「光代は裕一の"闇"を見たのだろうか?」悪人 松井の天井直撃ホームランさんの映画レビュー(感想・評価)
光代は裕一の"闇"を見たのだろうか?
原作は鑑賞直前に滑り込みセーフで読了。
原作自体を特別に際立った内容だとは思わないが、数多く忘れ難い場面が存在する。映画本編を観た後で、「原作がああなのに、映画はこうだから…どうたらこうたら…」とは言いたく無いのだが、2時間とゆう尺に収める為には、原作の多くの部分を削り取る作業は否めず。上映時間の関係からか?映画単品だけを鑑賞すると、どうしても意味の解らない箇所が多くなってしまっている。
その中でも多少はやむを得ないところだとは思いつつも、《祐一》が出会う女性の中で、やはり風俗嬢《美保》のパートがバッサリと切り落とされてしまっているのが痛い。
実は原作を読んでいた時に、「この女とのエピソードって必要なのかな?」と思いながら読んではいたのですが。原作でも度々登場する、《祐一》がお母さんに捨てられるエピソード。映画の中ではお母さん役の余貴美子が唐突に登場するのですが。その大好きだったお母さんとの絆を、何とか繋ぎ止めて於こうとする《祐一》の思い。それを読者側に知らせる役割を果たしているのが、この風俗嬢である《美保》の存在だったのですが…。
彼女は時に突拍子も無い行動に出る《祐一》の事を、最後は気持ち悪く感じてしまい、やがては関係を絶ってしまうのだが。“愛に飢えた”《祐一》の心情を、第三者の目線で唯一理解していて、彼の本当の心の優しさを理解する女性でもありました。
しかし《美保》は、《祐一》を理解しつつも“同じ匂い”も持つ女性では無かった。《美保》に出会い、愛はお金によって買う事を知る《祐一》。出会い系で会う女性とは金銭的なやり取りをするのは必然と考える様になる。原作には描写されない《光代》に金銭を渡すが、それを拒否された事で初めて《祐一》の中で、今までと違う感情が芽生える。
《光代》も本当の愛に飢えていた。いつも同じ事の繰り返し。家の近くに有る国道。この近辺をただ行ったり来たりするだけの毎日。CD1枚買うのも考え込み引っ込み思案な性格には、自分で自分が嫌になる毎日を送っている。「誰かにここから連れ去られたい…」心のどこかでそんな叫び声を上げていた。
映画は驚くべきスピードで進んで行く。《光代》と出会うまでおよそ20分程度しか掛かっていない。原作で《光代》が登場するのは上巻の最後なのだから、そのスピードが解って貰えるかと思う。逆に後半の逃亡劇を1時間30分余りも掛けてじっくりと描いている。但しこの逃亡劇と併せて、タイトルの“悪人”に掛かる周辺の人の様々なエピソードが同時進行して行く。
原作には映画には無い良い点が有れば、悪い点も有る。逆に映画本編にも原作には無い良い点も有れば、悪い点もそれぞれ有る。
原作の良かったところとして、導入部に於ける峠の描写が素晴らしく、一気に読ませる。心霊スポットでも有り、事件が発覚した際に同僚の女性達の反応や、出会い系殺人を面白がりスキャンダラスに報道するマスコミの過熱振り。インターネット上では過剰に反応し、被害者の遺族を罵倒する。それらの理不尽な描写等は、その後の[[柄本明]]の行動に影響を与える。“ふしだらな娘”と蔑まれ、被害者で在りながらまるで加害者扱いされてしまう。直接の責任は一体誰に有るのか?
原作でセンセーショナルに報じられる事件の概要だが、映画でのマスコミ描写はおばあさん役の[[樹木希林]]に対して殺到する描写しかマスコミ側は描かれ無い。僅かにニュース番組で逃亡する《祐一》の顔写真が映る程度だ。だから後半《光代》が妹に電話を掛ける場面で、妹が怒っている描写は。世間からの出会い系の殺人犯と逃亡…とゆう世間体の悪さに対する怒りの感情が、どうしても伝わって来ない。
およそ2時間前後に収める…とゆうのはやはりなかなか難しいと思わせる。タイトル『悪人』とゆう意味の中には、報道で伝わる悪人が本当の悪人なのか?と問い掛ける意味も含まれるのだろうが。原作にはもう一捻り有る。事件の発端を作る《増尾》とゆう金銭的にも恵まれている男。映画の中では完全なる悪役として描かれるが、原作では小さい時から両親の嫌な面ばかり見てきた悲しい過去を持っている。
殺される《佳乃》に対して「あんたは仲居タイプだ!」と蔑むには、それだけの辛い過去があった。そんな詳しい過去が在るのだが、残念ながら映画にはその描写は無い。しかし、これは尺の都合上やむを得ないのだと思う。原作を忠実に描いてしまうと優に4時間近く掛かってしまうのだから。
その為にこの《増尾》とゆう人物を完全なる悪役として映画は徹底的に描く。それは《鶴田》の存在でも明らかだ。《鶴田》は《増尾》の人間的な弱さや、悲しい過去を知っているだけに、本当の悪役とは感じていない。
ただ周りにちやほやされて本当の自分を見失ってしまう《増尾》を不憫に思っている。
それだけに、被害者の父親とのいざこざの後での、原作には無い彼の行動で《増尾》を完全に“悪人”として際立たせている。
“悪人”で在って“悪人”で無し。
最後に《祐一》が起こす行動で《光代》は或る意味救われる。
この物語に存在する本当の“悪”は誰か?
ただ面白おかしく報道するだけのマスコミか?それとも、インターネットで過剰に反応し、ただ自分が面白ければそれで良い…と思っている人間か?それとも人の弱みに付け込んでは弱者からお金を搾り取る奴らか?
そんな中に在って樹木希林演じるおばあさんは、自分が直面する問題に対して正面から向き合う決心をする。
「逃げない!」
原作では、昔から欲しくて欲しくてたまらなかったスカーフ。明日のお米代にも事欠くのに、思い切ってスカーフを買う。おばあさんにとっては、騙し盗られたお金以上に、可愛い孫が犯人だとゆう事実がどうしても理解出来ない。おばあさんにとっては事件現場に出向き、事実を認める事こそが本当に逃げない事だった。映画の中ではそれを強調する為に、スカーフは《祐一》から貰った設定になっている。
原作・映画共に、おばあさんが《祐一》は「本当に人を殺してしまったんだ…」と自覚するのが、バスの運転手[[モロ師岡]]とのワンシーン。
それまでは「絶対に違う!」と思い続けていただけに、あの一言が染みる。
実に印象的な場面ですが、元々原作でも唐突に登場する。このバスの運転手との触れ合いの場面が、前半に幾つか有ったら…と惜しまれる。原作自体は新聞小説だっただけに、思い付いた時にはもう遅かったのかも知れないのだが、せめて映画の脚本の中では滑り込ませる事は可能だったのに…と。
だらだらと不満点を書き連ねてしまったので、映画の良かった点を。
出演者は殆ど全員が素晴らしい演技で、1人1人を観ているだけで満足出来る。中でも[[満島ひかり]]と[[岡田将生]]の存在感は抜群。2人とも素晴らしい汚れ役です。
柄本明と樹木希林は流石の演技。間違い無く賞レースに絡んで来るでしょう。
そして肝心な主人公の2人の[[妻夫木聡]]と[[深津絵里]]。
妻夫木聡のダメ男振りは原作を超えているかも知れない。但し原作を読んだ時にも、この男がこの状況でつい思わず《佳乃》の首を絞殺してしまう理由は、今一つ釈然とはしないのですけども…。
妹の部屋を見て、妹が恋人といちゃいちゃしていた様子を想像する深津絵里。確か原作にその様な描写は無かったと思うのだけれど。仕事場と自宅をただ行き来するだけの毎日に対して、嫌気を覚える。
だから戻って来た《祐一》との逃亡劇での異次元な感覚に、貪る様に抱き合う2人。
とかく“悪”なイメージが付き纏う出会い系。その中で作者は、全ての利用者の中で多少でも“真実の愛”を求め、アクセスして来る人も居るのじゃないか?とゆう視点に立っている様にも見える。勿論そんな人はほんの一部でしかないとゆう冷ややかな視点も交えて。
「俺はあんたが思う様な人間じゃない!」
警官隊が突入する直前に突如《祐一》は“悪人”へと変身する。
直前には《光代》が帰って来ない事で、子供時代の様に再び独りぼっちになってしまう事の悲しさを思い出す。
原作では絶えずマスコミから非難される《光代》を気遣うが故の行為と思わせる。実際に《光代》もそう感じてはいるのだが、ラストで「本当にそうだったのだろうか?ひょっとして…」と、謎を残して終わる。
そんな原作を読んだ際に感じた最後の違和感は、読者が共通して「そうであって欲しい」との願いからだった。
でも作者自身はそんな読者の願いを突き放す意図が在ったのかも知れない。まるで《美保》が《祐一》の優しさを知れば知るほど“恐怖感”を覚えた様に。
映画本編も、観客が願う“真実な愛”を求め合う2人…と思いながら結末を理解すると思う。原作では2人で初日の出を見る場面が映画でも挿入されており、その思いを募らせられる。
だからこそ、タクシーの中での最後に《光代》が呟く一言には、単純では計れない思いが散りばめられているのかも知れない。彼女もあの瞬間には《美保》が感じた《祐一》の真の闇の心を覗いたのだろうか?
色々な解釈が成り立つエンディングになっている。
原作同様に映画本編でも、その様にはっきりとは示さないそのスタンスが実にもどかしく。ちょっと厳しい見方をしましたが。今後時間が経って再見した際に、自分でどの様に感じ・解釈するのか?…考えさせられもしました。
※正直なところ最後に関しては自信が無いから“逃げた”感想になっています。そんな情けなさっぷりは《佳乃》から見た《祐一》並です(汗)
(10月21日TOHOシネマズ西新井/スクリーン3)