「【生きる】」わたしを離さないで ワンコさんの映画レビュー(感想・評価)
【生きる】
序盤、教師のルーシーが、生徒に向かって、皆の命は短いことを伝え、
「自分というものを知ることで、生に意味を持たせてほしい」
と、声を詰まらせながら話す。
そして、エンディング、
キャシーが提供を前に、自らの短い生涯を振り返るように、
「生を理解することなく、命は尽きるのだ」
と呟く。
僕は、このキャシーの言葉は逆説的に用意されたもので、本当の意味は別にあるように思う。
この作品は臓器提供のために産まれたクローンを取り上げながら、生とは何かを見つめた秀作だと思う。
原作者カズオイシグロのテーマを決めてから、設定を綿密に構築していくイマジネーション力に改めて感心させられる。
特に、SFでありながら、未来ではなく平行世界に時代を設定したところも、皆のノスタルジーをも刺激し、キャシーの思い出と生きるという冒頭のセリフの意味を更に深めているようにも感じる。
なぜ、逆説的だと思ったのか。
それは、キャシーも、トミーも、ルースも明らかに生きたからだ。
愛したり。
奪ったり。
オリジナルを求めたり…、
自分は何者かと多くの人は考えることもあるだろう。
噂に惑わされたり。
何かを切望したり。
ジェラシーを感じたり。
性欲を覚えたり。
別れを悲しんだり。
憐れんだり。
勇気を振り絞ったり。
再会を喜んだり。
語らったり。
思い出に浸ったり。
何かを恐れたり。
後悔したり。
贖罪の気持ちを感じたり。
触れ合うことを求めたり。
僅かな望みにすがったり。
そして、絶望も、
覚悟も。
この作品で綴られるもの全てが生きた証なのではないのか。
少年トミーの校庭での叫びと、
死を目前にした夜のとばりに包まれた叫び。
この二つの叫びは異なるようで実は同じなのではないのか。
なぜ、自分を、自分の思いを分かってもらえないのか。
絵は、「魂を探るのではなく、魂があるかないのかを知るためのもの」
キャシーにもトミーにも魂は確実にあったのだ。
最後、微笑み合う手術台のトミーとトミーを見つめるキャシー。
短い生涯のなか、ほんの一瞬、愛し合った期間でも、二人の生には二人にしか分からない魂が宿っていたのだ。
魂も一様ではないのだ。
生涯を終える。
それは、短い生涯でも、長く生きても皆同じだろう。
人は人と繋がり、外の世界とも繋がり、様々な感情を呼び起こしながら生きているのだ。
ほんの少しであっても自由でありたいと考えたことも同様だ。
生きたからだ。
世界には、病気などで短い生涯を運命づけられた人もいるに違いない。
でも、確実に生きているのだ。
生とは、長さや経験の多い少ないだけが尺度であるはずがない。
どのように考え、どのように感じ、どのように自身を表現できたのかが重要なのではないのか。
※ 追記 この作品のような状況があってはならないのは当たり前だし、お国のために死ねと言われて、それを受け入れざるを得ないような状況も同じだろう。
揺さぶりをかけてくる映画でしたね。
終わりを自覚することでどれだけ今の生が自分にとって、また隣人にとって輝きを放つ原動力になりうるのか、それを問われた気がしました。
「追記」も同意します。
ワンコさんの「ハルカの陶」のレビューにも僕はとても惹かれます。DVDを借りたいと思っています。
僕の宿題の「主戦場」と、もうひとつ「わたしは貝になりたい」のレビューなのですが、投稿がこざかしいAI 検閲にはねられていてほうほうの体です。単語を替えても、スペースを入れてもはたまた表現を薄めても、それでもダメ。もうどうにもならずに頓挫しています。
検閲の強化は、荒れるSNSを鎮めるためなのでしょうが、当たり障りのない薄味の人間だけが重んじられ、人の言葉から骨も棘も命も抜き去られていくみたいです。