劇場公開日 2023年8月26日

「刹那の奇跡」ポエトリー アグネスの詩 因果さんの映画レビュー(感想・評価)

4.5刹那の奇跡

2023年4月19日
iPhoneアプリから投稿

窓から差し込む光。赤い花の香り。ブラウスの隙間をふと吹き抜けていく風。それらが織り成す不可視の奇跡。私たちはその奇跡を逃さぬように、誰かに伝えるために詩を紡ぐ。それが形を与えられた瞬間に壊れてしまうことを知りながらも。詩を書くとは奇跡を書き留めることと同じなのかもしれない。論理的に考えてみれば達成不可能な実践だ。ゆえに詩作教室の受講者たちはそのほとんどが最後まで詩を書くことができない。受講者たちに向かって「あなたたちは真のリンゴを見たことがないのです」と詩人は言う。すなわち、詩を書くには普段とは異なる仕方で世界を吟味する必要があるということ。ただ、それはとても難しい。

一目見ただけで難解な数式を解ける者と単純な四則演算にさえ躓く者がいるように、奇跡を言葉に落とし込むセンスにも個人差がある。一篇の詩さえ浮かんでこない老女ミジャは、ある日突然言葉が溢れてきたという朗読サロンの女を羨ましく思う。自分にはどうしたら詩が書けるのか。「感じたままを書けばいいんです」。でも、どうやって?

詩作に精を出す一方でミジャの人生は緩やかではあるが確実に下降線を辿っていく。彼女は訪れた病院でアルツハイマー症候群の診断を受ける。釜山へ赴任中の娘から預かっている孫ヒョンウクは、同級生の女子生徒をレイプして自殺に追いやってしまう。相手方の母親への慰謝料を捻出するべく彼女は「会長」と呼ばれる身体の不自由な資産家から半ば恐喝のように500万ウォンを奪い取る。

美しい詩の世界への関心とは逆行するように、彼女の人生は暗く醜悪な方向に傾いていく。そしてその傾斜が強まれば強まるほどに詩への無辜無謬な期待と憧憬もまた強まっていく。彼女が卑猥な詩で聴衆の笑いを取る朗読サロンの男に憎悪を向けるのも当然だ。社会の袋小路に追い詰められた彼女にとっては詩が、詩の美しい世界だけが唯一の生存理由なのだから。

しかし皮肉なことに、詩作が対象とする領域とは無関係な領域において蓄積してきた怒りや悲しみや苦しみが結果的に彼女の詩作を可能にする。踏み潰された虫が美しい絵の具のような体液をコンクリートの上に描き出すように、彼女の人生の破綻によって彼女の詩は紡ぎ出される。そのとき彼女は既にこの世界にいない。

読み上げられる詩とともに断片的なイメージが矢継ぎ早に流れていく。それはミジャが今際の際に見た走馬灯なのかもしれない。流れゆくイメージはやがて川の上の高架に佇む少女の後ろ姿へと辿り着き、息を吞んだように停止する。ヒョンウクが死に追いやったあの女子学生だ。彼女がこちらへ眼差しを向ける。その光景は奇跡のように美しい。ミジャのイメージは詩とともにそこで幕を閉じる。

後に残るのは黒々と流れる川だ。それはかつて女子学生を呑み、ミジャの帽子を呑み、おそらく最後にはミジャ自身をも呑み込んだ。川は絶え間なく流れ続ける。一瞬前に奇跡が起きたことなどまるで知らないかのように滔々と流れ続ける。いつまでも果てしなく。

因果