「王道のSFも、アイデアと演出次第でこれだけ斬新になる」月に囚われた男 緋里阿 純さんの映画レビュー(感想・評価)
王道のSFも、アイデアと演出次第でこれだけ斬新になる
デヴィッド・ボウイの息子ダンカン・ジョーンズ監督・脚本(共同脚本:ネイサン・パーカー)によるSFスリラー。何と本作が長編初監督作だというから驚きだ。
3年間の月面基地での1人孤独な任務も、残すところあと2週間。男は妻子の待つ地球への帰還を心待ちにするも、作業中の事故で負傷。目を覚ました彼は、事故現場に疑問を持ちーー。
低予算ながらもアイデアの素晴らしさ、確かな脚本力によるストーリーテリング、主演のサム・ロックウェルの演技力によって、最後まで目が離せない圧巻の一作!
また、原題はシンプルに『MOON』だが、この邦題は本作を的確に表しており非常に優秀。
電力制限や食糧不足、排気ガスによる大気汚染等、地球は様々な問題を孕んでおり、エネルギー資源は底を突きかけていた。しかし、世界最大の核燃料生産者ルナ社は、太陽エネルギーを含んだ石を月の裏側で発掘し、地球のエネルギーの7割を供給。地球は再び豊かな惑星へと蘇った。
ルナ社が月面に建設した採掘作業用の基地では、3年間の雇用契約で作業員がたった1人で作業を行っていた。
主人公のサム・ベルは、孤独な月面での作業に苦しみながらも、地球に残した妻のテスと3歳になる娘イヴの待つ家に帰る事を心の支えに、任期満了まで残り2週間という所まで来ていた。通信装置の故障によって、地球との直接通信が不可能という状況から、会社や家族とのやり取りはビデオメッセージのみ。
サムは頭痛や幻覚といった体調不良により、誤って熱湯で右手を火傷してしまう。それでも、唯一の相棒である人工知能ガーティから治療を受け、懸命に採掘作業に当たる。しかし、不慮の事故によって採掘車に入る直前に移動車が大破。右目を負傷し、そのまま意識を失ってしまう。
目が覚めると、サムは基地の診察台の上。ガーティによれば、事故で眠っていたのだという。しかし、眠っていた期間は短いとガーティは言うが、右目の負傷や右手の火傷の跡は無い。更に、直接通信が不可能なはずの基地内で、ガーティと会社が直接通信している光景を目の当たりにしてしまう。
不信感を募らせたサムは、強引に事故現場へと向かい、車内に乗り込む。するとそこには、意識を失ったもう1人の自分が居た。
意識を取り戻したサム(1人目)は、もう一人のサム(2人目)といがみ合いながらも、徐々に月面作業に隠されたルナ社の陰謀に迫ってゆく。
ラストで物語としての決着をキチンと着けつつも、随所に考察の余地を残した興味深い脚本が気に入った。
それは、サムのオリジナルは何処に居るのか?という点だ。
ガーティの話によると、オリジナルのサムは月面着陸時の事故で亡くなっているという。しかし、この“真の1人目”とも言うべきサムもまた、クローンである可能性があるのだ。何故なら、サム(1人目)が通信装置を持って妨害電波の放たれていない地点で地球との交信を試みた際、既に15歳となっていたイヴの側には「パパ」と呼ばれる存在が居たからだ。
つまり、オリジナルのサムは自身の遺伝子をルナ社に提供する事で既に報酬を得ており、地球で普通に家族と生活していた可能性があるのだ。でなければ、月面基地にあれだけのクローンが用意されていた事の説明が付かない。地下に建設されたクローンの保管場所は、明らかに月面基地の建設時に計画的に設けられたものだろう。もし、着陸時の遺体からクローンを複製したのだとすると、イヴの言う「パパ」が顔を出しても良さそうなものだ。しかし、顔は見えない。オリジナルのサムか、あるいはテスが生前に再婚した相手かは、観客の判断に委ねるしかないのだ。
しかし、もしそうなのだとすると、ビデオメッセージでのテスのバツの悪そうな会話も頷ける。真相を知っているからこそ、クローンのサムに対する罪悪感から不自然な振る舞いになったのではないか?
サム(1人目)によると、元々短気な性格が災いして、テスは一度半年間実家に帰っていたと語っていたが、それだけがあの態度の理由だとするには少々弱いようにも感じられる。
もう一つ気がかりなのが、テスのビデオメッセージの画面の構図だ。部屋の奥の空間、すりガラスの奥に誰かが居るようにも感じられるのだ。こうした絶妙なバランスで成り立っているサムのオリジナルに関する疑問点がこの作品の面白い所だ。
あれだけ再会を待ち望んでいたテスは既に亡くなっており、3歳だと思っていた娘は15歳になっている。おまけに、娘の側には「パパ」と呼ばれる保護者まで居る。深い絶望に包まれながら、「帰りたい」と涙するサム(1人目)の姿はあまりにも切ない。
月面に佇む移動車とその奥に見える地球のショットは、まるで絵画のような美しさを放つと同時に、サム(1人目)の置かれた悲痛な状況をも鮮明に映し出す。このシーンは間違いなく本作の白眉だ。
このルナ社のクローン技術による究極の人件費削減が恐ろしい。1人の人間を複製し、事故や任期満了毎に新しいクローンを目覚めさせ、延々と作業を続けさせる。「ようやく帰れる!」と、期待で胸を膨らませてポッドに乗り込む以前のサム達は、恐らくその瞬間にポッド内で蒸発させられたかで廃棄処分させられていたのだと思う。
また、もしオリジナルのサムも生きているのだとするのなら、ルナ社と同じくらい恐ろしい存在なのかもしれない。
クライマックスでのサム(2人目)による、「我々はプログラムじゃない。人間だ。」という台詞や、冒頭の“Where are we now?(今の僕らは?)”というフレーズが象徴するように、彼らもまた意識と意思を持ち生きているのだ。作業を滞りなく行う為だろうが、記憶の移植まで済まされているのが何とも悲しい。“知識”として確かに自分の中にあるのに、“経験”としては存在しないのだから。
また、トイレの壁に描かれていた残りの任務日数を示すニッコリマーク。アレも果たして何人目のサムが描いたものなのか。こうした細かな部分にまで考察の余地が与えられているのは、実に面白いし、考えていて楽しい。
この複数人のサムを演じ分けたサム・ロックウェルの演技力の凄まじさを忘れてはならない。特に、病気からか次第に衰弱していくサム(1人目)の姿が印象深い。ともすれば、クローンは個体毎に平均寿命が予め設定されているのでは?とすら思わせてくれる。
そう考えると、サム(2人目)は1人目の事故により急遽覚醒させられたが、この先の人生にどれほどの猶予が残されているのだろうか?まるで『ブレード・ランナー』のレプリカントを見ているようだ。他にも、月面基地は『エイリアン』のノストロモ号の船内を彷彿とさせるし、人工知能のガーティは『2001年宇宙の旅』のHALの真逆で非常に友好的と、数々のSF映画の名作達を思い起こさせる。
ラスト、無事地球に辿り着いたサム(2人目)はルナ社の悪事を告発し、真実が白日の下に晒される。サム(2人目)が全てを終えた時、サム(1人目)が望んだような旅に出られる事を祈らずにはいられない。彼にとっての“オリジナル”としての人生は、きっとその瞬間に始まるのだから。