「提供と享受」わたしを離さないで ミカさんの映画レビュー(感想・評価)
提供と享受
『人間は人間以外のものに対して、魂が無いとでも思っているのか?』
キャシーから投げかけられたこの問いかけが、人間のエゴを的確に表す言葉として、鑑賞後も私の頭からずっと離れませんでした。劇中のキャシー、ルース、トミーは、まるで言葉を持たない生命の代弁者、普段私達が気にもとめない生命の象徴(家畜、養殖用の魚、植物、実験動物、ペット用の動物)の様に感じました。
作品はキャシーからの視点で描かれていましたが、逆に人間社会の視点から観ると、臓器移植がシステム化されたことにより、人間がこのシステムの恩恵を受けて、社会が上手く回っている様にみえました。クローンの『終了』に立ち会う病院関係者も、ヘイルシャム寄宿学校の教員もシステム化された中で職務を全うしているにすぎません。たまには感傷的になって退職する教員がいますが、ほとんどの人はシステム化された臓器移植について深く知ることも真剣に考えることもないままなのかもしれません。あるいは、システム上、仕方がないことと捉えているのかもしれません。このシステムに対する人間の振る舞いや考え方は、見覚えがある方も多いと思います。
今作は、人間がクローンに臓器を『提供』させている話ですが、では人間は、人間以外の生命に対してだけ『提供』を強いているのでしょうか。過去に人類は、人間を使って人体実験をしていた歴史があります。昨今で有名なのは、ナチス(アウシュビッツ)や731部隊(満州)でしょうか。また、第2次世界大戦中に日本軍が神風特攻隊に出した突撃命令の思想も、根本は人体実験と同じです。つまり、人間は人間に対しても『提供』を強いてきたのです。
劇中、クローンは自らの運命を受け入れて抵抗をしませんでしたが、アウシュビッツでのゾンダーコマンドや神風特攻隊もクローンと同じく、ほとんどの人が自分が殺される事を承知の上で、職務というシステムに従い抵抗をしませんでした。今作の介護人システムをみていると、アウシュビッツで死体処理係という職務のあとに数ヶ月で抹殺されたゾンダーコマンドシステムをみている様でした。
クローンとは一体何者なのか?を考えた時に、利益を『享受』する側に、己の利益を『提供』し続ける全ての生命の事なのだということに気がつきました。そして、人間とは一体何者なのか?を考えた時に、利益を『享受』する側でもあり、利益を『提供』する側でもある存在だということです。
私達は、無慈悲な『提供』を受け続けるのか。クローンの様に『提供』し『終了』するのか。あるいは、無批判に受け入れられている社会システムを変えるのか。そう問われた気がします。
『私は自分に問う。私と私達が救った人に違いが?
皆、終了する。生を理解することなく、命は尽きるのだ。』
クローンの子どもたちがボール遊びをしていて、ボールが飛んで行ってしまった「柵」の向こうの草はら。
・・誰も拾いに行かなかったあのシーン。
カズオイシグロからの物凄い問題提起でした。
見えているのに、見えていないことにしているあなたの「柵」は何か?
と原作者から強烈に迫られました。
嫌な映画でしたが、観て良かったと思っています。
ノーベル賞は伊達ではない。
コロナ失業者が街に溢れますね。
横浜の寿町のドヤ街に住み込んで、行き倒れの人を助けている友人に今からお金を振り込んできます。