神の子どもたちはみな踊る : 映画評論・批評
2010年10月26日更新
2010年10月30日よりシネマート六本木ほかにてロードショー
クールな簡潔さで全編を押し切る姿勢に好感が持てる
母親とロサンゼルスで暮らすアジア系の若者ケンゴはどこか欠落感を抱えて生き、平気で仕事に遅刻するかと思えば、情熱的に愛し合うかのような恋人に結婚を迫られると尻ごみをする。どうやら、そんなケンゴの欠落感の根源に父親の不在があるようだ。彼は母親の手で育てられ、父親の名前や顔も知らない。
ある日、いつものように町を目的もなく彷徨う彼の目に、耳の欠けた中年男性の姿が飛び込んでくる。母親から聞き出した父親らしき人物の特徴と合致する謎の人物を追跡するケンゴ。彼はいったいどこに辿りつくのか……。
2002年に村上春樹が発表した短編をスウェーデン生まれでロサンゼルス在住の人物が映画化した異色作の逆輸入……などと聞くと、僕らもついつい力が入ってしまうが、あくまでもクールな簡潔さで全編を押し切る姿勢に好感が持てる。たとえば、ケンゴが“父親”を追うプロセスをさりげなくもスリリングに描写し、映画全体の流れを確実に加速させる手腕など見事だと思う。舞台をアメリカに移すことで、宗教への言及にキリスト教のバイアスがかかるが、それがむしろ村上春樹作品の普遍性を改めて僕らに気づかせしめる。ケンゴが探し求める父親(Father)とは“神”でもあり、僕らは誰しも“神の子”である……。
初監督作らしい初々しさと適度な実験性を帯びた本作は、同時にナスターシャ・キンスキーの娘ソニアの記念すべきスクリーンデビュー作としても映画史に記憶されるだろう。そんなに出演場面は多くないけれど、彼女の圧倒的なチャーミングさは僕らの視線を釘づけにするに余りある。
(北小路隆志)