赤毛のアン グリーンゲーブルズへの道のレビュー・感想・評価
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孤児のアンがグリーンゲーブルズのアンになるその時を、アンと共に見届けましょう。心理描写・風景描写・登場人物の何気ない仕草、それら全てが緻密に描かれた名作です。
1979年にTV放送された「赤毛のアン」の劇場版です。
TVシリーズ1話~6話 を高畑監督が編集し、孤児院から
やってきたアンがグリーンゲーブルスのアンになるまでを
描いたお話です。
TVシリーズは全話鑑賞済み。DVDも持ってます。
この劇場版の存在は知っていましたが未鑑賞。 ・△・;;
今回の劇場公開を知り、大きなスクリーンで観てみたくなり
鑑賞してきました。・_・
さあ鑑賞。 …の前に。あら
世界名作劇場について。 ・-・ ちょっとだけ
赤毛のアンは、世界名作劇場 の5番目の作品です。
(※「アルプスの少女ハイジ (1974年)」も
シリーズに含めたい所なのですが…)
1作目 1975年 フランダースの犬 哀しいけれど好き
2作目 1976年 母をたずねて三千里 アメディオ可愛い
3作目 1977年 あらいぐまラスカル 余り観た記憶が…
4作目 1978年 ペリーヌ物語 最後に報われます
初期の作品には名作が揃ってますね。ホント。そして
5作目 1979年 赤毛のアン
監督 高畑勲
原作 ルーシー・M・モンゴメリ
脚本 高畑勲 他数名 ( …端折ってゴメンなさい +_+ )
場面設定 宮崎駿
場面構成 宮崎駿
作画監督 近藤喜文
キャラデザ 近藤喜文
後のジブリ主力となるそうそうたる顔ぶれです。 ※あ モンゴメリ除く
特に、近藤喜文さんの描くキャラクターが好き。
40代での早世が本当に惜しまれます。うー。 ・△・;;
当時の世界名作劇場は、1月から12月まで1年がかりの放送でした。
今の作品が1クール(四半期)単位での放送が多いのに対し、
当時は1つの作品を1年かけてじっくりと作ることができたということ
です。 なので、流れる時間も ” ゆったり ” とした感じがします。
場面設定などで赤毛のアンに参加していた宮崎駿さん。
エンターテイメント作品が好きな方ですよね。
赤毛のアンの前には「未来少年コナン」の制作に加わってました。
この作品は、牧歌的生活感と近未来SFが融合したような作品で
ヒロインのラナは宮崎監督が好みそうな美少女です ♡
で、「赤毛のアン」 なのですが、エンタメ性があるかと言われると…。
うーん。そもそもそういうジャンルの作品では無い訳なので…。
というわけで
宮崎監督、赤毛のアンのスタッフを抜けて他の作品に参加して
しまいます。その作品が「劇場版 ルパン三世 カリオストロの城」。
うん。これは誰が観てもエンタメ作品です。
ヒロインのクラリスは宮崎監督が好みそうな美少女です ♡ ♡
で、高畑監督。赤毛のアンに力を注ぎます。
当時の暮らしぶりを、可能な限り調べては詳しく描写することへの
こだわりは、高畑監督の真骨頂と言っても良いかと。 ・-・
動と静。
陽と陰。…いや 陰ではなく「影」かも
大胆さと緻密さ。
振り返ってみると、高畑監督、宮崎監督ともに、自分の好きな
作品に取り掛かれて良かったということなのかと思います。
はい、鑑賞終了。良かった♡
TVシリーズの1話~6話がベースになってます。
高畑監督が自ら再編集しているとのことで、カットされた場面もある
ハズなのですが、展開がとてもスムーズ。カットされた事で、前後の
繋がりが不自然に感じた場面は、全くありませんでした。
アン、マシュウ、マリラ。
3人がグリーンゲーブルズで暮らし始めるまでの、心の動きがとても
細やかに描かれた作品です。レビュータイトルにも書いた通りに
「孤児のアンがグリーンゲーブルズのアンになるその時を、アンと
共に見届けましょう。心理描写・風景描写・登場人物の何気ない
仕草、それら全てが緻密に描かれた名作です」
この劇場版の続きが気になった方、TVシリーズの続きの話を
ぜひご覧になって下さい。
赤毛のアンの世界を堪能できると思います。
◇マシュウ
無口で温厚なマシュウ
マリラの操る馬車がグリーンゲーブルズを離れていく場面。
後ろを振り向いて別れを口にするアン。
” さようなら ”
哀しい惜別の言葉。
思わず馬車の後を追うように足を踏み出すマシュウ。
2歩、3歩と。
胸を切り裂かれるような、切ない場面。
やがて戻ってきた馬車。
アンが乗っているのに気がつくと、何事も無かったかのように
いそいそと畑仕事に戻っていこうとするマシュウ。
マシュウさん 皆 知ってますよ。
馬車が二人を乗せて帰ってくることを祈りながら
馬車が帰ってくる方向を、何度も見にきては戻っていく。
夕方マリラの馬車が戻ってくるまで何度もそれを繰り返し
畑仕事も牛の乳しぼりも、その日の仕事が何もかも
全く手に付かなかったことを。
” わしらの方が、あの子の役に立てるかもしれんよ ”
グリーンゲーブルズのお話の始まりです。
◇最後に
畑で種蒔きをしているマシュウを見つけ駆け出すアン。
小石につまずき、マシュウに飛びつくように抱きつく。
” 私、グリーン ゲーブルズにいられるようになったの! ”
満面の笑顔。そして流れ始めるエンドロール。
なんと幸福感に満ち溢れたエンディングであることか。
☆映画の感想は人さまざまかとは思いますが、このように感じた映画ファンもいるということで。
スタジオジブリの新作並みの上質作を何年間にもわたり毎週観られたことは実に豊かで贅沢な時代でしたね。
新作アニメ『アン・シャーリー』がNHKで放送中のL・M・モンゴメリ原作『赤毛のアン』。
日本アニメーション創業50周年を記念して1979年に「世界名作劇場」で放送された高畑勲監督版『赤毛のアン』(1~6話再編集版)が5月30日(金)から2週間限定公開中。
『赤毛のアン~グリーンゲーブルズへの道~』(2010年/100分)
フジテレビがまだ「母と子のフジテレビ」のキャッチフレーズだった1979年、毎週日曜19時30分の「世界名作劇場」第5弾として全50話放送。
本作はアンがグリーンゲーブルズへやって来て、カスバート兄妹に正式に引き取られるまでの第1話~6話を再編集。
監督・脚本は高畑勲氏、キャラクターデザインはのちに『耳をすませば』」(1995年)を監督する近藤喜文氏、宮崎駿氏も場面設定・画面構成で参加と今思うと何とも豪華な布陣。
45年以上前の作品で技術面では今と大きな差はありますが、近藤喜文氏の描くキャラクターは洗練されたデザインで、実に生き生きと実写作品以上に真に迫っています。
さらに感受性豊かで空想好き、立て板に水のごとく喋り続けるアンの独特のキャラクター設定も脚本も手がける高畑勲監督が上手に演出していますね。
主題歌「きこえるかしら」「さめないゆめ」も子供向けアニメのレベルを遥かに超えた甘美で壮麗なアニメ史に残る名曲。
世界名作劇場の枠は古くは『ムーミン』『アルプスの少女ハイジ』、その後『フランダースの犬』『母をたずねて三千里』『あらいぐまラスカル』『ペリーヌ物語』、そして本作とスタジオジブリの新作並みの上質作を何年間にもわたり毎週観られたことは実に豊かで贅沢な時代でしたね。
再編集版? ほんとに?
オリジナルを見たことがなく、この映画だけ観ての感想。
とにかく想像力先行でつんのめってしまうアンの魅力!これだけでぐいぐい持ってかれてしまう。高畑勲作品では一番好きかもしれない。
受け入れ先のおばさんの心境が変化しただけと言えばそれだけの話ではあるが、そこに至るまでの手順が丁寧。これは受け入れざるを得ないよ、と誰もが納得してしまうだろう。
あとTwitterの指摘でも見たのだが、アンが里子に出されていた時、ほんとは酷い目にあったはずなのに「でもね、おばさんたちは私によくしてくれようとしてたはずなの」と語るとこ、ここはマジでうまい。グッと心を掴まれてしまう。
この後、テレビシリーズを全話見るつもり。アンのしゃべりを私もずっと聞いていたいからだ。
新作TV版と比べても
きこえるからしら さめないゆめ
2025年映画館鑑賞53作品目
6月1日(日)イオンシネマ新利府
ファーストデイ1100円
監督と脚本は『火垂るの墓(1988)』『おもひでぽろぽろ』『平成狸合戦ぽんぽこ』『ホーホケキョとなりの山田くん』『かぐや姫の物語』の高畑勲
脚本は他に『高原のお嬢さん』『青春ア・ゴーゴー』『孤島の太陽』の千葉茂樹と翻訳家の磯村愛子と『救いたい』の神山征二郎
粗筋
田舎で二人暮らしのカスバート老兄妹は共に独身で子供がいなかった
働き手として10歳くらいの男の子を孤児院から預かり教育を受けさせ家庭を持たせ後継ぎになってもらおうと考えた2人だったが手違いでやって来たのは11歳のお喋りな女の子だった
孤児院に返すつもりだったが考えを改め引き取ることに
時代は1890年代
カナダのプリンスエドワード島
愛媛県とほぼ同じ広さで東京都の3倍の広さ
当時はわからないが今の人口は13万9千人くらい
深谷市と同じくらいだが人口密度は全く違う
島ごと州でプリンスエドワードアイランド州とも呼ばれている
島といっても大きめの島で島の有力者の働きかけのためか馬車だけでは不便なので汽車も走っていた
車社会のためか今では廃線になっている
その代わり本土から橋が掛かっていて州都シャーロットタウン行きのバスが走っているらしい
赤毛のアンの故郷として日本人観光客がそこそこやって来るそうだ
ラムサール条約に指定されるような自然豊かな肥沃な土地だが要するにド田舎
それでも愛媛県よりは一万人ほど人口が多い
グリーンゲイブルズとはカスバート兄妹の自宅の屋号のこと
TVアニメ1話から6話の再編集のため名前こそ出るが親友ダイアナそのものは登場しない
土地柄に合わせたのか随分とのんびりとしたアニメで第4話なんてアンとマリラが自宅から馬車でスペンサー夫人の家に到着する前のおしゃべりだけに終始している
見所はアン独自の世界観から駆り出すマシンガントークと現実主義者マリラの冷たいツッコミという会話劇
マシューは女が苦手だがちょっとした恥ずかしがり屋であってヒゲゴジラのような恨みがあるわけでなさそうだ
口数は少ない
アンのおしゃべりには「そうさのう」程度でツッコミはない
アンは赤毛にそばかすで痩せ方の少女
呆れるほどのおしゃべりだがブルエット夫人のようなタイプに出くわすととたんに無口になる
アンは幼い頃に両親を亡くし身内を盥回しにされた挙句に孤児院生活に
だからといって番場の忠太郎のようにヤクザになるわけではなかった
彼女の妄想癖は詩的でポジティブで憎悪がない
それは彼女が生きるための希望そのもの
ネトウヨの妄想にはアジア系外国人やパヨクに対する憎悪
パヨクの妄想には保守に対する勘違いにも似た憎悪
キモオタの妄想には美少女アニメを嫌う者たちへの憎悪がある
他責思考の彼らは敵がいないと自分を保てないのだ
妄想癖といってもアンとは歴然な違いがある
多くの人々から赤毛のアンが長く愛される理由のひとつがそこにある
彼女の生き方そのものが赤毛のアンを不朽の名作にしている
スクリーンで初めて観た赤毛のアン
オープニングテーマ『きこえるかしら』に胸踊る「懐かしい」
歌い始めたらすぐに間奏に入るがあれがまた良いんだな
生まれつきの野暮天な自分でもこのサイズでやっとアンの感動に少しは近づけた気がした
グリーンゲイブルズへの花の道はアンの希望
だが自分はお喋りな人は苦手だ
仙台やイオンモールなどで仕事上話しかけて来る知らない人も嫌いだ
仕事のため話しかけても考え事をしているのかなかなか口もきけない人も苦手だが
マリラのような発言はできないが「そうさのう」と言える包容力?があるお爺さんにはなりたいものだ
仕事上話しかけて来るのは仕事だから仕方がないがとはいえ幼い子供じゃないんだからおじさん相手にうまい棒を数本差し出されても手に取ることはない
ノルマをこなして早く帰りたかったのだろう
藁にさえなれなくて済まないが知らない人から貰ううまい棒はいらない
ポケットティッシュとかならともかくうまい棒ってなんだよ
それが最近のトレンドか
配役
幼い頃に両親を失い孤児院からカスバート兄妹の元で育てられることになったおしゃべりで妄想好きなアン・シャーリーに山田栄子
カスバート兄妹の妹で料理が上手だが現実主義者でアンのおしゃべりに辛辣なマリラ・カスバートに北原文枝
カスバート兄妹の兄で農業と貯蓄の利子で生活している「そうさのう」が口癖で内向的なマシュウ・カスバートに槐柳二
ナレーションに羽佐間道夫
グリーンゲイブルズの近所に住むおしゃべりなおばさんでマリラとは古くから友人のレイチェル・リンド夫人に麻生美代子
男の子を欲しがったカスバート兄妹に対し手違いで女の子を連れてきたアレキサンダー・スペンサー夫人に坪井章子
最寄駅の駅長に塩見龍介
ホワイトサンドのスペンサー夫人の家に馬車で向かう途中で声をかける主婦に高村章子
スペンサー家にやってきてアンを子守として欲しがった意地悪そうなお婆さんのブルエット夫人に京田尚子
スペンサー家の娘でリリーを妹のように可愛がるフローラ・ジェーン・スペンサーに吉田理保子
スペンサー夫人が孤児院から引き取った幼い女の子のリリー・ジョーンズに貴家堂子
劇場版のエンドクレジットにはなぜかアンとカスバート兄妹とナレーター以外役名がない
リリーの声はたしかにタラちゃんの声
名字も名前も読めない人名ってなかなかない
アニメーションのオーパーツ物
当方、テレビシリーズを放送当時から毎週ワクワクしながら見てきた者として、幻の再編集版がついに映画館で上映されるとのアナウンスがあった当初からずっと楽しみに、初日の初回上映を観てきました。
テレビシリーズの1話から6話までを100分に編集したとなっておりましたが、テレビ版をほぼ全編ベタで流しているのではないか?と思えるくらいでストーリー的にも演出的にも違和感がありませんでした。
唯一、アンがグリーンゲーブルズの桜の木とゼラニウムに名前を付けるシーンがカットされているのに、グリーンゲーブルズを離れる場面で馬車の上からその名前を叫ぶシーンがありまして、初見の人は何に向かって叫んでるかわからないだろうなあ〜と思いましたが(というか、初見の人なんているのか?と思いながら見ておりましたが)、グリーンゲーブルズに戻れるようになってから「雪の女王様(桜の木の名前)、ボニー(ゼラニウムの名前)、これからもよろしくね〜」というアンの歓喜の叫びできちんと伏線回収してくるあたり、うまく時短編集しているなあと思いました。
というか、驚くべきは映像!!
当時13インチのテレビ画面で観ていたものを劇場の大画面で見ても、否、劇場の大画面で見るからこそ情報量が多く、なによりグリーンゲーブルズの自然が、人々が本当に美しい!
アンがアップでゆっくり振り向いていくシーンなどもシレッと表現しておりましたが、実は当時のアニメーション技術として物凄いことをやっていたというのが今だからこそわかりまして、驚愕するとともに大画面で観る価値が十分にありました。
とは言え、当たり前ながら画面サイズは4:3ですし、音響はモノラルですし、IMAXで見慣れてる現在の視聴環境からすると最初は違和感がありましたが、そんな些細なことはすぐに忘れさせられまして。やっぱり大切なのは作品の質じゃん!と思いました。
そんなんでこの作品、あの時代のアニメのクオリティとしては映像もストーリーデリングも全てがオーパーツものです。
短い上映期間ですが、気になる方は是非ともお見逃しのないようオススメいたします。
最終話「神は天にいまし、すべて世は事もなし」につづく話
ルーシー・モード・モンゴメリ先生原作の「赤毛のアン」のテレビアニメ化がされたのが1979年、私が小学生低学年の頃のこと。当時、再放送含めバトルヒーローものの鑑賞に忙しかったはず・・・の私が、なぜかこの地味な児童文学の匂いのする「赤毛のアン」に心を強く惹かれ、よくテレビ鑑賞してました。最終話「神は天にいまし、すべて世は事もなし」は印象的で題名を覚えました。当時は古語的言い回しゆえ、意味がよく分からなかったけど(笑)。
学生時代シリーズ全50話、ビデオレンタルで見直した際、改めて傑作であることを確認しました。また高畑勲さん宮崎駿さん、近藤喜文さんら・・・当時のジブリの重鎮が揃いも揃って参加していたことをその時知り、驚愕したのは言うまでもありません。彼らが子供向けテレビシリーズだからといって妥協するわけなんかなく、その凄まじいほどの完成度から心血注ぎ、魂削ってこの作品を作り込んでいたのは想像に難くありません。
今回、シリーズ6話までの再編集版を高畑勲監督自ら制作いただいたものが劇場の大スクリーンで鑑賞できるということで、グリーンゲーブルズに向け、正装したマシュウ・カスバートと馬車で疾走するアン・シャーリーの如く胸を躍らせて映画館に足を運びました!
そして映画冒頭、お約束の主題歌とアンを乗せる幻想的な馬車のシーンで初っ端から感涙です!
ただ、思い出補正だけで過大評価してるみたいなレビューと思われると癪なので(笑)、以下整理しました。
この作品の秀逸なところは
・グリーンゲイブルズの周囲の自然、人工物含めて美しく魂が宿っている様な素晴らしい背景美術。
・過剰気味な言葉以上に、目で語るアン・シャーリー。想像を巡らすときは心ここにあらずな虚空を見つめる様な描写が多々みられる。これ、演出上本当に素晴らしい!
・原作に忠実かつ、行間を読み込む様な深い理解をした上での映像化!今、某国営放送で上っ面だけ綺麗にリメイクしてる製作者は教科書として原作本と合わせてテレビシリーズ全50話見返してたら良い(笑)。
残念なのは、今回の総集編が物語のさわりではあるが、ほんの導入部分のみってことです。もう、これは全集ブルーレイで買えってことなんでしょうか(検討中。たぶん買います!)
ぜひ、ご鑑賞を!
アンが愛おしく、描写が美しい
夢見る少女
ぜひ!4:3を映画館で見られる最後のチャンスかも
リバイバル上映にて鑑賞しました
見ておいて良かった作品と感じこの機会に感謝します
テレビ版「アン・シャーリー」に合わせてのリバイバルですが
高畑勲監督が「何を大切にして」再構成をされたかが改めて感じられた作品です
私自身は原作を侮蔑しなければ改変表現は許容出来るほうだと思っていましたが
「省いてはいけない部分」「表現しないことにより理解出来る後景」を含ませる事の
重要性を痛感しました
なぜアンがうるさいほどに言葉多く語るのか、比喩装飾表現や自身の感情を
自然や物事に投影して関係性を持とうとするのか
ともすれば説明臭いと捉えられる表現を当時に高畑勲監督が作り上げたことは
とても意義深い事と感じます
(当時はそんな事はわかってもいませんでしたが)
テレビ版「アン・シャーリー」も良い出来だと感じますが
モンゴメリ原作の「赤毛のアン」の人物像とは別人に感じてしまいました
良い機会ですので原作を読み直してみたいと思います
素敵な事が始まる予感がいっぱい
TVシリーズの6話までを高畑監督自身が編集した劇場版「アン」。
しかし公開に至らずお蔵入り、20年を経てやっと公開された作品です。
今はなきシネマ・アンジェリカでやっていました。
監督 高畑勲、画面構成 宮崎駿、キャラデ・作監 近藤喜文、美術 井岡雅宏という錚々たる顔ぶれです。
また編集のつなぎが見事で、一本の作品のような見事な仕上がりでした。
そして久しぶりに観たけど、本当にアンは素敵。
あの止めどないお喋りも魅力的なんです。これはアン役の山田栄子さんの声があってこそでしょう。
あの感情の振り幅は実に見事だと思います。
劇場版は長い物語の一番最初。ずっと孤独孤独を感じていたアンに、初めて居場所が見つかるまでが描かれています。
野良仕事を期待して男の子をもらうはずが来たのは女の子。
この行き違いには双方が絶望的な気持ちに。
でも段々とマリラの考えがアンに寄り添ってくるのが、見ていてすごい嬉しくなるんですよ。
そうした中、あの家に戻ってこれた時のアンの笑顔がまた素晴らしい。
これから新しい生活が、素敵な事が始まる。
そんな予感がいっぱいの作品でした。
観客皆んながアンに魔法をかけられる、滋味に富む一本。
1979年放送のテレビアニメ『赤毛のアン』を、劇場公開用に再編集した作品。
男の子の養子を貰い受けようと思ったカスバート兄妹だったが、孤児院から送られてきたのは11歳の女の子アン・シャーリーだった。
カスバート兄妹の暮らすグリーンゲーブルズに胸躍らせるアンの心境と、カスバート兄妹との交流を描いたハートフル・アニメ。
監督/脚本/絵コンテを担当したのは『火垂るの墓』『平成狸合戦ぽんぽこ』の、日本アニメ界のレジェンド高畑勲。
場面設定/画面構成を担当したのは『となりのトトロ』『千と千尋の神隠し』の、言わずと知れたレジェンドである宮崎駿。
本作は1989年には完成していたが、諸事情により劇場公開出来なかった作品であるらしい。完成から20年の時を経て公開された不屈の作品である。
全50話のテレビアニメの第1〜6話を纏めた作品であるため、特別なドラマが展開されるわけではない。序破急の序だけを観ている感じがする、というか正にその通りの作品。
じゃあ、映画としてつまらないのか、と言われると決してそんなことは無い。
テレビの総集編とは思えない程纏りのよい物語となっており、地味な物語ながら観客の心を惹きつけるチャームを持った作品となっている。
本作の魅力は何かと問われれば、やはりアン・シャーリーというキャラクター造詣にあると答えなければならない。
アンは空想好きでおしゃべり、自然を愛する、自分の見た目にコンプレックスを持つ、孤児院育ち、という後のジブリ作品のヒロインが持つ特性を全て兼ね備えている。
マリラおばさんに自分の名前を教えた時に、Eのついた「ANNE」の発音で自分を呼んで欲しいという件がある。
DVD特典の監督インタビューで、ここに表されるアンの感受性について高畑勲が大いに興奮しながら解説していたが、たしかにこのキャラクター描写は素晴らしい。
アンは言語を操る時に、音声と文字を結びつけることができる感性を持っており、この感性は日本語を操る我々には自然に備わっている云々、という高畑勲の言語論は非常に面白いので、特典映像のチェックはマストである。
このアンのおしゃべりが面白い😆
止まることを知らないマシンガントークと、お花畑な頭の中に初めのうちは鬱陶しさを感じるが、アンの仕草の愛らしさもあり段々と愛着が湧いて来る。
マリラおばさんの言うように、観客もアンに魔法をかけられるのである。
アンのポジティブなシンキングは、この暗いご時世にズシンと響く。
「これから発見することがあるなんてステキだもの。もし何もかも知ってたら、きっとつまらないわ。だって想像することがなくなっちゃうでしょ。」
「こんな朝には、もう世界が好きで堪らないって気がするでしょう?」
「朝はどんな朝だって面白いわね。その日のうちにどんな事が起こるのか分からないので、想像の余地がふんだんにあるんだもの。」
「楽しもうと決心すれば、たいていいつでも楽しくできるものよ。」
書いているだけで目頭が熱くなるような、世界に対しての圧倒的な肯定感。過酷な環境で育ったアンが放つ言葉だからこそ、観客は胸を打たれるのだろう。
この少女の物の見方から学ぶことは多い。
高畑勲の懐刀、近藤喜文の手がけたキャラクター・デザインも秀逸。
アンの容姿は、明らかに当時の美少女キャラクターとは一線を画す。『機動戦士ガンダム』のセイラさんや『ヤッターマン』のアイちゃん、『キャンディ・キャンディ』のキャンディなど、当時は金髪でハデな顔をした美少女がトレンドだったのだろうが、それらとは対照的な、赤毛でそばかす顔のアンのルックスには不思議と目を惹きつけられる。
流行りに乗っかっただけの美少女キャラにしなかったことにより、時代に左右されることのない魅力的なキャラクターとなったのだろう。
ちなみに、宮崎駿はアンのことが嫌いだったらしく、シリーズの途中で降板している。そして作ったアニメが『カリオストロの城』。物静かで可憐な顔をしたクラリスは確かにアンとは真逆。よっぽどアンを描くことに鬱憤が溜まっていたのだろうか。宮崎駿らしいといえばらしい。
お話は恐ろしいほどに地味。しかし、確かに心に響く強い力を持ったアニメーションであり、今の子供にも見せるべき素晴らしい作品である。
自分はテレビシリーズの『赤毛のアン』は鑑賞していないが、そちらも観てみたくなるほどの出色の出来。
細田守監督が選ぶ、ベスト高畑勲アニメが『赤毛のアン』だとインタビューで言っていたが、なる程納得である。
原作の第1巻は1908年の作品であり、なんと今から100年以上前!
それでも、なんとなくとはいえ読んだことがあると言う人も多いのではないだろうか。自分も1巻だけは読んだことあったし。
かなり原作の雰囲気を再現しているようで、昔読んでいた記憶が蘇ってきた。かつての読書体験のノスタルジーに浸りたい人にもオススメ😁
寝ちゃったけど、やっぱ何度見ても良い。
高畑勲監督の追悼上映なのかな?アニメの編集版ですが見てきました。出町座です。アンを見るならイチゴ水を飲みながらよねってことで、併設のカフェでイチゴソーダを買いました。
えーこの日は映画3本見たのでね、疲れてましてね。
マリラがアンを連れてスペンサー夫人の家に行って帰って来るまでの部分、だいたい寝てました。てへ。
きもちよーくお昼寝しちゃいました。
でもまぁアニメ見てるし、小説も読み直しているし、いいんです。
悲しいかな、70年代のアニメなので画角が小さいのよ、デジタルリマスターでも。それがさみしかったです。
寝ておいてなんですが、なんで私はこんなに「赤毛のアン」に惹かれるのでしょう。村岡花子訳に飽き足らず松本侑子訳でも読み始めてるし、おんなじところでなくし、切なくなるし、嬉しくなるし。
なんでしょうね、清らかで、現実から遠いものにそっと癒されているのかなぁ。
オープニングが好きです。物語中でもアンの空想の描写に切なさを感じます。ゾクゾクっとするんではないですね(ごめんねアン)。目の奥が潤むんです。かつての自分の世界だったからかなぁ。
世界名作劇場はリアルタイムで観てなくて、小説も子供時代にはなぜか縁がなくて、どちらも30代を迎えてから知って、好きになりました。それから数年たってますが何度も読み返しています。
アンが手違いでクスバート家にやってきて、クスバート家で引き取られることが決まるまでを編集しているので、ダイアナもギルバートも出てきません。
グリーンゲイブルズが我が家になったことを知ってから、アンが歓びを噴出させながら風景にひたるシーンがクライマックスですね。いや、マシュウに「そうさな、これからはグリーンゲイブルズのアンだよ」みたいなことを言われてマシュウに抱きつくところかなぁ。何度見てもいいシーンだ。
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