「「パーフェクト」って、呟いて」ブラック・スワン rokaさんの映画レビュー(感想・評価)
「パーフェクト」って、呟いて
優れた監督は、常に自分にとって新しい作品を撮ろうとする。そして、飛翔する。
だがそれと同時に、同じ話を、何度も撮る。
例えばイーストウッドの『ミスティック・リバー』と『ミリオンダラー・ベイビー』はある意味で同じものを撮っているし、コーエン兄弟の『ファーゴ』と『ビッグ・リボウスキ』もそうだし、クリストファー・ノーランの『メメント』と『インセプション』もそうだ。
これはおそらく、小説にも同じことが言える。かつて村上龍は、『愛と幻想のファシズム』のあとがきで、冬二とゼロとフルーツを『コインロッカー・ベイビーズ』の「キク、ハシ、アネモネの生まれ変わり」であると言った。
ダーレン・アロノフスキーという超絶的に頭のいいこの監督の作品を僕が初めて観たのは十九歳の頃で、作品は彼のデビュー作である『π』だった。
神の数字というアイテムも魅力的だったが、僕が『π』で何より気に入ったのは、天才数学者マックスが作中で唯一笑顔を見せたのが、「神にもらった頭脳を捨てた」後のラスト・シーンだった、という点だった。「何が幸せかなんてわからねえぜ」というその結論はおそらく、天才的な頭脳の持ち主であるアロノフスキーの自意識に他ならなかったのだと思う。
ハッピー・エンドでもあり、バッド・エンドでもあるという、人生そのものの縮図であるかのような両義性。それが『π』という映画の核心であったと思う。
その十年後、アロノフスキーは『π』と同じ物語を、『レスラー』で描ききってみせた。天才数学者のサスペンスと、落ちぶれたレスラーのヒューマン・ストーリーで、全く同じことをやってのけたのである。
そしてこの『ブラック・スワン』を、アロノフスキーは「『レスラー』の姉妹編」であると言った。僕のような素人が外から見ていて指摘するまでもなく、この天才は、確信的な反復を繰り返している。
ストーリーの基本線は、究極の芸術性を求めるが故に墜落し、破滅へと向かうバレリーナの物語である。こう書くと、ちょっと『地獄変』みたいだが。
例えば街を行くナタリー・ポートマンを手持ちカメラで追っかけるブレブレのカメラ・ワークなんかはいかにもアロノフスキーらしい演出で、正直、そういうことをやられると「わざわざそんな撮り方する必要あんのかよ」と思ってしまう僕の趣向には合わないのだが、ただまあ、アロノフスキーはきっと、そういうふうに撮りたかったのだろう。撮りたかったら、撮るべきである。
アロノフスキーらしいと言えば、作品の空気感は、かなり『π』に近い。サスペンスの形態をとったデビュー作で発揮されていた不穏ないかがわしさは、リアルなヒューマン・アプローチの『レスラー』では影を潜めていたが、本作ではその病的な不吉さが全編を覆い尽くす。僕ははっきり言って、こういう圧倒的な映像的予感みたいなものが大好きである。このあたりは、アロノフスキーの面目躍如といったところだろうか。
その一方で、例えばラストのバレエのシーンで見せる、実に映画的な創意と寓意に満ちた、真っ向勝負の「画」としての美しさ。技術を駆使しながら、決して「小手先」で終わらないその力技。
ここに、アロノフスキーの成長があり、飛躍がある。突出した頭脳の中で転がして映画を撮ったような若者が、いつの間にか、本物の画を撮る監督になっていた。
悪魔が舞い降りた瞬間の、鳥肌が立つような刹那の衝撃性。善も悪もとっくに超越して、どうにもならないほど狂っているのに、あり得ないくらいに美しい。
これは、転落の物語であり、破滅の物語である。
でも、阿呆な僕も、ラスト・シーンでようやくわかった。嗚呼、結局この人は、『π』や『レスラー』と同じことをやろうとしていたんだな、と。
これは墜落の物語であり、飛翔の物語だったんだな、と。
それが、アロノフスキーという人の物語なのであって、きっとそれは、永遠なんだろうと思う。
通常の文脈においては対照的に位置する二つの物事が、人生というわけのわからない舞台の上では、ときには手の平に握りしめられた一枚のコインの表と裏に過ぎず、咲いて枯れて、飛んで落ちて、生きて死んで、ひとつのシーンの中に、その全てが、ある。
その二つの極点が同時に見えたとき、人はときに、「パーフェクト」と呟いたりする。
そんな、奇跡のように素晴らしく、狂おしいほど美しい一瞬を、恐ろしいほどの正確性をもって切り取った映画を観たとき、人はときに、「パーフェクト」と呟いたりする。