ましさと愛情の入り交じった言動、
姉妹や親戚達との会話の生っぽさと言ったら!
そして、樹木希林。
老いてゆく様のリアルさ。時に微笑ましく、時に鬼気迫る演技。
演技も台詞も誇張せず、どうしてあそこまで圧倒的な存在感が出せるのか?
息子の顔を忘れるほどに衰えてもなお、
ずっと捜し続けた息子の姿。
ずっと忘れられなかった息子の詩。
そして最後、暗闇に佇む母。初めて、真っ直ぐに息子を見つめる母の眼。
幽霊であれ幻覚であれ、あれは母への想いの深さの表れ。
涙せずにはいられなかった。
世の中で、家族くらいに面倒な存在も無い。
家族は、重くて重くて仕方無いのに、
それでも下ろしたくない大切な背中の荷のようなもの。
さいわい僕の親は、背負う心配をするにはまだ早いようだが、
残念ながら今の日本は、劇中のように、沢山の親戚どうしで
互いを支えながら暮らしている時代ではない。
いつかその時期が来た時……
その時、僕には親を背負えるだけの脚力があるだろうか?
あるいは、背中から下ろす事に耐えられるのだろうか?
まだ分からないけど、いや正直、分かりたくもないのだけれど……
なるべく長く背負っていてあげたいと、本作を観て願った。
今月3本目の5.0判定を出すのは流石に躊躇したのだが……
素晴らしい映画です。
<2012/4/28鑑賞>
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