「大人こそ観るべき深いメッセージ性」映画 怪物くん まくらさんの映画レビュー(感想・評価)
大人こそ観るべき深いメッセージ性
この映画は一見単純な勧善懲悪もののルックスとなっていますが、それは大きな間違いです。
勧善懲悪の作品が目指すカタルシスというのは、単に悪者一人やっつけてハッピーエンドになることではありません。
その悪役の背後に実社会が抱える問題なり人間が本質的に持ち合わせる闇なりを配し、それらを滅することによって何か浄化作用を得ようという働きです。
この映画も最初のうちはそういった文脈で進んでゆくように思わせます。
岩石男という悪役がなぜ悪に堕ちたのか、それは怪物ランドに存在する階級社会において、下級怪物の家系に生まれたというだけで差別される閉塞感、その不条理さに対する反抗心、コンプレックスが暴走した結果でした。
家柄で全てが決まる。王族に生まれた者は好き勝手わがまま放題しても許される。
つまりこの映画における根底にある悪とは階級差別という現実だという風に提示されます。舞台と成っているインドは今なおカースト問題が根深く残っているのでまさにこのテーマを扱うにふさわしい設定です。
しかし、この問題は全く解決されずに終わります。
主人公の怪物君は、こいつは俺たちの国の問題だから俺たちで責任もって解決するといったようなことを言い岩石男を怪物ランドに連れて帰るわけですが、結局この暴走したモンスターを生み出した階級差別問題には一切触れません。
この物語をきちんと収束させるには、怪物ランドにおける階級制度の全面廃止を示唆するしか無いことは明白で誰しもがその予定調和を予測していたはずですがそうならなかったわけです。
「覚悟」「信念」だとか「お前らを守る」などという週刊少年ジャンプ然としたやたら温度だけは高くて軽薄な言葉、それで全ては丸め込まれてしまいます。
この映画の話の流れだと、階級制度を取り除くことによってこれまで下層で不公平に耐えていた者達を守り、第二の岩石男が生まれることを防ぐことができるのです。「お前らを守る」と大きな声で叫ぶことが実際に守ることにはならないとまともな観客ならば感じ取ったことでしょう。
これはつまり制作側があえて観客をミスリードしたということです。
そう考えると、この映画の中で至る所にちりばめられた違和感が全て紐解けてゆきます。
まず一番大きな違和感、それは主人公怪物くんの主人公らしからぬ最低っぷりです。
まず宣伝ポスターの顔からしてどうみても悪人然とした不敵かつ不愉快な笑み。
人格も極めて不快で、30過ぎてなおパパに甘やかされ人の感情に全く配慮を示せない幼稚でわがままのクズ野郎。
自分は勇者だと平気で嘘をつき、人のためには動かないが自分の欲のためには腰を上げるという自己中心思考。
自分のわがまま身勝手さは棚に上げて、岩石男が抱える、階級社会の不条理さに対する怒りや悲しみそれはわがままだと切り捨てる。後に国を治める者として、弱者に対する思いやりは皆無です。
もとあといえば怪物くんの、親の権力を笠にきた粗暴な振る舞いこそが岩石男に不条理さを突きつけ暴走にいたらしめたきっかけですらあったのに。
最終的にはヒロインが語ったわがまま論をまるで免罪符を手に入れたかのように自分勝手に解釈し、「わがまま最高」と声高に叫ぶ始末。
また、デモキンという悪魔界の王子が岩石男の悪事を裏で糸を引いており、人々の欲望を引き出していていたという流れで、人の欲の醜さといったものを描いていますが、怪物君のお供の三人は「族長になりたい」というまさにその醜い欲が行動のモチベーションとなっています。
ドラキュラに至ってはかなり重要なアイテムである魔王石を、持ってたら女にモテるという欲にまみれた理由でこっそりネコババしていました。
最終的には事件の黒幕であったはずのデモキンと怪物君サイドは手を組み共闘するという運びにもなります。
王族という恵まれた環境に生まれ好き勝手している二人が、下級階層に生まれ憎しみが暴走した哀れな者をよってたかって暴力でねじ伏せるという最低最悪な展開です。
そう、つまりこの映画における悪とは主人公側に位置していたということです。
主人公=正義の味方と刷り込まれた上で観客は作品と向き合うので、そもそも怪物というアイコン自体が悪に属するものであったことを忘れてしまっていたわけです。
思えば、やってることは間違っているにしても岩石男の主張は全くもって納得のいくものであり共感を呼びます。
魔王石を所持していることが自分の身の安全を保障するものであるにもかかわらず、婚姻関係に入るヒロインにそれをプレゼントしてしまうという愚直なまでの純朴さも、人の体温さえ感じさせます。
一方主人公側は思考回路がどうかしてしまっている者ばかりです。
怪物君はもう言わずもがなの最低なクズで、お供の三人も怪物君と壮絶な喧嘩別れをした直後のシーンで「ぼっちゃんのためなら~」と楽しそうに歌っているという精神分裂ぶり。
ヒロインも、自分が飛び降り自殺すれば民衆の洗脳が解けると何の根拠も無い謎のひらめきで本当に身投げを実行に移すというイカレ具合。
岩石男の陰謀をまだ食い止めたわけでもないのにまるで全て解決したかのように皆でカレーパーティを始めようとする全員の意味不明な行動。
彼らの感覚はまともではありません。
以上のことを踏まえた上で浮かび上がってくるこの映画が発しているメッセージ、真のテーマとは「正義とは何か。悪とは何か」という問題提起です。
現在の娯楽産業には安直な勧善懲悪が溢れています。その中で受け手は何をもってして正義と悪を判別するのでしょうか。
ある新聞広告コンテストで賞をとった、こんな短い文章があります。
「僕のお父さんは桃太郎というやつに殺されました」
鬼の子供視点に立ったこの文章を読む時我々は何が正義で何が悪なのか考えざるを得ません。
思えば桃太郎という人物も決して純粋な正義とは呼ぶことができません。わるさをしていると噂で聞いただけで、鬼達の根城に家来を引き連れて行き大暴れし、鬼から奪った財宝はもとの持ち主に返却するでもなく故郷に持ち帰るという、結局鬼達と大して変わらないようにすら受け取れるわけです。
描き方次第でいくらでも正義や悪というものの印象はコントロールできるということをこの一文は端的に示しています。
主人公が何か悪いことをしている感じの奴をやっつけるような感じの話を物語れば、受け手は主人公を正義であるとみなしてしまうという危うさを、勧善懲悪ものの物語は孕んでいるということです。
その錯覚は時に善悪を歪め人に悪影響を及ぼします。
この映画は主人公をゲスに描いて悪役に同情できる作りにすることで、そんな危険に対して警鐘を鳴らしているわけです。
主人公として描かれているからといって安易にその人物を肯定的に捉えるのではなくて、善悪に関する確たる基準を各々が持ち裁量を下すべきという教訓を逆説的に与えてくれるたいへん意義深く志の高い映画であったと思います。