SOMEWHEREのレビュー・感想・評価
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いや 分からん...
とにかくワンカットが異常に長い。とてつもなく長い。 最初のシーンで観ようか辞めようか迷った 笑 ただソファーに座ってるだけの映像、ただ車の走ってるだけの映像。プールで横になってるだけの映像。 何が言いたいのか全く分からん。 ドキュメンタリー?
映画スターの孤独
主人公はスター俳優だが傲慢なところは無く、穏やかな雰囲気の男。スターにありがちな周りの人間に良いように利用されて、裏では嫌われているといった事もない。 高級ホテルに住み、スポーツカーに乗り、女の子と遊び、けど満たされていない。 一般人から見たらなんて羨ましい生活だろうと思う。 けどその地位に辿りついた人しか得られない感情なのだろう。 大人になった今ホテルのレストランで女性とディナーを食べお酒を飲む事が出来る。けど中学生のころに部活後に友達とマックに行ってのハンバーガーとコーラがとてもおいしいく、楽しかった。
意図的に生み出された「間」
ホテル暮らしで浮名を流す、気ままな映画スターのもとへ、離婚で母親に引き取られた11歳の娘が転がり込んでくる。 実に大胆で挑戦的な映画。さして起伏のあるストーリー展開ではないにも関わらず、ほとんどの場面にBGMを用いず、ロングショットの固定アングル長回しを多用、演者に意味のある科白らしい科白を吐かせなかったりする。 正直、分かりにくさは否めないところだが、それ以上に、意図的に生み出された「間」が、空疎な人生観、それを憂う心性、父娘双方が、愛想笑いを浮かべながら、何とかして越えられない壁を越えようとするもどかしさを、雄弁に演出する。 主人公と、主人公の駆る超高級なフェラリーとが切なくに重なる。ラストシーンは見事の一言に尽きる。 ちなみに娘役はエル・ファニングは、ダコタ・ファニングの実妹だとか。ご両親、大したもんですね。
監督だからこそ描ける作品
最初、ずっと何見せられてるんだろうと思った。 そのあとのシーンも。なぜかモテまくりだし。ずっとこんな感じで進むの!って驚いたが、何だか面白い。 なぜだろう…スターの日常だからかと気づいた。 淡々と描いてもスターだから絵になるし、一般人には経験できない。だから面白いのか。 世界的映画監督の娘かつ自身も監督だからこそ描ける作品何だと思った。
退屈に感じて正解の映画
前半30分くらいのところで寝てしまった。はっと起きて、見落としたところを戻して見直した。退屈だった。でも、観ていくうちにわかった。そう感じたのはこの映画の目的にかなっていたんだと。 同じことの繰り返しで発展性がなく退屈、目を見張るような贅沢も繰り返されると感覚がマヒしてくる。それがジョニーの日常で、「物足りない、飽きた」というような言葉で説明はさせない。あくまで映像で体感させてくれる。 確かに、チヤホヤされて笑顔で返すのも神経が疲れてくるし、女性も最初はキレイな人だなと思ったけれど、だんだん似たような人ばかりでウンザリ、みんなバカみたいに行動が軽過ぎ、AさんとBさんとどう違うの?となってくる。 そんな中でジョニーの娘の飾らなさや素直さが、新鮮に見えてくる。でも、そこでもまた、ゲームで遊んでやることしか出来ない能のなさやマンネリ化が浮き彫りにされてくる。 ジョニーのもつ優しさは、娘への態度や周囲の人たちへの配慮に伺える。彼自身はさほど駄目になってはいなかった。だから次へと繋げられる。 なかなかおもしろい映画だった。
【映画スターだが、空虚で自堕落な生活を送る男の元に戻って来た大切なモノが、男に気付かせた事。若きエル・ファニングの魅力的な事と言ったら!!】
ー 映画スターのマルコ(スティーブン・ドーフ)の元に別れた妻との間に設けた娘。クレオ(エル・ファニング)が一時的に戻って来る。 マルコが豪奢な生活を、娘と送る愉しき日々を、センスある衣装、意匠で魅せる作品。- ◆感想 ・今作の魅力は、若きエル・ファニングの姿に尽きるであろう。 - フィギュアスケートする姿(上手だなあ・・。)、プールで遊ぶ姿、マルコのために朝食を作る姿・・。- ・アンナ可愛い娘が、一時的にでも独り身の所に戻ってきたら、父親としてはメロメロであろう。 ・マルコが、クレオとイタリアで愉しき日々を過ごす中で、徐々に精気を取り戻して行く姿。 ・それまで、豪奢なホテルの部屋でポールダンスを女性にさせていたり、共演女優と情事に耽っていたマルコの生きる姿が、徐々に変わって行く様を、巧く映し出している。 ・マルコが電話で”俺は、空っぽな男だ・・”と涙するシーンも印象的である。 - お金と名声が有っても、埋められないモノはあるよね。それに気づかせてくれたのが、少し大きくなった、愛娘の存在である。- <ソフィア・コッポラらしい、お洒落な映像が印象的な作品。 フー・ファイターズやポリスの音楽の使い方も良い。 愛するモノを持つ人間は、独りでは生きられない。 お金が有っても、名声が有っても・・。 吹っ切れたマルコが、愛車のポルシェで向かった先は、想像が付くよ。>
ここではないどこかへ
冒頭、同じところをグルグル回り続ける高級車。蚊のように煩わしいエンジン音。ジョニーはこのとき既にうっすら理解していたと思う。
ここに留まっていてはいけない。ここではないどこか(somewhere)へ。
ジョニーは大金持ちの映画スターというおよそ現実離れしたキャラクターだが、そういった虚飾が意味を成さなくなるほどに脆い内面を抱えている。彼は周囲の何もかもが退屈に思えてしまうのだ。
この退屈を具象化した前半部のショットはどれもこれも秀逸だ。ポールダンスをする2人組の美女とか、フィギュアスケートの練習に励む娘とか、撮りようによってはいくらでも美しく見せられる素材をここまでつまらなく撮れるのはすごい。
映画という鉤括弧が瓦解する直前まで長回し、長回し、長回し、そして何事もなかったかのように次のシーンに移行する。ショットそれ自体は極限まで弛緩しているにもかかわらず、何か得体の知れない緊張を強いられた。北野武の作品を見ているときの気持ちに近いかも。
周囲のできごとについて全く興味が持てないジョニーの気持ちはよくわかる。何もかもが退屈で仕方なくてどうしようもなくなることは私にもある。というか誰にだってそういう経験はあると思う。一度くらいは。そしてたぶんジョニーの感じる退屈は、私たちのそれと同様のものだ。それは有産階級の虚無的な豪奢というよりは、もっと根源的な、言うなれば自己存在の拙さに由来するものである。
ジョニーは娘のクレオと関わり合う中で、次第に退屈の正体を掴んでいく。なぜクレオといるときは楽しいのか、なぜ退屈さえも心地よい微睡みに変わるのか、なぜクレオと一緒にいたいと思うのか。
その答えはとても残酷だ。
自分という存在が退屈だから。
自分がぼんやりとした内面しか持たないつまらない人間だから、周りの何もかもがつまらないと感じる。ただそれだけ。
私の場合もそうだった。周囲の諸々がいつの間にか退屈になってしまったのだと思っていたが、それは私自身のつまらなさに由来するものだった。要するに私の感受性が鈍化したことによって、自分の中に入ってくる言葉や情景が飽和を起こしていただけだった。
すべてが内在的な問題であることを悟ったジョニーは、別れた妻に向かって電話口で「俺は空っぽだ」と告白する。何を今更(笑)と思うかもしれないが、それを明確な言葉に置き換え、誰かに伝えられたことによって、ジョニーは少なくとも退屈の堂々巡りから逸れることに成功したのだと思う。
ジョニーは現実離れした金持ちではあるが、その行動フローや規範意識は我々庶民とそれほど変わらない。他者性を自らの内に引き込み、自分ごととして捉え直す。そうすることによって人生のリアリティを回復する。そういう精神のダイナミズム。
とはいえリッチであることによって彼が我々以上に大きな迂回を強いられたことは事実だろう。彼が金持ちでも映画スターでもなかったとしたら、彼はもっと早く「俺は空っぽだ」という自省に至れていたと思う。そう考えるとちょっと哀れだ。
ラストシーンでは、ジョニーの乗った高級車が延々と続いていく道路をひたすら驀進する。同じ道をグルグルと回り続ける冒頭シーンとはあざといくらい対照的だ。
さて、彼は一体どこへ向かうのか?
ここではないどこか。
somewhere.
じわりと
いちばん好きな映画が答えにくいのは、ひとつに決めにくいから、でもあるし、ひとつに決めてしまうと、じぶんというパーソナリティに多様性が失われる、ような気がするからでもある。 それが最良のもの──としてしまうのは、なんか怖い。 おれは他の映画も好きですよ──という懐の深さもあったほうがいいんじゃないか、と考えて、ひとつだけ挙げることを躊躇してしまう──わけである。 しかしとうぜんながら、匿名の一般庶民が誰/何を好きであろうとカラスの勝手*である。その情報に価値どころか値はない。犬猫どっちがすきですか?わたしの好きにあなたはきょうみがありますか?知っての通り「好き」が価値を持つのは、有名人にかぎる。 ──わたしは、たんに、じぶんの精神衛生のために、無意味な配慮をしているに過ぎない。そもそもinternetとはそんな無為をする場所であろうと思う。 (*余談だがカラスの勝手とは志村けんがつくった語らしい) いちばん好きな映画をあえてひとつあげるならロストイントランスレーション。わたしは田舎のお百姓にもかかわらず都市の業界人のような趣味をしている。都市の業界人がそれな趣味を披瀝しているとむかついて仕方ないんだが・・・。 ソフィアコッポラは玉石のムラがあるがSomewhereはソフィアコッポラ節(とでもいうべき固有の魅力)がロストイントランスレーションに次いでいる。と思う。 俳優マルコ(スティーブンドーフ)は頼りなく、上っ面なかんじ。にもまして、かれはいつでも心そこにあらずの体。ホテル暮らし。酔って転んで腕を骨折し仕事が停滞したまま日毎パリピに囲まれ、ポールダンスを呼び寄せ、だらだら飲みあかす生活。が、ちっとも楽しくない。 そんな彼に前妻から娘を預かってほしいの依頼。荒廃した徒食の彼と娘のクレオは対照的。無機と有機、静と動、腐臭と生気、闇と光。だが無邪気なクレオは父親の懶惰が気にならない。しばしふたりは利害のない楽しいコンビとなる。 『ソフィア・コッポラ監督の幼少時代の思い出から着想を得た映画である。』 (Somewhereのウィキペディアより) マルコのモデルは従兄のニコラスケイジだろうか。詳細はわからないが言いたいことはよくわかる。誰しも幼いころに、叔父母か従兄弟か、あまりよく知らない大人と関わったことがある。大人たちは、子供がわからない思惑や屈託をかかえながら生きている。そのときは、たいして感じないが、年を経て振り返ったとき、彼/彼女が言ったことや、やったことを、なんとなく思い出す。そんなことがある。 すなわちクレオ=幼いソフィアコッポラは思ったわけである。かれは売れっ子のスターだった。でもいま思えば、どこか寂しそうだった。と。 それが映画になっている。 一方、生気に満ちた無垢なクレオと過ごしたことにより、マルコは虚無にとらわれる。「俺は空っぽの人間だ」──そう自戒して、なにか新しいことをはじめる。と映画Somewhereは言っている。のである。 じっさいにカジノで遊んだりヘリで移動したりパンケーキにチャイブをかけるような幼少があったはずのエルファニングが完全に素の見ばえだった。
オレは好きです。
賛否両論ありますが、私は好きです。 長回しは、富と名声に飽和した男の人生を表現する為に使った下地だと思います。 今までないがしろにしていた娘とのひとときにほだされるー 特別な題材ではないと思うが、少ないセリフと美しい夏の日の映像、役者の演技に、今までの退屈な時間が「この映画が終わってしまうのが寂しい」という感情にいつの間にか変換されている。 秀作だと思います。
コッポラ濃度85%です!
すんばらしい…正直びっくりです。 こんなにイイ映画だったとはタマラんです。 映画comでは評価が高くはないので、期待値が低かったのですが、 やっぱりソフィアコッポラ!嫉妬しかありません。 コッポラ濃度85%です。 最新作「オン・ザ・ロック」とは比較にもなりません。 →ソフィアコッポラの才能にA24は必要なかったと思います。 にしても、割と退屈に感じる人が多いんですね。
作家性が強くて退屈
恐ろしくセリフの少ない映画、冒頭からフェラーリがただ周回する固定カメラの映像を垂れ流す、もうこれだけで挑戦的と言うか、主張の強さにひいてしまった。その後もただセレブの日常が流れてゆくだけ、とにかくソフィアが興味を持った視点で撮っていくから感性があわないと耐えられない。だからなんなの、ソフィア・コッポラのアート作品展でした。
大半の人が「共感できない」が、答え
「共感できない」 大半の人が、そう思うことが 答え。 なのでは? と感じた映画。 大半の人には、 共感されない悩み。 だから虚しい。 苦しい。 そんな「状況」を 観ている人が、 つまらない。 飽きそう。 もういいよ。 と我慢できなくなる長さや、視点の映像が 流される。 ちょっとしつこいと思わせるくらいに。 「状況」の垂れ流し状態 酒を飲んで、 何人もの女とSEXして、 VIP扱いされて、ちやほさやれ、 一流ホテルで滞在して、 海外で表彰されて、 可愛い娘がいて、、、、 他人がいくら羨むような 「嫌なら代わってくれよ」 という状況も、 本人にとっては、 まったく心満たされるものではない。 物質的な喜びでは、 満たされなくなってしまってる。 彼も、かつては それで喜んで、満たされていたのだと思う。 でも、年々年々、 空虚さが募っていったのではないかと思う。 始まっちゃったら、やるしかない。 飽きてる 辞めて、他に何かをしたいわけでもない。 飽きてる 何しても飽きてる飽きてる飽きてる それが 冒頭の車の長回し、 ポールダンスの長回し 可愛い娘のスケートの長回し 娘のことでさえも、 心ここにあらずな自分がいるのも わかってると思う。 人は、 目標に向かって頑張ってるとき、 しんどかろうが、辛かろうが、 意外と心は満たされている。 だが 目標や希望 ワクワクすることなくなったりすると どんなに他人が羨むような状況であっても 空虚さを感じてしまう 最後に、藁を掴むようにかけた電話。 結局、この人にも わかってもらえなかったか... 「最高じゃねえか! 何をそんなに、つまらなそうな 不満そうな顔してんだよ!」 みんなそう思うだろうな、、 そんな、彼の心の状況 98分
金持ち名誉もあり女にももてる 特に欲もなさそう(服装も安い) ゲイ...
金持ち名誉もあり女にももてる 特に欲もなさそう(服装も安い) ゲイなどにも優しい 特に何の問題も感じられない。 離れていた娘とも無邪気に遊んで 離れるとき、パパは忙しいと泣いてたけど 忙しそうに見えない。 まぁ、自伝的映画ときいて ふーーん。と 盛り上がりもなく主人公が良い人すぎる ファザコンなのかな。
つまらないものを描いた映画
フェラーリやらショウビズといった煌びやかな事柄を追いながらも、内容は極めて淡々としたものであり、少しでも何かしらの作品の価値を積極的に見いだしていかなければ、恐らくつまらない作品でしかない。つまらないところを誠実につまらないと描いているわけだから、つまらなくて当然なのかもしれない。 よく分からない長回しが多いし、変な画角のショットが多いので、時間の無駄という思いが常につきまとう。しかもセレブの平凡な日常なんて、平凡な自分などには関係もなく全く共感できないもの。娘がスケートをする姿を見ている状況を丁寧に描いたとしても、正直、それが何なんだ!という怒りの感情のみ。 ただ、その怠惰な雰囲気が意図的であり、セレブの平々凡々な内幕をパロっているのかもと感じ出すと、結構笑えるし、分かるはずもないセレブの気持ちにも共感を覚えてくるのだから不思議なもの。 結構つまらなさを感じる作品だけど、コッポラというレッテルを自由自在に生かし切った作品だという感じがして、何だかとても好きな作品。ヴェネツィアで最高賞を取ったところも何となく分かったし、なんか笑えた。
以前劇場で観たときは、このかわいらしい女優さんがエル・ファニングと...
以前劇場で観たときは、このかわいらしい女優さんがエル・ファニングという名前であることも知らず、ものすごく魅力的な女の子だなぁと思っていました。
昨年「20センチュリーウーマン」を見て、この子があの時の…と、彼女を追ってみたくなり、レンタル。
俳優として名は売れたものの、酒や派手な女性関係に明け暮れて、「空っぽ」な生活を送っている父親が、別れた妻との間の娘クレアと短い期間過ごし、満たされていく時間がゆっくりと描かれていて、とてもよかった。
そして、クレア役のエル・ファニングが見せるいろんな表情。ホテルのベッド中で眠っているパパに抱きつき久しぶりの再会にうれしそうなあどけない笑顔、イタリアの受賞パーティーでのドレス姿(美しい!)、ホテルの部屋でパパのガールフレンド(バスローブ姿)と朝食を共にする時のなんとも微妙な表情、夜中に目を覚ましてパパにもたれてテレビを眺めながらジェラートを食べる姿、そしてキャンプに向かうクルマの中で見せた不安に押しつぶされそうな涙、いろんな表情を見せてくれるのであります。もうたまりません。
ほんとに楽しみな女優さんです。
これで金獅子賞か、、、
無意味に長い、カット割り等がウザイ。ハリウッドなのに仏映画を意識されても、、、それでいて、表現している事は薄っぺらい。何も伝わってこない。多くの人が途中で見るの止めるだろう。ソフィアコッポラはロストイントランスレーションに続く、駄作。多分、才能無いからもう作らない方が良い。コッポラの娘って事で商品になってるような物。
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