「自分1人しかいないはずの月面上の基地の外で事故にあい、意識をなくし...」月に囚われた男 supersilentさんの映画レビュー(感想・評価)
自分1人しかいないはずの月面上の基地の外で事故にあい、意識をなくし...
自分1人しかいないはずの月面上の基地の外で事故にあい、意識をなくしてしまう主人公。基地の診療室で意識を取り戻すものの、誰が救助したのだろうという謎は残される。事故のリハビリのためだという理由で外出を許可しないAIガーティを欺き、基地の外に出た男は、自分によく似た男を救出することになる。まもなく助けた男も目を覚まし、互いに状況が飲み込めないまま映画は進行する。
映画を見ている僕らはあまりにもよく似た二人の男に困惑させられる。事故にあったときに見た少女の幻影のように、どちらかが幻で実は存在しないのではないか。でもそれも違うような気がする。彼らは互いを罵っていただけではなく、殴り合い、血を流しさえしていた。そう考えると、そもそもすべてが夢の中の話で、現実ではないのではないか。夢が覚めてはじめて僕らはそれが夢であったと認識する。
世界に自分一人しかいない状況というのは、主観と客観の境目がない世界のことで、それはすなわち「主観」がそのまま「世界のあり方」につながることを意味する。精神病の人の住む世界をのぞいて、社会的生活を送る僕らには体験し得ない世界だ。そう考えながら映画を見ていると不安な気持ちになってくる。自分が見ている世界が客観性を伴ったリアルなものだと本当に言えるのか。自分が精神病でないと自分で自覚することに、どんな客観性があるのか。
事態は急展開する。ガーティがクローンの存在を認める発言をするのだ。見ている僕らは謎が氷解するカタルシスを感じる一方で、その事実の本当の意味に気づき戦慄する。どちらかがクローンでどちらかが本物であるならば、自分が本物であることに疑いの余地はない。自分こそがホンモノのほうなのだ。果たしてそうだろうか。自分が本物だという根拠はどこにもないのだ。
月の世界。SF。宇宙の景色。そういうものを見ていたはずが、いつのまにか、自分とはなにかという哲学的な問いに不安な感覚を覚えている。クローンという説明を受けた後では、思考の前提となるフレームワークそのものが、代替可能なもので前提になり得ないと気づかされる。
映画「マトリックス」を見た時に感じた「劇中劇」のあの奇妙な感覚を思い出す。自分たちが「現実だと信じ、生活していた世界」はすべて「意識の世界が作り上げた仮想現実」で本当の現実、本体は「プラグにつながった生き物のようなもの」であるという事実。そんな受け入れがたい事実を否定する説明、反証ができないことの拭きれない不安。あの不安は紛れもなく悪夢といえる。
地球に住む人類に資源を送り出すために、月面基地で採掘を続けるクローンの物語。3年契約で働いているつもりのクローン。実態は代替可能なクローンの交換で作業を継続させていて、そういう悪徳企業の実態が暴露されましたという話。それは外側から眺めればそういう話なのだろう。でもこの映画の論点はそこにはない。クローンを交換するなら廃棄すればいいものをなぜ保管してあるのか。交換しているはずならなぜ救出にくる必要があるのか。ツッコミどころはいろいろあるだろう。でも、少しでも想像力のある人なら、そういう外形的な物語よりも、シンプルな構造故に醸出される、「自分とはなにか」という存在論的な問いかけに魅了されるはず。
クローン同士が反目するのではなく、互いを思いやるというのも興味深い。互いを「自分の分身」と思うからこそなのか。そうではなく、互いがそもそも「分身」であるために生じる偶然、同じ「思考」によることによる必然なのか。
相棒として存立するAIのモデルも興味深い。「2001年宇宙の旅」のHALのように、人間に対する制御装置として、すなわち対立軸として描かれることの多いSF映画のAIだが、この映画のAIガーティは人間的な感情を獲得、模倣する過程で、プログラムから自立した行動を選択する。
自己と他者。自分と世界。人間とAI。世界の未来。良質なSFは科学から飛躍し、哲学や宗教、精神世界をも内包する。プラットフォームが変われば思考体系は変わる。まさにそこにサイエンス・フィクションの面白さがある。