「5対3の、アイデンティティ」彼女が消えた浜辺 ダックス奮闘{ふんとう}さんの映画レビュー(感想・評価)
5対3の、アイデンティティ
アスガー・ファルハディ監督がベルリン国際映画祭で銀熊賞を獲得した、人間の心の闇を抉り出す心理サスペンス。
「私は、私らしくいたいの」当たり前のように語るその人を、私は胡散臭いと感じる。「私」とは、何だ。その人は自分の性格と性質を当然のように所有している。でも、他人にとってそんなこと、知ったこっちゃない。
「あいつ、何か嫌い・・」そう誰か力のある人間が言っただけで、世間はその人を「嫌な奴」と認識する。「私らしく」はそのまま、「嫌味を撒き散らす」ことに直結する。「私」は、「誰かの多数決」で決められる。
本作には、重要な局面に多数決が持ち込まれている。「エリ」という名前以外、何も知らない一人の女性。彼女の失踪を契機に、他人同士の勝手な想像と、都合の良い解釈が一人歩きしている。そこには、「エリ」の意思も、名誉も、アイデンティティも一切が排除された「理解」がある。
「5対3の多数決」で決められた「エリ」の嘘つきという人格、男性をたぶらかそうとする意思は、真実ではない。それは、物語の流れを見ただけでも日を見るより明らかだ。だが、そんな真実なんて本当は、登場人物の中ではどうでもよい。
出来るだけ、面倒の起こらないように。分かりやすいように。世界はそんな大多数の怠慢が積もり積もって、誤解が真実にすり替わっていく。
何故、この作品は観客を胸くそ悪い気分に染め上げるのか。「エリ」の余りに残酷に踏みにじられた人格に対して?嘘ばかりの会話に対して?違う、そうではない。観客は気付いているからだ。そうやって自分たちも、他人を勝手に色分けしていることを。それを、敢えて見て見ぬフリをしていることを。
冷静に、無機質に、本作は会話の積み重ねを通してこの「多数決社会」を炙り出す。「私は、私らしく生きたい」そんなことを話すその人を、心底馬鹿にし、踏みにじり、蹴散らして毎日を生きる私達を、皮肉を通してあざ笑う。
そうでもしないと、生きていけないことを前提に置きながら。