彼女が消えた浜辺のレビュー・感想・評価
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テヘランからカスピ海沿岸の避暑地に数日間のバカンスを家族ぐるみで楽...
テヘランからカスピ海沿岸の避暑地に数日間のバカンスを家族ぐるみで楽しみに来た仲良しグループ。仲間の一人の誘いで参加したエリは透明感のある清楚な美女で、ドイツから帰国して参加したアーマドは彼女に惹かれ始めるが、一人の子供が海で溺れる事故が起こってしまい、同時にエリが忽然と姿を消してしまう。警察とともに必死の捜索を続ける仲間達だが実は誰も彼女の本名すらも知らなかった。一体彼女は何のために旅行に参加しどこへ行ったのか・・・。
『別離』と同じく沈痛な余韻が残る一作。全くの善意もちょっとしたきっかけで邪悪な想念に姿を変え、悪意がどこにもなくても人は人を嘘で傷つけ追いつめる。こういうあまり直視したくない類いのテーマを繰り返し提示するアスガー・ファルハーディ監督の真意が知りたくなります。『別離』と数人キャストがカブっていましたが、アーマド役のシャハブ・ホセイニはとびぬけて演技が巧く、『別離』の役とは喋り方、表情の作り方、仕草を変えていて全くの別人を作っていました。
5対3の、アイデンティティ
アスガー・ファルハディ監督がベルリン国際映画祭で銀熊賞を獲得した、人間の心の闇を抉り出す心理サスペンス。
「私は、私らしくいたいの」当たり前のように語るその人を、私は胡散臭いと感じる。「私」とは、何だ。その人は自分の性格と性質を当然のように所有している。でも、他人にとってそんなこと、知ったこっちゃない。
「あいつ、何か嫌い・・」そう誰か力のある人間が言っただけで、世間はその人を「嫌な奴」と認識する。「私らしく」はそのまま、「嫌味を撒き散らす」ことに直結する。「私」は、「誰かの多数決」で決められる。
本作には、重要な局面に多数決が持ち込まれている。「エリ」という名前以外、何も知らない一人の女性。彼女の失踪を契機に、他人同士の勝手な想像と、都合の良い解釈が一人歩きしている。そこには、「エリ」の意思も、名誉も、アイデンティティも一切が排除された「理解」がある。
「5対3の多数決」で決められた「エリ」の嘘つきという人格、男性をたぶらかそうとする意思は、真実ではない。それは、物語の流れを見ただけでも日を見るより明らかだ。だが、そんな真実なんて本当は、登場人物の中ではどうでもよい。
出来るだけ、面倒の起こらないように。分かりやすいように。世界はそんな大多数の怠慢が積もり積もって、誤解が真実にすり替わっていく。
何故、この作品は観客を胸くそ悪い気分に染め上げるのか。「エリ」の余りに残酷に踏みにじられた人格に対して?嘘ばかりの会話に対して?違う、そうではない。観客は気付いているからだ。そうやって自分たちも、他人を勝手に色分けしていることを。それを、敢えて見て見ぬフリをしていることを。
冷静に、無機質に、本作は会話の積み重ねを通してこの「多数決社会」を炙り出す。「私は、私らしく生きたい」そんなことを話すその人を、心底馬鹿にし、踏みにじり、蹴散らして毎日を生きる私達を、皮肉を通してあざ笑う。
そうでもしないと、生きていけないことを前提に置きながら。
凧の象徴。
名画座にて。
2009年のベルリン国際映画祭で監督賞に輝いたイラン映画。
イスラム教義と女性が自由を求める難しさ、イラン人の文化を
まざまざ見せつけてくれる作品なのだが、加えて群像劇であり、
ミステリーにもなっているところが面白い。
A・クリスティじゃないけど^^;ある意味(犯人?)探しのような、
真相を探る過程で失踪した女性がどんな人物だったのか、
彼女と旅に同行していた友人らがどんな人物であるのかが、
並行して描かれるので最後までまったく飽きない。
彼女の自由の象徴として凧が使われているのだが、その辺りの
描写が他の場面と比べてもワリと雑で^^;ちょっと勿体ない気が。
婚約者の善悪も今ひとつ微妙で分かり辛い。
修正次第でハリウッド映画にも為り得る題材なので次作に期待。
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