必死剣鳥刺しのレビュー・感想・評価
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人生終焉の地を求めて
一人の男の死に場所を求める旅、とでも言おうか。
まるで司馬遼太郎「燃えよ剣」の土方歳三のような。
そんな男の生き様を日本らしい時代劇で見せる。
時間軸を行ったり来たりしながら主人公の人間性を見せる。
そして、行為に走った背景を見せる。
見てる側(我々は)は肩入れしたくなるのがどちらかは明白だ。
忠義を差し置いても大切なものはなにか。
しかし、最後に向かうシーンは残酷でありながらも非常にリアル。
こんなことは当時や今の社会生活では弱肉強食は日常茶飯事であろうし、主人公も半ば分かっていたかも知れない。
やはりそうだったか!という表情としてみるか、まさか!という表情にとるかは見てる側の自由だ。
その選択を与えてくれる演技をした豊川悦司は見事。
そして個人的に肩入れしてしまう別家・吉川晃司も見事な殺陣。
吉川晃司は、役者としてスクリーンに出たときは目力が良い、目の動きでその人を表すのが上手い。
殺陣以外にも別家の義を見てしまうため、主人公とどうして!と言いたくもなるが、そこは最後のカタルシスのためには必要というもの。
全体的には静かな展開で進むものの、日本劇のよさを改めて知る佳作でした。
この坦々とクライマックスへと向かう雰囲気が最高!
この坦々とクライマックスへと向かう雰囲気が最高!
藤沢周平の世界観です。とっても支持できます。
「なんであんたらが殺し合うのよ!」と突っ込みたくなる悲しさは、封建制社会の矛盾とでもいうんですかね。
仕方のない事ですかね~。
ただ残念なのは、最後の最後のオチ 『 必死剣 』 なんですけど、映画の途中で何度も説明があるもんで、「あ~今から必死剣が炸裂するんだろうなぁ~」ってわかっちゃうので、びっくりしないのです。
所作に長けた演出が光る、様式美あふれる時代劇
ひさびさに品格を感じた時代劇だった。それは、細かく演出された武家の所作によるものに他ならない。割に作品によってムラがある平山監督だが、今回は見事な仕事ぶりだったと思う。
この作品での所作の確かさは、どれをとっても素晴らしいものだった。たとえば、殿様に主人公の兼見が謁見する場面、殿様よりはるかに下の位の兼見は、呼ばれても最初は襖ごしに話をするだけ、指示があっても襖の前の畳のへりは絶対に越えない、というのはこの作品における所作の確かを裏付けているものだ。テレビ時代劇などで、奉行の身の者が将軍の隣にいることがよくあるが、奉行ごときの身分が将軍様に近づくことなど、本当はありえないことなのである。
また、兼見の家の中の所作でも、食事の場面では、一番上座が主人、その下が手伝いに来ていた妻の妹、その下に下働きの女と、それほど重要ではない場面でも所作に配慮した演出をしていたのには感心した。
さらに、主人公と殿様に対立するご別家との決闘場面。普通の時代劇ならば、長い太刀を振り回すものだが、普通、城の中は太刀を使えないようにするために、柱などを低くして狭くしている。この作品では、そのサイズに合わせるように、小太刀を使った斬り合いを演出していたのも誉められていい部分だ。なぜ、それほどまでに所作にこだわったことが良かったのか。それは、時代劇独特の様式美が生まれるからである。
市井の者たちを主としたものに比べると、武家を主にした時代劇は、主じに仕える身の悲しさという物語が多く、それほど大きな変化はない。だから映画で武家社会を見せる場合、その社会独特の様式や品格を演出することが重要になってくるのだ。これを怠ると、ただの安ものの時代劇になってしまうケースがよく見られるが、特に藤沢周平原作の時代劇の場合は、武家のしきたりを重んじたものが多くなるため、余計に重要になってくる。この作品の場合、藤沢作品の最も大事なものをきちんと演出してみせた分、作品としての評価が上がるのは当然だ。特に、それが映画全体に人間的な美しさが醸しだされたのだから、平山監督演出の様式美は大成功だったと言うべきだろう。
ただ、こういう時代劇は、ある程度目を肥えた観賞眼がないと、本当に評価されない。見る側の我々が試されている、という点でも、この作品の位置するものは相当高いと思う。
武士はつらいよ。
武士の正義はどこにあるのか。
封建制度の頂点にありながら、己を通すことなどままならず、武士であることが己を縛る。太平の世なれば、己の強さが己を滅ぼす、悲劇。
勧善懲悪の単純な大衆向け時代劇ではない。どこか判然としない、もやもやとした気分にさせられる。どう考えても敵役の方が、善玉。世の中、そんなものなのか。
必死剣鳥刺し
ラスト15分に凝縮された武士社会の矛盾と愛。
「必死剣を使う時既に半分死んでいます」の前振りが「そうだったんだ」と理解できます。
ぼんくらな城主(社長)にこざかしい家老(専務)、有能な中間管理職も結局報われない社会だったんだね。
息絶えてなお…
試写会にハズレ…その時にストーリーをチェックしていたので
だいたい分かってるはずだったけど…
必死剣というのがどのような剣なのか確認したかった。
最近、吉川さん活躍されてますよねぇ…(^^♪
彼の別家としての言い分は下々の者にしてみると
本当にバカな藩主に意見してくれて頼もしいお人で
尊敬に値する人物だよね。
だから…女狂いの腑抜けな藩主にとっては疎ましい人物でしかない。
何とも理不尽だよね。
藩主がバカだとそこに働く人々の苦労は耐えない。
農民よりはマシだとは思うけどね。
妾の言いなりな藩主。その女のワガママ贅沢の為に
年貢米が増やされ…抗議したら打ち首なんて((+_+))
しかし…その妾を殺した兼見三左ェ門に同僚の武士たちから
賞賛の声は聞けない。
やはり藩主に逆らえない体質ゆえか…
妾を殺したからって、藩主の目が覚めて民百姓のことを考え
賢い人間になったかといえば…そうでもないし。
兼見三左ェ門のやった行為は報われるのか?
関めぐみの目がギョロっとしてるので
強欲な女のイメージにピッタリ。
魔女みたいでした。
で…トヨエツの相手の池脇さんですが…
もういい年のハズだけど何せ童顔なので
まるでロリみたいで…ちょっと二人のラブシーンは…犯罪みたいでした。
しかもトヨエツ…結構裸のシーン有ったけど…
何とも弛んだお腹でガッカリ(T_T)
映画に入る前に鍛えないのかな?
それもリアリティってことなのか?
この時代…(まぁ今もだけど)やはり男ありきですよね。
女の意見や自立などまるで考えられてない。
女はどこかに嫁ぐしかないのね。
だとしたら藩主の妾になった彼女は大出世したってことか…(^_^;)
で、自分の意見を言うとでしゃばり過ぎと殺される訳か…
今の方がまだマシ?
太秦じゃなかったことがいちばんのショック
東映の映画なのに、山形庄内の映画村で撮影とエンドロールにあった。なぜ、太秦じゃないんだろう。
写真のような精密画を得意とするイラストレータが話していたけれど、本物をみたままに描いてはダメなんだそう。人の目には、少し手を加えないと本物のようにみえないという。この職人技、時代劇にも大切なんじゃない。
おバカな監督が史実に基づいて合戦をCGで再現しましたなんて、得意げにいっていたけれど、それ問題外でしょう。時代劇は一定のルールを踏まえたうえで、エンターティメントに仕上げるのが職人技。CGで忠実に仕上げたなんて自慢したって、主人公がどこにいるかもわかならい。そりゃ実際の合戦はそうでしょう。でも映画では主人公がどこにいるかわかるような創意工夫、エンターティメント性がない、ぼんくら映画では、とってもじゃないが楽しめない。
その技を持っているのが太秦なのに、それに東映が配給なのになんで太秦で撮影しないんだろう。
で、映画の方は生きる支えを失くして死を覚悟して「連子」を殺害して、里尾と生きることを決めて生にこだわり始めたとたんに決戦を強いられる。
藤沢修平の小説のままなんだろうか。「連子」を殺す才覚がありながら、ぼんくら当主に相対する別家の帯屋隼人正に立ち向うのは、どうも納得がいかなかった。
人間の強さと弱さが現代人の心にも突き刺さる
セットはもちろん、所作や小道具にも気が配られた、久々の本格的な時代劇。カメラワークと効果音にもそつがない。閉門のための青竹は月日がたち薄茶となり、作物の茂る畑にはにわか雨が降り、やがて火鉢のいる寒い夜を迎える。さらにカメラは三左エ門に密かに恋心をよせる里尾の心情をとらえ、現代とは違う時間の流れを巧みに汲み取ってみせる。
現在と、過去の回想を交互に差し替えながら核心に迫る手法をとるが、度重なる回想シーンがほかの作品でよくあるようにうざったくない。ひとつは、男と女の機微を徐々にたぎらせていく様子を浮き彫りにし、いまひとつは、なぜ寛大な処分が下されたのか、最終的にその謎の核心を衝撃的に晒す効果に繋がる。
もうひとつ効果的な演出が、ラストの死闘における峰打ちだ。罪のない同胞を切ることにためらいを持つ三左エ門は刃を返す。だが、多勢に無勢、傷つくうちに刃は表に返され、柄を強く握りなおす瀕死の男となる。これは、連子を刺したときとは違い、生きる目的を持った男の心情の現れであり、同時に半死の状態ゆえ繰り出される秘剣“鳥刺し”に最高の出番を与える。
細かな演出の積み重ねが、武士道、藩政における個人、そして男と女の情愛までも描き、不条理ながらも一心に生きる人間の強さと弱さは、現代人の我々にも深く心に迫るものがある。
暇を出され、この屋敷、この男の傍を離れたくないという里尾の心情にはグッとくる。
池脇千鶴の泣きに泣かされた。
p.s. 勘定方の役で鯉昇師匠が登場。これがなかなかに巧い。しかも連子に責められる悲惨な役どころなのだが、師匠のお顔を拝見した途端、笑いがこみ上げてくるのを堪えるのは至難の業でござった。
池脇千鶴に拍手
冒頭、いきなり主君がぞっこんの側室を殺害する場面から始まり、次の展開を期待しましたが・・・・
豊川悦司はいつも通り、無口でシリアスな雰囲気だけの役。もはや、はまり役というよりこれしか出来ないのかな?と思ってしまいます。
タイトルにある「必死剣鳥刺し」も、終わってみれば何が奥義なの?とつっこみたくなる「技」であり、肩透かし気分満載なのです。
クライマックスの殺陣はなかなか見ごたえありましたが。
それでも平均点を差し上げる理由が池脇千鶴です。地味な顔立ちでこれまで何が良いのか分からなかったのですが、本作では彼女だけが救いとなっています。節々の感情表現も上手で、朴訥な(というより感情表現できない?)主役よりも惹きつけられました。
これで上映時間が80分くらいだったら完成度が上がったのではないでしょうか。日常生活の描写に時間を割き過ぎです。
殺陣のシーンにうっとり
豊川悦司と吉川晃司という2大好物が出てて、それだけでうっとり。ストーリーはなんか男に都合がいいような気もしたが、殺陣のシーンは文句なくカッコよかった。
女に惚けるムラジュンのバカ殿ぶりに爆笑してしまった。
ラストの立ち回りばかりでなく、想いを寄せる里尾の情感描写が細やかで素敵でした。
藤沢周平原作の剣客シリーズは、東北の庄内地方を舞台に、いつも運命に翻弄される主人公の剣客とその剣客が繰り出す奥義の剣をテーマに描かれています。
本作は、これまで映画化されてきた剣客シリーズのなかでも、一番不条理な結末に心を動かされ、そして予想だにしない奥義の出現シーンとその内容に脅かされました。
まさ触れ込みにあるとおり最後の15分の決闘シーンは圧巻で、時代劇作品の歴史に残る名作として語り継がれることでしょう。
特筆すべきは、寡黙な主人公兼見三左エ門を演じた豊川悦司の普段見慣れた時代劇への感覚を飛び越えた気迫ある演技です。台詞の数が少ないだけに、余計に強く感じさせられました。
それと同時に印象的だったのは、左エ門の姪でありながら密かに想いを寄せる里尾の存在。いじらしいほど感情を押し殺しながら三左工門の世話に喜々とする表情に、どことなく落語の人情噺を連想しました。落語好きな平山監督だけに、里尾の所作や表情の細やかな演出の付け方は絶妙です。その演出に答えて愛らしい表情を見せる池脇千鶴の演技が見事に填っていました。
思いが叶って三左エ門と一夜を共にした朝に見せる里尾の幸せそうな表情。それだけにラストに知人宅に預けられたまま三左エ門を待ち続ける里尾の姿に哀れみを感じさせられました。
原作は、“隠し剣″シリーズとして知られる藤沢の連作剣士小説の一編。舞台は東北・海坂藩です。豊川演じる中級武士の三左エ門が、失政の元凶となっていた藩主の側室をいきなり刺殺する場面から始まります。
もとより極刑は覚悟で刃傷でした。しかしそれに対する処分はなぜか1年の閉門。里尾の献身に支えられ生きる力を取り戻していきます。
ここでストーリーは、小刻みにカットバックされて、死別した妻のめいや里尾への思いを絡めて描かれます。けれども、寡黙な三左エ門は、過去の回想でも胸の内をほとんど観客にも語らろうとしません。
主演の豊川ですら「側室を殺す理由を始め、ひっかかる部分はあった。」とインタビューで語っています。しかしよく考えてみれば、「そもそも人間ってそんなに知的に自分を理解しているものでもない」と豊川も思い直して最終的には『わからなくてもいいんじゃないか』って演じきったそうです。
1年の閉門の閉門の後に三左エ門へ届いたのは、近習頭への異例の抜擢。しかし、取り立てた藩主は、三左エ門の顔を見たくないというのです。ここまで三左エ門の処分について何もネタバレされなったので、ますます何故だろうと疑問が深まりました。
それは中老・津田民部によって明かされました。
三左エ門が「烏刺し」という必勝の技の使い手であったことから、藩主家と対立しているご別家の帯屋隼人正との対決のために助命したというのでしたでした。帯屋は直心流の達人であり、藩内に三左エ門の他には敵うものがいなかったのです。
全てを悟った三左エ門は、里尾と一夜を交えた朝に、里尾を知人宅に向かうように言いつけます。そこで自分を信じて待てと。最後の15分の殺陣のシーンも良かったけれど、この二人が名残を惜しみつつ別れるところも人情細やかな描写で、なかなかよかったです。
ところでこのとき津田が三左エ門に烏刺しの別名、『必死剣』の意味を問いただします。三左エ門が答えて語るには、この剣を使うときは、重大な危機を迎えたときで、既に拙者は死んでいることでしょう。死して生きる剣だから「必死剣」という名前をつけたといいます。これはこの奥義がいつ繰り出すのか重要なヒント。烏刺しの描写は、平山監督と殺陣指導の久世浩が試行錯誤を重ねて考えたそうです。どこでどう登場するかは見てのお楽しみ(^。^)
見事、帯屋を討ち果たして、里尾の元に駆けつけるのかと思いきや、ここからが最終盤15分の壮絶な立ち回りの始まりでした。そして寡黙だった三左エ門の感情が爆発します。組織の不条理の直面したとき、主君のため剣を抜くが、恩わぬ策略を知り、その剣、形相は激変していくのでした。政道と己の生を必死に問いつづけつつ、迷いながらも襲ってくる剣を必死に払いのけ、仕方なく真剣であがらい始めます。
豊川はその時の心境を「三左エ門は自分の意思でほとんど感情を出さない。でも、立ち回りではその本質をのぞかせたかった」。といいます。そして「普段、何も言わない人が痛いって言うと、本当に痛そう。しかも、心も痛い、苦しい。そのニュアンスは絶対出したかった」 といいますが、本当の悲痛な三左エ門の心の痛みが伝わってくる立ち回りでした。
原作では「巨躯」と形容される主人公。約5キロ体重を増やして撮影に臨んだそうです。思い描いたのは「軟らかい岩」のようなイメージだったとか。「大きくて重量感があって動かなそう。でも、意外と色々な形に彫っていける」。
もう一つ、「東大出身の相撲取りのようなイメージ」もあったそうです。唐突なようだが、説明を聞けば納得できます。「すごく頭は切れるけれど、決して表に出さない。剣の達人も、むしろそう見えないものだったり、愛を語らない人ほど愛情が深かったりする。」豊川は三左エ門に関しては、そういう考え方で役作りをしたそうです。
普段時代劇を見ない方にも、きっと納得してもらえる傑作ですので、ぜひお勧めしたいと思います。
豊川悦司が役にはまっていた
時代劇によくある勧善懲悪に比べとっても切ない内容。人間の死がまた次の事件を生み最後まで流れるように続く。藩の城内で繰り広げられる人間の葛藤と不条理。主人公兼見三ェ門の姿は武士の孤独で運命に翻弄されつつ武士の生きざまを表していた。最後の殺陣は鮮烈な印象。
豊川悦司は哀愁を感じさせ役にはまっていた。
淡々としていると緩いは違う
藤沢周平原作の時代劇映画だが前半が死ぬほどつまらない主人公の日常を描いているつもりだろうが、緩急がまったくなく参った。映画全体が緩緩緩緩急というような展開なのだ。
最後の殺陣は悪くないし、役者はがんばっているが救えていない。ただし豊川悦司に池脇千鶴は似合わない。
太刀のシーンはこだわりが感じられました。
第1回シアタースタッフ映画祭の期待作10選の中に選ばれて上映されたのがこの作品で久しぶりに時代劇を観ました。江戸時代の人々の生き様や男と女のこの時代の恋愛(この時代の初心な感じを出した池脇千鶴と豊川悦司の演技は良かったです)などゆったりとした流れの進み方で最後に
戦うシーンがあるのですが刀で切られるところや血の出かたはすごいリアルでこだわりがみられました!切った刀に残ってる血などはこだわってるなぁ~と感じました。
江戸の世の事が良く出てる作品だと思います。
全35件中、21~35件目を表示